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旋風のプリマヴェーラ  作者: 紺野久
第三章 GⅢ クイーンステークス
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教えて、調える

 狭山厩舎にツマツヒメという二歳の牝馬がいた。

 ツマツヒメは狭山が営業に回って集めてきた、札付きの問題児の一頭だ。


 この馬は一歳時に、牧場へ勝手にやってきた人間に苛められた過去があった。この出来事はツマツヒメに完全なトラウマとなって根付き、元々小心者で気弱な性格が、より深くなってしまった。


 自分よりも小さな猫を見て怯え、馬房にこもることを好み、外に連れ出そうとすると泣き出した。


 馬主と付き合いのある調教師は匙を投げ、競走馬になることを諦めたほうがいいと馬主に忠告した。

 

 

 ツマツヒメは、父がトップサイアーであるワインレッドハートーーそれもラストクロップの一頭ということで、生まれた時から馬主と牧場とで期待された馬だった。それに、馬主にとってこの馬の母親は思い入れのある馬で、年齢的に最後の子供だった。簡単に諦められるものではなかった。


 調教師が預かれない、ということで他を探す必要があった。

 そこで馬主は狭山信彦を紹介され、彼が預かることとなった。

 

 馬は本能で競争をする。それは人間の手によるものではない。彼らは生まれながらにして、闘争本能がある。

 ツマツヒメがそうなるまで、狭山は待つことにした。

 

「調教ってのは忍耐だ」


 と彼は常日頃からスタッフに言っていた。

 そもそも馬は人間に走らされている。もともとトレセンも競馬場も、彼らにとってストレスの多い場所だった。人間のいうことを聞かないのはそもそも当然のことだった。


 しかし、トレセンに来ていたながら何もしないわけにはいかない。

 そこで、彼はツマツヒメを誰もいない夜にトレーニングを行うことにした。


「けど先生、ツマツヒメは走る気がないんです。いつまで待てばいいか……」

「いや、走る気はある」


 トレーニングを嫌がらないのは、その証拠だ。彼女は競走馬として、頑張ろうとしている。ツマツヒメに必要なのは、自信だった。


「ただ、プリマヴェーラには会わせないようにしろ。あいつはここぞとばかりにしゃしゃり出てくるからな……」


 もちろん、その警戒は意味がなかった。

 いつの間にかプリマヴェーラはツマツヒメに会っていて、一緒に遊んでいたりするのだ。


 不思議なことに、ツマツヒメはプリマヴェーラには心を開いた。

 調教を夜に行わず朝になったのも早かった。プリマヴェーラがそこにいるからだ。



『ツマツヒメが立ち直れたのは、プリマヴェーラの功績が大きい』


 彼女の行動を危ぶむ狭山だったが、さすがにそれは認めていた。

 夜行っていたトレーニングもほかの馬と一緒に早朝からできるようになり、徐々にだが、性格が前向きさを示すようになった。猫は相変わらず苦手の様子だったが。

 

 七月、プリマヴェーラが札幌に移送されることになったため、彼女はついていきたい、と申し出てきた。

 

「あいつは遊びにいくんじゃねえ」


 そういって断ったが、狭山は「ただ、競馬をしに行くのなら話は別だ」と続けた。

 要するに、新馬戦に出るのなら北海道に移送すると言っているのだ。


 ツマツヒメは、競走馬だということを自覚させてやらねばならなかった。レースに出るからこそ、競走馬は存在を許される。


「お前さんは、期待されているからここにいるんだ。甘やかしているわけじゃねえ」

「……期待されて?」

「ああ、レースに勝ってくれると信じているから、お前さんはここにいられる」

「……」

「お前さんの頑張り次第じゃ、重賞レースやGⅠレース、プリマヴェーラにだって勝てるかもしれねえ」

「ねえさんに……!」


 それまで俯いていたツマツヒメは顔を上げた。

 この馬は臆病だったが、負けん気が強い。狭山はそれを知っていた。


 競馬に絶対はない。しかし努力をしなければ、それを覆せる条件を満たせない。

 馬は、悩み、うん、と頷いた。


 こうして彼女は北海道へと移送された。

 


 しかし、ツマツヒメが札幌競馬場の厩舎に入厩し、プリマヴェーラと共にトレーニングを開始した早朝、事件が起こった。


「どけろ」


 ディアギレフがツマツヒメを突き飛ばした。折り悪くそこは前日に降り注いだ雨のせいで水たまりになっていて、ツマツヒメは全身、泥にまみれてしまった。

 彼女は自分に何が起きたのか最初理解が出来なかった。ややあってから、自然、大粒の涙が目じりに溜まってきた。


 ディアギレフはこの件に関し、「邪魔だから突き飛ばした」と答えている。

 ツマツヒメは初めての札幌競馬場、そして見知らぬ人と馬にかなり戸惑っていて、脚がすくんでいたのだった。非は明らかにディアギレフにあった。彼女はこのところ終始カリカリしていていたのも理由だったかもしれない。


 プリマヴェーラは一回りも二回りも大きな牝馬に、ずかずかと詰め寄った。


「やい、やい、やい、やい、やい!!!」


 詰め寄られた大柄な馬は、プリマヴェーラの声が近づくにつれて、何事かと振り返る。自分よりもはるかに小さな馬が迫ってくる。その馬が見上げながら、怒鳴り散らしてくるのだ。


「てめえ! どういうつもりだ!! 何で突き飛ばしやがった!!」

「プ、プリマヴェーラ!」

 

 三浦が、慌ててプリマヴェーラを止めに来た。詰め寄った結果、襲い掛かられたらこの小さな牝馬は怪我では済まなくなる。対面するこの大柄の馬の粗暴ぶりは、厩務員の間でも有名な話だった。


「ディアギレフ! なんてことをするんだ!」


 彼女の担当厩務員もその間に入った。

 何しろ彼女らは時速40kmを走ることができる脚がある。喧嘩になった場合、どちらもただでは済まなかった。

 しかし、すぐにその必要はなくなった。


 ディアギレフが自分のトレーニングのため、その場から走り去ったからだ。 

 

「にげるなーーーーー!!!!」


 プリマヴェーラの声は、調教馬場の端から端まで届いた。


 二歳の牝馬は、涙をこらえて全身についた泥を払っている。


「アネさん……」


 ――何でヒメがこんな目に遭わなきゃいけないんだ!


 プリマヴェーラは憤った。ディアギレフの厩務員が謝罪したが、到底、納得ができない。ディアギレフ自身が謝らなければ、何の意味もないではないか。


 ――覚えてろよ。今度会ったら……


 その願いは、次の日に叶うことになった。

 ディアギレフは、クイーンステークスに出走する馬だったのを、彼女はパドックで知ったのだった。

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