狭山信彦の憂鬱
狭山信彦は、このところ忙しい毎日を送っていた。
調教師は多忙を極める。管理馬の体調にも気を配り、調教のスケジュールも決め、競馬場に赴いて出走を見守る。また、馬主との会食や、外厩に預けた馬の様子を見に行ったり、これから入厩する牧場の若駒の様子を見ることも仕事の内だった。一週間の間だけで、北海道から九州まで駆けまわることなんて珍しくもない。
狭山の場合、竹三がいたから馬だけは湯水のごとく手に入った。西園の馬を預かる調教師は、まったくいなかったからだ。そのおかげで、他の調教師よりも随分とのんびりとした毎日を送ることができていた。
ところが竹三が亡くなり、馬房が大量に空いた。それを埋めるために、ようやくにして狭山は調教師として多忙の日々を送ることになったのだ。
昔の伝手に頭を下げ、どうにかこうにか、馬房は埋まりつつあった。もっとも、集まってきたのは札付きの問題児どもで、またそれが狭山の頭を悩ませる要因になっていた。
「全く、おっちゃんも苦労が絶えねーなあ?」
問題児集団の筆頭はプリマヴェーラである。
金曜日。クイーンステークスまで、残り三日となったその日。狭山は北海道へと赴きプリマヴェーラの馬房を訪れていた。
調教師の仕事は、管理馬の調教だけではない。作戦を考えるのも仕事の内だった。しかし、この時は彼女に釘を刺すことが大きな目的だった。
「お前さんね、あまり我儘を言うんじゃないよ」
馬は首を傾げて、尋ねる。
「何のことだよ?」
「お前、お嬢さんを泣かせたそうじゃないか」
「泣かせた覚えはねー、勝手に泣いたんだ」
「減らず口を言うな。お嬢さんが来ても無視しているんだって?」
狭山がじろりと睨むと、プリマヴェーラは口をとがらせて、「だったら何だってんだ」と目を剝いてきた。
「無理言って馬主になってくれたんだ。あの人が決断していなかったら、お前さんは競走馬になれなかったんだぞ」
「先生、でも最近はお嬢さんとも話をするようにはなりましたから……」
と厩務員の三浦がフォローをすると、プリマヴェーラも同調した。
「そーだそーだ。オレはデリケートなんだからな。もっといたわらねーといけねえ」
「自分から言うやつがいるか――大体……」
と狭山は心の奥底で生じた言葉を飲み込んだ。
--へそを曲げられたら困る。しかし、どうにもこの馬だけは……
狭山からしてみれば、この馬の行動は気が気じゃなかった。
気に食わない厩務員や調教師に食って掛かるのは日常茶飯事で、馬同士のもめごとに平然と首を突っ込み、トラブルに自ら飛び込んでいた。
狭山信彦は、この馬が心配なのだった。
もちろん、彼女が並外れた馬であることも理由だが。
--自分じゃあ、意識しまいとしているが……
彼女の母親を、狭山は世話したことがあった。
プリマヴェーラは知らない。母親はおそらく、競走馬であった自分のことを語らなかったはずだった。
--その罪滅ぼしってわけじゃねえが……
ふーとため息を漏らし、老調教師は管理馬に向き直った。
「馬には馬の領分ってのがあるんだ」
どうにもプリマヴェーラは、自分が馬であることを時折忘れている。
狭山が怖いのは、人の目と耳、そして口だ。風聞や外聞で駄目になるのは、何も人に限らない。
「馬よりも人の方が面倒な生き物なんだ」
テリトリーを害されなければ、大概付き合いというのは上手くいく。その領域を、プリマヴェーラは安々と越えてくる。美徳ではあるかもしれない。しかし、悪い癖でもあった。
「勿論、それで助かっているところもある。けどな、特に人間に対してはきっちり線を引いておかないといけないよ」
事実、プリマヴェーラのお陰で救われている馬もいる。しかし、もっとこの馬は、自分のことを考える必要があった。
ベテランの調教師の言葉を、小柄な牝馬は全く聞いてもいなかった。机に、色々な髪型をした自分の姿がプリントアウトされたものが置かれていて、それを凝視していた。
「なあ? どのオレでクイーンステークスへ行くべきだと思う?」
真剣な表情で横にいる三浦に尋ねていた。人の気も知らないで……狭山は心の中で嘆息した。
――この馬は一度大きな壁にぶつかった方が良い。
何でもかんでも、自分ならうまくいくと勘違いをしている。
自信というのは厄介で、ないと大きなことはできないが、ありすぎると身を滅ぼす原因となる。
夏の目標は北海道日経オープンで、重賞にエントリーする予定はなかった。
クイーンステークスに出走したのは、強敵がエントリーしていたからだ。
ディアギレフ。昨年の2歳女王だった。




