95話 肯定
「べつにさ。……逃げても、いいんだよ?」
……その、静かな言葉を受けて。
抱きつかれたニィナの体温をぼんやりと感じつつ、エルメスは答える。
「……貴女が、それを言うのですか」
「ボクだからこそ言うんだよ」
意図せず、少しばかり戸惑いのような声色が混じった。
何故なら思い返すのは、学園での話。
学園に強く残っていたこの国の風潮にうんざりして、何もかもを見限ってこの国を出て行こうとした……有り体に言えば、この国から逃げようとした時。
エルメスを──サラほど明確ではないものの止める側の人間だったニィナが、今はそういうことを言ってしまうのかと。
「学園でのこと、思い出してる?」
そんなエルメスの思考の流れを見通すように、ニィナが続けて囁いた。
「まぁねー。あの時はこの国を見限る側だったキミが、今は迷ってる。それは多分良いことなんだと思う。それだけ大切なものができて、責任感も強くなって。
──でも、だからこそ言うよ。逃げても良いって、何度だって」
ぎゅっと、強張りを解すように更に体温を伝える。
「学園でのキミは……言い方はあれだけどちょっと、人間じゃなかった。だからこそ周りを顧みずあんなに派手なことができたし、それで変えられたことも多くあった。
でも、今は違う。キミは当たり前の感情を知って、当たり前の恐怖を知った。そうやって、学びたかったことを学んで……」
そうして抱擁を緩め、至近距離からその金瞳を向けて。
「そういう普通の男の子になったキミには。今背負っているものは、あんまりにも酷すぎる。それでいいんだよ。それが『普通』で、今までがおかしかったんだ」
「……でも」
彼女の言い分も分かるが、とエルメスは反論しようとして。
「分かっています。今僕が動かないと、この国はきっと、無くなって──」
「──たかが国一つだよ」
ニィナの、あまりの言葉に。さしもの彼も目を見開く。
「……ごめん、今のはリリィ様には内緒にしてね。
でも、これがボクの本心。少なくともボクにとってはこの国よりも、キミ一人の方がずっとずっと大切だ」
そんな彼に向かって、真正面から真摯に。
想いを伝えたが故の強さをもって、ニィナが語りかけ。
「だから、いいんだよ。
この国を見捨てたっていい。たった一人が見捨てるだけで滅びるような国が悪い。
魔法を高める理由が見つけられないなら、立ち止まって良い。これ以上進むことを放棄したって良い。そもそも、人が一生で進める距離なんて限られてるんだから。
……そして」
その上で、満を持して。
とびきりの殺し文句を、甘やかな決意を秘めた声で。
「──キミが何を選んでも絶対、ボクはキミについていくよ」
「…………それ、は」
再度、瞠目してから。エルメスが言葉を絞り出す。
「……僕が、ここまできた上で放り出すような人間に成り下がってもですか」
「うん」
「っ、僕が、これまで人生を捧げてきた魔法を棄てて。何もない空っぽの人間になってしまってもですか」
「そうだよ」
肯定する。
受け入れる。
見たことのないような包容力を湛えた笑みと共に、彼女は静かに言葉を紡ぐ。
「……ねぇ。ボクはさ、ずっと恋がしてみたくて。今、キミに恋をしている」
改めての、彼女の願いを、告げた上で。
「その形は、多分人それぞれで違うものかもしれないけれど──」
ニィナは、己の想いの形を、こう語った。
「少なくとも、ボクは。──たった一つの在り方しか認めないものを、恋とは呼びたくないよ」
「!」
「ボクを助けてくれた時のヒーローみたいなキミの在り方を、いついかなる時も強要して。呪いをかけて地獄に叩き込むような女の子には、なりたくない」
だから、受け入れるのだと。
どんな選択をしても、何を選んで何を棄てても。自分は肯定して、ついていくと。
他の人とは違う、明確な願いを持たず。だからこそただ純粋に彼を想う少女は──もう一度、柔らかく彼を抱擁する。
「だから、さ」
そうして、甘やかな感覚と体温を伝え、静かに手を這わせる。
余分な力を奪うように。あらゆるしがらみを解きほぐすように。
それこそ、堕落に誘う魔性の如く。けれど心からの優しさで、彼女は最後に。
「ボクは強要しない。この先、どんな選択をしてもキミの自由だ。
だからこそ、覚えていて欲しい。『逃げる』っていう選択肢が、ぜんぜん悪いものじゃないってことと──」
最大限の、愛情と恋慕を乗せて。言い切るのだった。
「──何があっても、ボクはキミの味方だってことは、さ」
「…………ニィナ、様」
エルメスの呟きを最後に、ニィナはゆっくりと彼から離れて。
「……うん、ボクのお話はこれでおしまい。なんだか後がつかえてるみたいだし……ゆっくり、しっかり考えてくれると、嬉しいかな」
言いたいことは言い切った様子で。緩やかに背を向けて、病室を去っていくのだった。
◆
後ろ手で扉を閉め。
一つ、大きく深呼吸をしてから。歩き出すと同時、ニィナは呟く。
「……はぁ、緊張した」
そう告げる彼女の表情は、若干紅潮している。
それもそうだ。普段の言動で勘違いされがちだが、彼女とて年頃の少女。
異性と……しかも好きな人とあれほどまでに大胆な接触をして、平静でいられるわけもなく。実は未だに抱きついた時の彼の感触を思い出して悶えかねなかったりしている。
けれど、その甲斐はあって。
今の自分が、彼に伝えるべきことは。きちんと過不足なく、伝えることができたと思う。
……でも、故にこそ。
「……悔しい、なぁ」
ぽつりと、本音が溢れた。
言ったこと自体は後悔していない。自分は彼の選択の全てを肯定するつもりだし、何があっても彼への想いは変わらないし揺らがない。たとえこの国から逃げ出したってついていくつもりは全然ある。
──けれど、それは裏を返せば。
彼が何を選択するか……彼自身の想いには、彼女は何一つ影響を及ぼせないということの証左に他ならず。
それは、彼女のスタンスの良いところでもあり業でもあるのだろう。
彼女はエルメスに関する以外の願いを持たないために、彼の望みを全てあるがままに受け入れ寄り添える。
一方で、彼を導くことは──やっぱり、できないのだ。
今の自分は、そういう存在であれることが。
誇らしくもあるけれど……それでも、一抹の悔しさは消せない。
「……」
多分、そう思っているのは自分だけではないだろう。
彼にたくさんのものを貰って、何かを返したくて。でも自分達は彼へのスタンスがあまりに様々だから、どうしても自分一人ではどうしようもできない彼のことはあるのだ。
そして。
そのために──今の彼女たちは、一人ではないのだろう。
「……言うことは、決まってるの?」
ニィナと入れ替わるように。
前方から歩いてきて──彼女の声かけに静かに頷いた二人。
「そっか。じゃあ……後は、お願いね」
少しだけ、寂しそうに。けれど喜ばしそうに笑って。
ニィナは、続く二人……サラとアルバートに、言葉のバトンを渡したのだった。
次回、次の二人のお話。お楽しみに!




