44話 万里の極黒
その異変には、当然学園の全員が気付いていた。
まず学園全体が薄暗くなった時点で皆が外に目を向け、漆黒の壁に覆われているのを確認し。
それに対するパニックが起こる──その間も無く。学園全体に、地響きが鳴り渡る。
「……え」
その呆然とした声は、誰のものだったか。
だが、無理もない。その光景は彼は、いやここにいる者の大半が見たことのないものだっただろう。
──地平を埋め尽くすほどの、黒い魔物の群れなど。
魔物が群れをなすことに例が無いわけではない。そもそもそういった性質を持つ魔物だっているし、迷宮から魔物が溢れ出す現象、通称大氾濫では今回のように多様な魔物が混成して襲いかかることもある。
しかし、それらとは大きく違う点。
その中でもとびきり分かりやすく、絶望的な相違点。
あまりにも、多すぎる。
大氾濫でもこんなものなどあり得ない。それこそ学園全てを呑み込んでも余りある程の魔物の大群。それがあろうことか黒い壁の向こうからすり抜けてやってきており、尚尽きる気配がない。
異様な光景。唐突な暴虐。そして何より……そもそも、何故この学園に突如こんなことが起きる。
疑問と恐怖と混乱で、学園はあっという間にパニックに陥った。
「うわああああああ!!」
「な、なんだこいつら! いったい何処から、何が、どうなって──!」
「こ、ここをどこだと思っているんだ──ひぃい!」
放課後とは言え比較的浅い時間だったこともあり、未だ学園には多くの生徒や教員が残っていた。
例外なくその全員は混乱の極地に叩き込まれ、多くはただ恐怖に突き動かされるまま校舎内への逃亡を開始した。
しかし、そんな中でも別の行動を取る者が、少数ながら存在する。例えば、
「──ふん、誰も彼も情けない!」
自信満々で逃げ惑う生徒達を押し退けて前に現れた、Bクラス担当教員であるガイスト伯爵など。
他にも幾人かの教員と、腕に覚えのある生徒が魔物の群れを真っ向から睨んでいた。
──とは言っても。
彼らの胸中を占めているのは、この学園を守るなどと言ったご大層な志ではない。
「多少数が多いとは言っても、所詮魔物じゃないか。この程度で慄いてしまうとは、やはりまだまだ子供と言ったところか」
「そうとも! これを機にもう一度教えてやらねばなるまい──この学園を守り、生徒達を導けるのは我々しかいないことを!」
ガイスト伯爵が宣言し、他の教員が追従した通りだ。
彼らの心にあるのは、『たかが魔物』と侮り自らの魔法で問題なく処せるとの自負。これまでは己の血統魔法で苦労せず魔物を倒せたことからくる自信。
そして……現在ユルゲンを中心に受けている突き上げを黙らせるための圧倒的な戦果──例えば学校を襲撃した魔物の大群を華麗に撃退したなど──を欲してのこと。
かくして、自らの勝利と活躍にこれまで通りなんの疑問も抱かず、ガイスト伯爵をはじめ立ち向かった者達は魔物の群れに真っ向から突撃した。
ガイスト伯爵の正面から現れたのは、大きな蜂型の魔物の群れ。
「この程度の魔物の群れで私が怯むとでも。私は大氾濫に幾度も立ち会ったことがあるんだよッ!」
そんな群れに向かって、伯爵は魔力を高め、詠唱を唱えて。
自らが持つ絶対の自信、その根拠たる魔法を放つ。
「血統魔法──『霹の廻天』!」
応じて現るは、雷の魔法。
彼が伯爵家を継ぐことのできた最大要因である、非常に強力な雷の帯があたり一面に展開する。
そのまま、それが群れへと一斉に襲いかかり。焼き尽くすに十分な火力が、蜂の魔物を丸ごと呑み込んで──
──彼らが、『たかが魔物』と油断できたのは、そこまでだった。
空気が焼ける匂いと、砂煙が晴れた先でガイスト伯爵が見たものは。
「……な……」
黒い、球体だ。
人間大ほどの直径を持つ大きな球体。
それが、蜂の魔物たちが一斉に寄り集まって形成したものと気付くのに、さして時間は掛からなかった。
所謂、密集陣形。
一箇所に固まり、攻撃を受ける面を減らすことでダメージを最小限に抑える防御用の陣形。今回はガイスト伯爵の雷を防ぐためにより完璧な形で、蜂の魔物が寄り集まって球状の密集陣形を形成した。
それは完璧に功を奏しており、雷の魔法が直撃したにも関わらずやられたのは球の外側にいた個体のみ。肉体が盾となり、中の魔物には一切雷が通っていない。
結果、伯爵の渾身の魔法は一割にも遠く及ばないほどの犠牲で済まされてしまい。
ぶわっ、と球体が解除され、残る無傷の魔物が一斉に針を突きつける。
「な──なんで、魔物が、こんな──っ!」
決めるつもりで、決まると疑わず魔法を放った伯爵はひどく狼狽する。次の攻撃には溜めが必要で、そんな隙を見逃す気が向こうにないことは明らか。
「く──ッ!」
成す術なく、伯爵は一旦逃走する。
容赦なく追い立てる蜂の魔物たち。どうにか逃げつつも雷の血統魔法で迎撃し、少しずつ数を減らしていく。
そして数分ほどの逃走劇ののち、辛うじて蜂の魔物たちを追い払うことに成功した。
「はぁ、はぁ……この、魔物如きが、私にこんな手間を──!?」
だが、彼は直後に気付く。がむしゃらに逃げていた自分の現在位置。
──巨大な熊と虎が融合した魔物の群れに、取り囲まれている現状を。
「……そん、な」
逃げていたのではない──『追い立てられていた』のだ。
それに気付いたその瞬間には、最早逃げ場などどこにもなく。どうにか突破するしかもう道は無いと悟った伯爵に、更なる絶望が襲いかかった。
ごう、と伯爵の右前方が赤い光を放つ。
見るとそこには、木の上に登った鼠ほどの大きさの魔物。その魔物が、口から拳大ほどの炎の塊を吐き出す。
それ自体は問題ない。魔物は魔法を扱う個体も存在するし、この魔物はその中でも弱い方。あの炎単体に大した脅威はない。
問題は。
その魔物が、ほんの百匹ばかり木の上に密集し。
その全員が炎の魔法を吐き出し、寄せ集めた結果……ガイストを呑み込んで余りあるほどの巨大な炎球に成長していることである。
防げない。今の自分に、あの魔法を防ぐ手段はない。
かといって、逃げることもできない。自分の周りは巨大かつ屈強な魔物が取り囲んでいる。
つまり──詰み。
「ひ──ッ」
そう直感してしまったガイスト伯爵が、ここでようやく恐怖で顔を引き攣らせる。
彼は戦場の経験が豊富だった。宣言通り、大氾濫にも何度だって立ち会った経験があった。
だが、その全てが楽勝であり。追い詰められた経験が例によってなかった。
故に、これを打開する策など思いつけるはずもなく。
恐怖と自失の表情を浮かべたまま何もできず、木の上の魔物たちが満を侍して炎球を放つ。
それが成すすべなく、ガイスト伯爵へと吸い込まれ──
「──『救世の冥界』っ!」
紫の光で、それが阻まれた。
同時に周囲の魔物へと襲いかかる、紫色をした半透明の兵士たち。木の上の魔物たちはその戦闘能力で薙ぎ払い、大型の魔物たちにも纏わりついて動きを封じる。
あまりに状況が急変した結果、茫然自失の表情で立ち尽くすガイスト伯爵。そんな彼に、後方から美しくも鋭い叱責の声が響く。
「──下がって! 今のを見たら分かったでしょう。あれは……私たちの知っている魔物の群れじゃない!」
その声の主、カティアの方を伯爵は見やる。
だがそれだけだ。恐怖に支配された伯爵は、彼女の上からの物言いにも反論できず、彼女がかつてBクラスで手酷く扱っていた生徒だということも忘れて。
彼女に言われるまま、這々の体でその場を離脱したのだった。
◆
「そういう、こと……」
かくして一拍遅れて戦闘に加勢したカティアは、まず歯噛みする。
その顔に浮かぶのは、疑念ではなく納得。
何故なら彼女は事前にエルメスから聞かされていたのだ、クライドの魔法の正体について。加えて、その系統の魔法が持つ特徴も、彼の知識の限り。
つまり──この現象を起こしているのがクライドであることは、既に彼女も確信していた。
目的は一旦置いておく、どうせろくなものではないだろうし。あの学校を覆う黒い壁も、油断はできないが現時点での直接的な被害がない以上一度脇によけよう。
今最優先に考えるべきは、この魔物の群れのことだ。
……だって、明らかに異常だ。先程のガイスト伯爵を追い詰めた動きにも、それは顕著に表れていた。
高度な陣形変更による被害の最小化。
逃げる獲物を特定のスポットまで誘導する巧みな追い立て。
同系統の魔物が集い力を合わせることで高い戦果を生み出す協調。
等々──まるで人間が行うかのような高度な戦術をあの群れは駆使しているのだ。
そして、そのからくりについても彼女はおおよそ辿り着いていた。
エルメスは先日クライドの魔法……『魔物を操る』系統の特徴について、こう言っていたのだ。
『この手の魔法には、二つの特徴があります。一つ目は、魔物を操作できるようになるまで一定の条件が存在すること。そして二つ目は、操った対象に特定の強化を施せる点です。その内容は魔法次第ですが──分かりやすいものとしては、魔力や膂力等単純な基礎能力の上昇あたりでしょうか』
一つ目は置いておく。問題は二つ目だ。
操った魔物に、特定の強化を施せる。その情報に加えて、クライドのこれまでの犯行、そして現在の現象から推理すれば、強化の内容も概ね見えてくる。
あの事件たちは、クライドの無意識下の魔法発動によるもの。にも関わらず魔物たちがあんな──仮にも『人間がやった』という先入観こそあったとは言え、それでも他の人間に察知されない、完璧な犯行を遂行できたこと。
そして、現在魔物たちが高度な戦術を駆使していること。これは指揮官の指示だけでどうこうなるレベルを超えている。そもそもクライドにこんな高度な指示ができるとは到底思えない。
ならば、答えは一つ。
「追加効果は──魔物の『知能』の強化。よりにもよって──っ!」
それが意味するところは、とてつもなく大きい。
これまでの魔物の大群、例えば大氾濫によるものなどは、こうではない。各々が好き勝手暴れ回るだけだ。強力な主に率いられた時だけは例外だが、だとしても大した連携は取れていない。
だが、これは。魔物の一匹一匹が高度な知性を持ち、それらを共有して連動、戦術すら駆使してこちらを追い詰めてくる。
それは最早群れではない。軍隊と変わらない。
つまり自分たちはこれから、これだけの数に加えて、効率的な連携と戦術を操り、極めて効果的に魔物の命を使って追い立ててくる存在。つまり──
──魔物の大軍、を相手にしなければならないのだ。
それこそがクライドの血統魔法、『万里の極黒』の真価。
その脅威度は、これまでの概算など軽々と飛び越える。
加えて、この学園全体を覆う桁違いの物量。
不自然なほどだ。ひょっとすると、彼の影にちらつく協力者から何かしらの援護を受けたのかもしれないが……ともあれ、眼前の脅威には変わりない。
「…………まずい」
そして、現状を分析したカティアは歯噛みする。
一応、後方では既にサラが校舎全体を『精霊の帳』で守ることによって魔物の侵入を防いでいる。
だが、あれは魔力消費が大きい。校舎全体を覆えるほどのサイズとなると、いくらサラでも長時間は保たないだろう。それ以前に現在の魔物の攻勢に耐えられるかどうかも怪しい。
つまり、その間に戦線を整える必要がある。そのためカティアは既に限界まで幽霊兵を派遣しているが──この相手ではいずれ学習、対応されて何処かが突破される。策を打つ余裕も現在の彼女にはない、そうなると。
もう少し耐えられればまた状況は変わるが、今はあまりにも……
「手が、足りない……!」
となると、遺憾だがこの瞬間だけは手を借りざるを得ないだろう。そう考え、カティアは先程助け、今も自分の後方にいるガイスト伯爵に話しかける。
「……先生、力をお借りしたいです。先程のように突出する必要はありません。私の魔法の援護が厚いところから確実に、敵を減らして──」
だが。
ガイスト伯爵からの返答は、あまりに予想外のものだった。
「む、無理だ……!」
「──はい?」
「あ、あんなの、私の知っている魔物ではない! この私が一方的に追い詰められるなんて知らないッ! 無理だ、戦えば今度こそ殺されてしまう!」
そう語る彼の表情には、恐怖と、絶望と──挫折が滲んでいた。
……アスターの時と同じだ。
生まれてから生まれ持ったものだけで勝ち続けた、勝ち続けられた人間は、苦境と挫折に対して余りにも脆い。
(だからと言って、仮にも教員がここで──!)
心中で歯噛みするカティアの心情を知ってか知らずか、ガイストは引き続いて……尚も、信じられない一言を放った。
「な、何をしているんだ! こんなところで話している場合ではない、ほら、魔物がくる!」
「え」
「き、君は公爵家の令嬢だろう! こういう時に、国を守る義務は我々よりも強い! そのためにそんな優れた魔法を授かっているんだ! ほら、だから早く──我々を守るんだよ!」
「──」
……それを。
よりにもよって、守る側の人間が言うのか。爵位の違いだなんて些細な差で、普段なら威張るところを逆手に取って責任を押し付けるのか。
本当に、どこまでも。
カティアの内からどす黒い何かが上ってくる。衝動のまま、それを眼前の腐り切った人間に叩きつけようとして──
「血統魔法──『天魔の四風』!」
そんな、彼女の鬱屈すら飛ばすような強風が吹き抜けていった。
その風はそのまま、強大な竜巻となって魔物の軍に襲いかかり、辺り一帯を丸ごと吹き飛ばす。
倒せた魔物は少数だが、それ以上にこの距離を取ったことによる時間的猶予は大きい。
そして、驚愕の表情を浮かべる彼女の後ろから現れる男子生徒。
「カティア嬢。苦境と見て勝手に助太刀させていただいたが、構わなかっただろうか」
「……アルバート」
かつてのクラスメイトであり、彼女がAクラスに来てから最も変わった生徒の名を彼女は呼ぶ。アルバートは頷くと、視線を後ろに向けて。
「俺だけではないぞ。……サラ嬢に言われてな、もう数人連れてきた」
言葉通り、アルバートの背後からも数人のBクラス生が。
そんな彼らに共通するのは、瞳に宿す意思。絶望的な状況だと、恐ろしい敵手が居ると理解してなお屈せぬ心。
「正直、何がどうなっているのかはさっぱり分からないが……学園の危機であることは間違いないだろう。サラ嬢の奮闘のおかげで向こうは多少の余裕がある。……Aクラス生と比べれば魔法には劣るが、上手く使ってくれ」
「……すごく、助かるわ。戦ってくれるだけでも──いえ、この言い方は失礼ね」
一瞬、どうしてこの場で折れていないのか聞こうとしたが、それは侮辱になると判断して呑み込んだ。
それに当然だ。彼らは他の連中とは違う。負けを知っているし、這い上がり方も知っている。
そして何より──『彼』に鍛えられたのだ。この程度の逆境で混乱したり自滅したり、なんてことはあり得ないだろう。
故に、言い直す。
「すごく、頼もしいわ。Aクラスのみんなよりも、ずっと」
心からの賛辞に喜色を滲ませる元クラスメイトたち。それもそこそこに、彼女は具体的な指示に移る。
「とにかく、魔物の数を減らしてほしい。サラの結界に攻撃している奴を中心に、でも決して突出はしないで。さっきの先生たちみたいに囲まれて呑まれるわ。戦線維持と時間稼ぎを優先するのよ」
「了解した。だが……時間を稼いでどうする?」
「決まってるじゃない。──エルを待つのよ」
エルメスの実力を知らないBクラス生にとっては首を傾げる作戦かもしれないが、説明している時間が惜しい。なので、唯一彼のことを知っていると聞いているアルバートにだけ端的に話す。
「……これは間違いなく緊急事態よ。あの子だって実力を抑えてる場合じゃないって分かるはず。そしてエルが本気になれば──あの程度の障害、一人でもなんとかするわ」
その揺るぎない信頼にアルバートは一瞬面食らうが、持ち直して納得の表情を浮かべる。
「確かにな。むしろ、あいつが今になってもこの場に来ていないと言うことは──」
「別の場所で戦っているんでしょうね。だから、まずそこを片付けるのを待ちましょう。それを信じて持ち堪える──いえ、むしろエルに頼らずとも、この場は私たちが制圧するくらいの勢いで。あなたたちならできるわ」
「ああ。Bクラス生には俺から軽く話しておこう」
互いに納得を交換して、アルバート率いるBクラス分隊を送り出す。
……本当に、頼もしくなってくれたと思う。
先程胸を支配していた黒い感情は、すっかり洗い流されていた。
その勢いのまま──彼女は宣誓する。
「──さぁ。どうやらあの程度じゃ懲りなかったようね、クライド。……愚かさの代償は、きっちり払ってもらうわよ」
冷静に怒り、けれど戦況は見誤らず。
頼れる級友たちと共に、彼女は彼女の戦いを開始した。
遅くなってすみません……! 最近長くなりがちです……
次回はエルメスサイド。お楽しみに!




