致命的な過ちに彼女も気付いた
致命的な過ちに彼女も気付いた。
剣が落ちていく。
タブレットを使う時に捨ててしまった。
逆に自身は魔法の浮力で、ふわふわと降りていく。
余りに無防備な状態だった。
空中で軽やかに身を翻した魔神が顔を掴んだ。
「ひぃぃぃぃぃ」
なんとか振りほどこうと全身を振り回し、魔神の指を殴りつける。だが。
ヘルメットが軋む。
弾丸ですら傷ひとつ付かない、超硬質ガラスのバイザーに亀裂が走った。
「いやぁぁぁ! 助けて! 誰かぁ!! 神様ぁ!」
「己の非力を恨め。不運だったな」
バイザーが砕けた。
吹き込んでくる高温の空気に喉を詰まらせる。直後、視界が赤一色になった。
魔神の掌から炎が吹き出したのだ。
皮を肉を骨を、圧倒的な熱量で蹂躙していく。
少し離れたところからなら、スーツに包まれた彼女の身体が膨れ上がって見えただろう。
安っぽいゴム人形にパンパンまで空気を押し込んだような感じだ。
しかし、それも数秒。
熱と膨張に耐えきれず、弾けて四散した。
魔神が翼を動かし、大きく旋回。そして再び加速する。
* * *
左、叩き潰された腕と脇腹の痛みに意識が遠退く。
まだ身体は痺れていた。
喉の奥に溜まった血塊を吐きながら、なんとか右手を動かそうと試みる。
顎にある救難信号の発信ボタンを押す。それだけを考える。
ヘルメットには転がる男の弱々しい呻きが、絶えず流れていた。
もう、気がおかしくなりそうだ。
「はぁぁぁ」
感嘆が漏れた。指先が微かにだが動いたのだ。
もう少しで助かる。微かな希望が生まれた。
パチパチと異音が鳴った。ヘルメットに砂粒が当たる音だ。
霞む目を懸命にこらし、洗い落とされた血の隙間から確認する。
地表の砂が凄い勢いで流れていた。突風と呼べるくらいの空気の動き。
ほぼ無風であるはずの、火の元素界ではあり得ない現象だ。
脳が恐ろしい結論を導くより早く、絶望が舞い戻ってきた。
人間を冒涜的に歪めた巨体が、砂を巻き上げながら、それでも静かに降り立つ。
男の直ぐ横。
掴んでいた球体を、無造作に捨てた。リーダーには見覚えのあるヘルメットだ。
魔神が左手で男の肩口を持って吊り上げる。
フラフラと揺れる四肢に、苦痛の声が強くなった。
もう片方の腕が腰辺りに伸びる。
さほど力を込めたようには見えなかった。
肉が千切れ、骨が割れる音。
大音量の断末魔が、それらを覆い潰す。
ぐりんと男の胴が捻れた。
ほぼ三百六十度。いや、更にもう半回転を加える。
当然、人間が耐えられる状態ではない。
絶命した男を地面に落とすと、八つの目が一斉にリーダーに向けられた。
「イヒヒヒヒ、イヒ、イイヒヒヒ」
ヘルメット内に甲高い、不愉快な笑いが響いた。
それが自分の口から漏れているのに気付いて、更に大きくなる。
キャパシティを溢れた恐怖と絶望が、狂気じみた笑いとなって溢れてくるのだ。
愉快でたまらない。
厳しい家庭だった。
子供の頃から勉強勉強とうるさく言われた。
片寄った人間になるからと、やりたくもないダンス教室に通わされた。
友達と遊ぶ時間もなく、ずっとひとり。
キラキラの青春?
そんなものなかった。
それだけ頑張ったのに、体調を崩して受験に失敗。どうにか通ったのは第三志望だった。
なんとか取り返す。その思いだけで、ひたすらがんばった。
バイトだ、恋だ、イベントだ。遊べるのは学生の間だけ。
そんなお題目で楽しむ周囲を羨みながら、灰色の時間を重ねた。
「イヒッ。イィィヒヒヒィィ」
笑いが止まらない。
一流の企業に入った。
地味で頼りないと言われるが、とにかく穏やかで優しい彼氏もできた。
素敵な先輩の目に留まった。
ずっとひとりで。ずっとずっと頑張ってきた。
それがようやくにして報われる。
はずだった。そのはずだった。
そのはずだったのに。そのはずだったのにぃぃぃ!
「ウヒッ。ヒヒヒヒィィィ」
こんな愉快な事があるものか。
血塊を吐きながら、それでも笑い続けた。
脂と洗浄液で歪むバイザーの向こうから、魔神が近付いてくる。
武器はない。タブレットも壊された。
そもそもSランクの化け物と戦える訳がない。
「イヒッ、イヒッ、イヒッ」
こんな状況でも助かりたいと願う自分の浅ましさが、余りに滑稽だった。
笑いが止まらない。
すぐ近くで魔神が足を止めた。ゆっくりと手を伸ばしてくる。
指先が刃物のように尖っている。
軽く突き込んだだけで、脆弱な人体なんて簡単に壊してしまうだろう。
喉元だ。動きで予想がついた。
「せ、せめてひと思いにぃぃ、イヒヒ。って、バカじゃねえの。イヒッ、イヒッ」
残酷な化け物相手に、何を懇願しているのか。呆れてしまう。
ヘルメットが微かに揺れた。
硬く目蓋を閉じて、最期の瞬間に備える。
耳にピピッと電子音が聞こえた。
恐る恐る目を開けると、バイザーの隅に文字が浮かんでいる。
「救難信号発信」
魔神は背を向けていた。
四枚の皮膜がオレンジに輝く。重力を無視して、ふわりと浮き上がった。
振り返りもしない。
そのまま視界の遥か向こうに、飛び去ってしまう。
「助かっ……おぶっっ」
吐血が視界を塞ぐ。
恐怖と緊張から解放されて、急速に意識が混濁に飲まれていった。
* * *
人類帝国暦七八四年四月十日。
この日、火の元素世界では大規模な変動が起こったとされる。
七チーム三十二人が巻き込まれ、死者三十一名重体一名という未曾有の被害だった。