火勢は衰えた
火勢は衰えた。それは確かだ。
魔法が人類叡知の結晶なら、魔法が人類文化の象徴なら、長きに重ねた研鑽は、恐るべき元素生物、その頂点近くに君臨する存在に意地を見せたと言えるだろう。
炎が揺らいだのは、ひと呼吸にも満たない時間だった。
二重の防壁を易々と突破し、頭から男を飲み込む。
全身を守る装甲は瞬時に溶解。
ボディースーツが一気に燃え千切れ、覗いた肌が直ぐ様炭化する。
男は炎の中で両腕を上げ、キリキリと無様なダンスを踊った。
「しょ、消火を!」
半ば反射的にリーダーの女性が、駆け寄ろうとする。
仲間を助けようとする生物の本能的な行動だったかもしれない。
「バカ! 逃げろ!」
教官の怒声がヘルメットに響いた直後だった。
リーダーの主観では、不意に景色が左に流れた。
身体の浮き上がる奇妙な感覚。
足下を確認しようと向けた目に、粉々に砕けるタブレットと、肘の上から圧力でへしゃげ潰れた自分の腕が見えた。
それだけではない。
脇腹、細いウエストが抉れたように歪んでいた。
何が起こっているのか。
理解が状況に追い付く前に、世界が支離滅裂に回転。
強い衝撃が頭に走った。ヘルメットがなければ、間違いなく重傷だったろう。
転倒した。
それを感じ取れただけでも、彼女の優秀さの証左と言える。
凶悪な元素生物の前で無防備に倒れていては、と立ち上がろうとするが。
まるで口から腕を突っ込まれて、内蔵を鷲掴みに引き摺り出されるようだった。
喉の奥から沸き上がってきた生温かい物が、鼻口から溢れてバイザーの内側をどす黒い赤に染める。
直ぐ様ヘルメットに備え付けられた洗浄機能が、視界を確保しようとする。
が、間断なく吐き出される吐瀉物に追い付かない。
呻く事すらできず、嘔吐の合間にヒューヒューと弱い呼吸をするのが精一杯だった。
魔神の尾が地面に下りるのを、教官はただ戦慄していた。
橫薙ぎに払ったのだろう。
右側、五メートル向こうにリーダーが転がっている。
まだ息はあるようだが。
「恨みっこなしだ」
小さな灰の山を横目に残った男に告げる。
「別方向に逃げるよ。運があったら生きて帰れる」
返事を待つ気はない。「さあ、行くよ!」と、左に駆け出す。
残されたフォローの男は小銃を構えた。
魔神の頭。八つの視線は全て自分に向けられていたからだ。
圧倒的な速さで動く敵から、走って逃げ切れる可能性はない。
ならば。
トリガーを引き絞る。氷結の魔法を込めた弾丸が襲い掛かった。
威力はマックス。当然フルオートだ。
魔神の前に展開されている不可視の壁に阻まれ、弾は虚しく宙に散っていく。
「どうした? まだコツは掴めないか?」
ヘルメット内に届いた声を掻き消すように、怒声を上ながらひたすら撃つ。
魔神と言っても所詮は生物。必ず限界はある。それだけが希望だった。
しかし現実は常に厳しい。妥協も許さぬほどに、冷酷なのだ。
不意に射撃が止まった。バイザーの右隅、残弾表示のバーが赤く明滅している。
弾切れだ。
次の弾倉を用意する暇はなかった。瞬時に間合いを詰めた魔神に右手首を掴まれた。
青い指は小枝のように細く、ともすれば触れるだけで折れてしまいそうだったが。
締め付ける握力に耐えきれず銃が落ちる。
なんとか振りほどこうとするが、数ミリすら緩む事はなかった。
逆に地面に引き倒されてしまう。そして。
魔神が腕を返した。
男の手首が、肘が、あり得ない角度まで回る。
ゴリゴリと骨が割れ、ブチブチと腱が千切れる。
男が痛みと恐怖に悲鳴を上げた。
それでも魔神は容赦しない。
一層の捻りを加え肩まで壊すと、胴体を踏み押さえて引っ張る。
肉体の潰される音と悲鳴に、リーダーの女性は目を逸らす事ができなかった。
未だ収まらない吐血と洗浄。
脂で歪む視界の中で男の腕が二十センチ以上は伸びた。
手を離すと力なく落ちる。
それで終わりではなかった。
もがく男の左足首を掴むと、捻り上げる。
「もう、もう止めて。お願い。切って」
ヘルメットの顎にある無線のスイッチを操作しようにも、右手は震えるだけで上手く動かない。
ただ祈りのように繰り返すしかなかった。