第1章*「虞美人草」その7 完
藤子は長い間語り尽くしたせいか、憔悴したようにしばらく項垂れていた。顔を上げた時には時折泣いたため、頬に涙の跡が残っていたままだった。
身の上話についで、町にも馴染もうと努力したが周囲の好奇と嫌悪に満ちた気色に耐えられなかったという。二人は町の人々の藤子に対する風聞を思い出す。これは決して過去のことではなく、彼女にとって紛れもない「現実」であり、今も続くことなのだ。
以前、町に出た藤子がどこにも寄らず屋敷に引き返してきたのは、このような事情があったからかもしれない。
「わたくしには…何にも…ありませんわ。すべて、何もかも」
親も愛も、そう何もかも。
政治郎は思わず、口を挟んだ。
「旦那さんは、貴女を…愛しているのではないのですか?」
今回の件は妻の不義を心配したことが始まりだ。
「もし、本当にそうならば…」
藤子は大きな窓に目をやった。外では鳥のさえずり一つ聞こえない。
「ここにいるのは貴方がたではなく…主人だったのではなくて?」
彼女は淋しそうに笑った。
「子を産めない女なんて離縁されて当然の世。わたくしのような女は存在の価値などないのです。ですから、あの人の態度を『愛』と取るか『束縛』と取るか……」
今の彼女にとって、どちらに感じられるのか。
藤子はため息をついた。
「……私は心の汚れた女ね…いっそのこと…」彼女は続ける。
「…狂ってしまえたら、どんなに楽かしら…」
笑っているのか、泣いているのか、わからなかった。
実家、養家、嫁ぎ先にも自身の居場所がない。
新天地に親しい友人さえもいない。
ましてや伯父に厄介はかけられない。
「今夜、主人と話します」
そして「今後のことについても」付け足した。そう言ったときの彼女の顔は、影を落としながらも悠然としているように見えた。
今後のこと。
政治郎は心なしか引っかかり、言葉が口から飛び出しそうになる。
桜子は静かに制止した。
ここからは彼女自身が乗り越えるべきことなのだ。
たとえ、「不義」がなかったとはいえ、眼前に避けて通れない解決すべき問題があるということ。
互いを理解出来る関係を築いていくのか、そうではない…離別を選択するかは藤子が導き出すしかない。
屋敷を後にした二人。
空を見上げると、皮肉なほど美しい青空が広がっていた。
「桜子殿」
政治郎は歩みを止めた。
「何でしょう」
「今回の件は…最悪な結果ではありませんでしたが」
そう「姦通」ではなかったのだ。
政治郎は両の手をぎゅっと握っている。握りこぶしへ静かに力が入った。
「この時代は平等と言いながら、子を産めないと女性は離縁という風潮。それが女性を卑屈にし追い込んでいるような気がするのです。男の私が言うのもおかしいのですが、なかなか具合が悪い話ですね。男だけが尻をまくって逃げているようで格好がつかない。…私達の手で…いつかは…なくすことができるんでしょうか?」
桜子はそっと微笑んだ。
「そうしていかなくちゃ、いけませんね」
どこかで、小気味よく歌う鳥の声が聞こえた。
場所は変わって、「岩田興信所」応接間。
長椅子に腰をかけ、二人は向かい合っている。
「それにしても驚きました。例の画家の身辺調査もされていたとは」
政治郎は「いつの間に!」と興奮気味だ。
「そちらは、この仕事の基本ですわ」
桜子は、にっこりと笑う。
「もしや……高林藤子が不義を働いていないこと…姦通ではないと、桜子殿は始めから解っておいででしたか?」
桜子はただ「ふふふ」と口に手を当てた。
「どこで、そう思ったのですか?決め手は?」
「容易にございますよ」
「そう、言いますと?」
「藤子様が葉山様の元にお出掛けになる際、格好に気をつけていらっしゃいました。ご主人様とのお供やご近所へいらっしゃる際にも豪奢に着飾る彼女が質素なのです」
「世を忍ぶ恋…人目を気にしているとはお考えにならなかったのですか?」
「わたくしも、初めそう感じましたが、そうではないようでございました。恋い焦がれているからこそ、美しく見られたい。これが本音かと思われます。しかし、彼女は紅や宝石といった自身を着飾ることはせず、着古した着物に袖を通し素顔同然で出掛けて行きました」
桜子は手にしていた湯飲みを置いた。
「これは、何を表しているのかしら?」
政治郎はしばしの間考えた。
「……相手は、気の置けない人物…あるいは、……身内かもしれない?」
「そうですわね、恐らく」
夫とは歳も離れ、郷里も遠く腹を割って話せる友人もいない。
今までの自分で、会いに行きたい。甘えたい。そんな人がいる。
「ですが、まだ決めつけるのは剣呑です。あくまで推測でございますから」
桜子は続ける。
「ついで本来なら藤子様と直接接触することは避けたいところですが…」
刹那、間を開けた。
「高林藤子の背中を押すため…」
政治郎は瞬きをする。
桜子は小さく微笑んだ。
「…お見それしました」
政治郎は両膝に手をつけ、頭を下げた。
顔を上げた表情は大変明るい。
「私、倉田政治郎は桜子殿にとって、ワトスン博士のような右腕にはまだまだなれませんが、精進する所存!しかし、こんな私でも博士のように記録をとることは今でも出来ます!」
政治郎は胸ポケットから万年筆と手帳を出し、空いた頁一杯に何やら大きく書き始めた。
「表題は『松平興信録』というのはいかがでしょう?」
それはそれは力強い、達筆過ぎる看板のような。
ペン先が曲がっていないだろうか。
「まあ!素敵でございますわね」
桜子は手を叩いて喜んだ。
一章 完