第1章*「虞美人草」その5
松平椿と鉢合わせした、ちょうど次の日。
午前の挨拶も早々に桜子が口を切った。
「政治郎、椿にお会いになりまして?」
「あ、はい。お会いしました!先日は桜子殿がいらっしゃいません時分に、失礼いたしました」
頭を下げる。
「いえいえ、別件で出ておりまして。こちらこそ、ご足労おかけしまして申し訳ございません」
政治郎も桜子もお互いがお互いで、深々と頭を下げた。
「松平殿が後日も共に張り番をしてくださることになりまして」
「はい、伺っておりますわ」
桜子は笑顔を見せた。
「ご迷惑おかけしないよう、精進いたします」
政治郎は律儀に再び礼をした。
桜子は「ふふふ」と笑うと言った。
「あの子はわたくしの身内ですので、そう気負わず」
「そうなのですか?」
物腰柔らかな桜子と、あの勝ち気な娘がなかなか繋がらず幾分か驚いたのは言うまでもない。
それから、桜子とも高林邸周辺に何度か出向いたが結果は芳しくなかった。
事態が大きく動き出すのは、数日後のことである。
********
政治郎は不安な面持ちのようだ。
「今日は…どうでしょうか」
「なるように、なりますわ」
そんなとき、屋敷の門から女が一人で出てきた。質素な出で立ちだったため、はじめ女中かと思ったが正真正銘、それは高林藤子であった。恐らく、また例の所に行くのであろう。
着古された浅葱色の着物に身を包んだ藤子はそそくさと門扉を締め、歩き出した。
「もし、高林様」
桜子は、すぐさま呼び止めた。
小さな声であったが、それは確実に相手へ投げられた。
藤子は、ぎくりと立ち止まる。
しかし、その折れそうな背中は振り返らない。
「わたくし、松平桜子と申します」
それでも浅葱色の着物は背中を向いたまま、返事をしなかった。
桜子は、彼女のすぐ近くまで歩いて行き周りには聴こえない声で話しかけた。
「岩田興信所から参りました」
藤子は深く息を吸った。
「……屋敷の中へ、どうぞ。女中も使いに出していて、誰もおりません…」
そう言うと視線を落とし、また息を深く吐いた。
***
高林邸内。
外から見た印象に負けず、屋敷内は大変広く、置かれた調度品はどれも舶来品ばかりだ。玄関から続くビロードの深紅の絨毯は、まるで雲の上を歩くような感覚にさせる。
広大な屋敷内は、しんと静まり返り三人の絹擦れの音と息づかいだけが響いた。
通された応接間には、上等な猫足の長椅子や見事な彫りを施された卓が備え付けられてある。花のモチーフが印象的なダマスクの壁紙がぐるりと部屋中に張り巡らされていた。
促され、二人は長椅子に腰を下ろした。
しばらくして藤子は盆の上に3つのソーサー付きのカップを携えてきた。
「先ほども申しましたが女中が出ておりますので…。お口に合いますでしょうか」
各々に並べると、藤子は軽く会釈し二人の前に対峙する。
「ご用件をお聞き致します」
藤子は軽く居住いを正した。
桜子と政治郎は簡明に身分を明かし、いよいよ本題へと入っていった。
「なぜ、わたくし共がお屋敷に伺ったのか、お分かりでございますね」
桜子は藤子を真っすぐに見据える。
問われた彼女は、ほんの刹那黙った。
そして「さあ」と微笑む。
「……見当が付きませんわ」
そう言うと、静かにカップへ口を当てた。
「葉山様…葉山謙二様は、風景画家だそうですね」
桜子は静かに言った。
藤子はぴくりと動きを止める。
桜子は続けた。
「美術学校で講師を生業にされているとか。ついで、兵庫の生まれとのこと」
政治郎は、桜子があの画家の素性を調べていたということに感服した。
そして桜子は「同じでございますね」と締めくくった。
同じ?政治郎は「おや」っと瞬刻考えたが合点がいったと唾を飲み込んだ。
藤子はカップをソーサーの上へ静かにそっと置き、「…どこまでご存知でいらっしゃるの?」と消え入りそうな声で言う。
「あらかたのことは」
桜子も些々だがしっかりとした返事をした。
藤子は「そう」とため息を付き、「お話しします」とゆっくり一度目を閉じた。