第1章*「虞美人草」その4
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ある晴れた日の早朝。
呼び鈴が鳴らされた。
言わずと知れた、あの『岩田興信所』である。
政治郎がここを初めて訪れたのは、桜が美しかった春のことだ。
しばらくすると、必要以上にゆっくりと扉が開いたかと思うと、知らない若い娘が顔を出した。
政治郎は思わぬことに、ぎょっとしてしまった。
以前と同じ受付の女が対応すると考えたのと、またそれとは…違った感情も混じっていたのである。
しかし、驚いたのは彼だけではないようだった。
「…私は、政府から参りました…」
政治郎は声が上擦ってしまった上に言葉に詰まった。
「倉田…様でございますね」
顔だけ覗かせていた娘は、そう言うと扉を開けた。
最初の印象は女学生かと思ったが、青藍色の着物に袖を通し背筋の伸びた様子は、多少大人びて見えた気がした。
呆気にとられていた政治郎は慌てて口を開いた。
「松平桜子殿とお約束はしていないのですが、おいでになりますか?」
「…本日、松平は別の依頼で出ております」
娘は顎をくいっと上げ、無愛想に答えた。
「そうですか…」
政治郎は、慌てて口をついた。
「今回、松平殿に担当頂いております事件が大変気になりまして…。私一人で現地に張り番に行ってもよろしいか、お伺い来たのですが」
多少なりとも尽力したいが、勝手に行動して足を引っ張ってはならぬ。
娘は少し黙った。
「…わたくしが、お供いたします」
丁寧だが、ぶっきらぼうな口ぶりだ。
「え、貴女が…ですか?」
政治郎は何度も瞬きをした。
「わたくし、松平 椿と申します」
猫目の娘は政治郎を見上げながら、同時に見据え言い放った。
彼は、意志の強そうなその瞳から視線を反らすことが出来なかった。
岩田興信所、もう一人の『松平』である。
***
場所は移って、高林邸前周辺。
かれこれ、数時間。
そろそろ昼を知らせるドンが鳴る頃だ。
張り番をしているが、高林藤子は屋敷の外に姿を出さない。
「なかなか…骨を折りますね」
5月と言えど、晴れた日の日差しは刺さるかのように猛烈に降り注ぐ。
政治郎は、思わず襟とネクタイに指を差し入れた。
「こういう日もありますわ。むしろ、こんな日の方が多いはずですもの」
椿は慣れているのか着物は着崩れもなく、表情も一切変えない。
「わたくしは残りますので、倉田様は昼食へ行かれて下さい。そろそろ、ドンが聞こえますわ」
どちらかが残る。張り番の鉄則である。
「とんでもありません…!私一人が楽するなど!松平殿、お先に行かれて下さい!」
声はひそめてはいるが…引くつもりはなさそうだ。
「…わたくしは、事務所の者です。ここを離れる訳にはいきません」
椿は下から、きっと視線を送った。
政治郎は蛇に睨まれた何たらの気分になりながらも、姿勢を正した。
「これは…私のお願いした事件です。責任があります。私も離れられません…!」
「………」
「………」
しばしの沈黙。
椿は、懐に抱えていた朱色の風呂敷をしゅるしゅると解いた。
中には、ハムとチーズの慎ましやかなサンドウィッチが。
「立ったままで、お召し上がりください。もちろん、目は離さずに」
椿は、四角いそれを政治郎に薦める。
「…ありがとうございます」
もしゃもしゃ、と双方同じ方向を向いたままの何とも不思議なランチタイムが始まった。
「倉田様」
「はい」
「頑固者でございますね」
「…よく同僚や上司に『石頭』『堅物』と言われます」
遠くの方で、昼を知らせるドンが鳴った。
その日は女中が使いに出る以外、動きはなく高林藤子が屋敷の外に出るのを確認することは出来なかったのである。
結局、椿と張り番する日と言うのを、前もって申し合わせすることにした。
しかし、そのいくつかの日で藤子の外出を見届けたのは、たった一度のみ。
紫の着物に身を包み女中を連れて町に出たかと思うと、何故かどこにも寄らず家に帰ってきたのだ。それはまるで、ぐるりと徘徊したような具合だった。実に奇妙でならなかった。