第1章*「虞美人草」その1
第1章は「ヒューマンドラマ」が主になっています。
第2章以降、「推理」要素も強くしていく予定です。
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新緑が美しい晴れた午後。
初めて二人が対面した応接間。
なにやら揉めている。
「どうぞ、『先生』はおやめください」
桜子は、やんわりと右手を前に出した。手刀を切ったようにも見える。
「そういうわけにはいきません。先生はこれまで数多くの事件を解決されてきたと記録を拝見しました。京都富豪令嬢誘拐事件、文部省役人による公金横領事件、そしてスチュワーデス殺人で捕まった外国人通訳が黙秘権を行使し難航してところ先生が解決に尽力なさったとか…。まだまだありました!」
政治郎は興奮気味に声を荒げた。
「たまたま、でございますよ」
「ですが」
「『桜子』とお呼びください」桜子は、顔をほころばせた。
「は?」急に話が逸れ、鳩が豆鉄砲を食らう。
「こちらには、『松平』がもう一人おりますの」
明治の東京に「松平」の姓を持つものは珍しくない。「岩田興信所」に同じ名字の者がいても不思議ではないだろう。
「そうなのですか」
「はい。ですので、ややこしいですし、ぜひ。…それと、こういうのはいかが?」
名案とばかりに桜子は表情をぱっと明るくすると、政治郎に小さく手招きをした。
「なんでしょう?」
二人以外誰もいない部屋だが、思わず内緒話をするように背中を丸め二人は近くに寄って行く。
声も自然と小さくなった。
「わたくしも倉田様を『政治郎様』とお呼びするというのは?おあいこではなくて?」
桜子はまるで小さな子どものように、さも楽しげに口に手を当て「ふふふ」と笑った。
「…おっと、大切な用があるのを忘れるところでした!」
政治郎は居住いを立て直した。桜子はそれにつられて背筋を直す。
「小石川に屋敷を構える宝石商からの依頼で婦人の様子が近頃おかしい、近辺調査を行ってほしいとのこと。…姦通を疑っているのでしょうか?」
姦通。
つまり、男女が道徳や法に背いて情を通づること。
姦通罪は犯罪であり、姦婦を夫は告訴することができる。
「そもそも…こんなことに政府が関係しているのかどうか、私にはさっぱりわかりません…」
政治郎は頭をガシガシとかいた。
「政治郎様、依頼があれば動くだけですわ」
「…私は桜子殿の手伝いを仰せ使いましたので、何の文句もありませんが…」
言葉とは裏腹に浮かない表情は変わらない。
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場所は変わって、小石川。
「さすが、立派なお屋敷ばかりですね」
政治郎は、帽子を目深に被り静かに辺りを見渡した。
背広の若者と着物の老女の組み合わせは、他人から見れば「孫と祖母」あるいは親子に見えるだろう。
大して怪しまれることもない。
そうこうしているうちに、その中でも堂々たる造りの屋敷から女中を連れた女が出てきた。
濃紫色の着物に、肌が大変白いため実に印象的だった。
帯は金地で何か花の絵が描かれている。豊かな黒髪には高価そうな鼈甲の簪が挿されていた。
歳の頃は二十歳前後だろうか。若さとは裏腹な、その豪奢で老成した出で立ちが一種独特な色香を醸し出していた。
女と女中が、二人の横を通り過ぎ去ったとき、政治郎は女の帯の柄が「ひなげし」であることが無性に心に焼き付いた。
「あの方が、高林藤子様ですわ」
桜子が呆ける政治郎にそっと耳打ちした。
「…あ、そうなのですね」
「はい、あのお屋敷から出てらして、女中さんもついてらっしゃいましたし確かかと」
「では、情報集めに取りかかりましょう」
桜子は背筋を伸ばした。
「と、言いますと?」
「少し、地道ですが。覚悟はよろしくて?」
政治郎に笑みを見せた。