知的性交と知的オナニーをする意義と方法について
※本作品は、非常に過激な表現を含んでいます。18歳未満の方は絶対に見ないで下さい。
読書とは、作者と知的に性行為をすることであり、知的にオナニーをすることでもある。
執筆とは、知的オナニーをすることである。知的オナニーを読者に公開し、読者と共に知的乱交をする行為のことである。
作者と読者は文字を、文章を通して、作品を通して精神的性交を行うのだ。
どういうことか。
文章とは――――小説とは――――作者の思考や感情、性癖を表現する装置である。
読者は、言葉を通じて作者の世界を知る。作者と同じ景色を見る。
それは、作者と読者の思考や思想を一つにするということだ。
二つのものを混ぜ合わせ、一つにする。
読書とは、本に書いてある文を理解することで、知識化させる。
そして、その知識を自分の考えと混ぜ合わせることで、血肉化し、知恵へと変える行為の事である。
つまり、性交をするということである。
成功をし、新たな生命(知恵)を生み出すということである。
思考と思考の性交。
――――知的セックス。
それが、読書というものである。
体を交えない言葉だけのセックス。
二人だけの間に交わされる2Pのセックスなのである。
本に書いてあることを理解し、思考する時の快感。
あれこそ、まさに性交をする時の快感である。
読書をして、知識を取り入れただけでは、セックスをしたことにはならない。
体を一つにしたとは言えない。
その知識を自分の考えと織り交ぜてこそ、知恵となり、セックスをしたということになる。
半端なセックスなど――――性交など――――必要ない。
色んな相手とセックスをして、自分のものにしていけばいいのだ。
一夫多妻制だ。
乱交だ。
また、作者は自分の性癖が詰まった作品を書く。
つまり、オナニーだ。
公開オナニー。
オナニー作品だ。
読者も自分の好みに合ったオナニー作品を読んで、自慰行為に及ぶのだろう。
自分のオナニー作品が誰かに分かってくれる。
共感してくれる人がいる。
それは、読者にとっても非常に喜ばしいことである。
作者側からしたら、これ以上嬉しいことは無いし、自分の性癖を公開し、他の人に感染するのもとても嬉しいのである。
これは、例えて言うなら、公衆の面前で全裸で公開オナニーをしている人に釣られて、通りすがりの人もオナニーをし出すことと同じである。
別にいいではないか。
自分の裸を見てくれる人がいても。
いつでもどこでも服を着て。
仮面を被って、「自分」を曝け出せない。
本当の自分を曝け出せない。
そんなの苦しいだけではないか。
ネット小説という場所は、自分の公開オナニーを読者と一緒にする場所なのである。