阿賀沢(あがにゃん)風『余暇』のすゝめ
如何に余暇を過ごすのか。
それで悩んでいる人もいるだろう。
如何に余暇を過ごすのか。
忙しすぎると精神的、肉体的に疲労が溜まる。
それを如何に余暇の時に発散できるかどうかである。
また、私は余暇を「自分を成長させるための時間」、「エネルギーを溜める時間」だと考えている。
今回は、「自己を成長させるための時間」に焦点を置いて考えてみようと思う。
余暇の過ごし方は人によって異なるであろう。
イラスト描き、読書、執筆、サバゲ―、ゲームプレイ等々。
そこで大切になってくるのは、自分が「価値のあるものを得ることができたか」だと私は考えている。
しかし、何が「価値あるものなのかどうか」は個人によって異なる。
また、「何を得ることが出来たのか」もその時々、状況によって異なるであろう。
何かを得た。価値のある物を得た。
が、それが血肉化していなくては意味がない。
漠然としたものを得ても、それは曖昧なまま消散してしまうであろう。
それは、何も得なかったのと同義である。
何も成長していないのと同じである。
なら、どうすれば良いのか。
『言語化』をしてみるのだ。
自分の言葉で、「何を得たのか」をPCや紙で良いから表現をしてみるのだ。
言語化をすることで、自分が「何を考えたのか」、「何を得たのか」、「何を感じたのか」を明確にすることが出来る。
感情や頭の中だけだと曖昧なままになってしまう。
言葉に表すには、自分の気持ちを理解しなければならない。
明確にしなければならない。
それはつまり、メタ認知をしなければならないということ。
自己観察をしなければならない。
換言すれば、体験したことを如何に内在化させるのか。
内包化させるのかが重要になってくるように思う。
加えて、自分が「成長するための時間」を意識することは、どのような意味があるのか。
それは、文化や学問を発展、発達させるためだと私は考えている。
いや、私が小説を執筆したり、本を読んだりするのが好きなので、どうしてもそう考えてしまうだけなのかもしれないが。
小説を書いたり、本を読んだり、絵を描いたり、人と話すということは、ほんの少しではあるが、周囲の人間に影響を与え、コミュニティ内の文化を変化させているということになる。
余暇こそ、人の文化の発展の要なのだと私は思っている。
『仕事』だけでは無味乾燥としていて詰まらないではないか。
それに、古代のギリシャ人なんかは、『余暇』があったからこそ、哲学を生むことが出来たのだ。
哲学が無ければ、数学や生物学、物理学、化学諸々の学問は生まれなかった。
働くばかりでは、心の余裕が生まれまい。
心の余裕が生まれなければ、何かを思い描くことも考えることもあるまい。
『暇』は罪ではない。
『暇』を上手く使えないことが罪なのだ。
日本人は『忙しい』ことが正義の様なところがある。
『忙しい』ことで優越感に浸る人間が多いように思える。
しかし、重要なのはその『忙しさ』の中で何を得たのかということではなかろうか。
自分にとって、その『忙しさ』を通して何を得る事が出来たのか。
これは私の相当な偏見なのかもしれないが、あえて言わせていただこう。
その『忙しさ』にかまけて『考えない』ふりをしてはいないだろうか。
『考える』のが嫌だから。
今の状況が続くのが平和だから。
『考える』ということは、疑うことから始まる。
しかし、疑い始めたら切りが無い。
何故、今の仕事に就いたのか。
何故、生きているのか。
何故、自分はここで働いているのか。
それを考えだしたら、嫌なことばかり考えてしまう。
思い出してしまう。
『楽な人生』を過ごそうと思ったのに……。
(そういう人ばかりではないのは重々承知している)
考えるという行為は、苦痛を伴う。
頭に負荷を掛ける行為である。
しかし、人生楽な道などあり得るだろうか。
『苦しみ』から逃れようとしても、それは追いついて来る。
追いかけてくる。
逃れようがない。
それが運命なのだ。
だとしたら。
どうせ苦しいのなら考え抜けばよい。
その苦悩を『楽しく』すればよい。
『楽に生きる』より、『楽しく生きる』方がよいではないか?
ここで、注意をして欲しいのは、『楽』=『楽しい』ということではないということだ。
苦悩の中にある喜びや快楽、好奇心を私は大切にしていきたいと考えている(それが学問というものではないか?)
「人生って奴は、無駄を楽しむもんだ。無駄を重ねてきた奴の方が、生きるのが上手い。楽しい人生って奴だ。」、「面倒クセェのが人生だろ?楽しめよ」(『グリザイアの迷宮』より)
この言葉は、『グリザイアの迷宮』というノベルゲーム(エロゲー)に出てくる日下部麻子というキャラが言うセリフである。
この言葉は、核心を突いているのではなかろうか。
と私は思う。
長々と書いてしまったが、『考える』という行為は、時間があるからこそ、『心の余裕』、『余暇』があるからこそ可能な行為なのだ。
『仕事』に追われていては、何も考えることが出来ない。
心も体も追われてしまう。
それでは唯のゾンビではないか。
『死事』ではないか。
私は日本人にはもっと休暇、休みが必要なように思える。
だからこそ、今回のエッセイを書いたのだが……。
如何だっただろうか。
何か読者がこのエッセイを読んで何か考えてくれたのなら。
何を得られたのなら、作者としてこれ以上嬉しいことはない。