表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/19

阿賀沢(あがにゃん)風『余暇』のすゝめ

 如何に余暇を過ごすのか。


 それで悩んでいる人もいるだろう。


 如何に余暇を過ごすのか。

 忙しすぎると精神的、肉体的に疲労が溜まる。

 それを如何に余暇の時に発散できるかどうかである。


 また、私は余暇を「自分を成長させるための時間」、「エネルギーを溜める時間」だと考えている。

 今回は、「自己を成長させるための時間」に焦点を置いて考えてみようと思う。


 余暇の過ごし方は人によって異なるであろう。

 イラスト描き、読書、執筆、サバゲ―、ゲームプレイ等々。


 そこで大切になってくるのは、自分が「価値のあるものを得ることができたか」だと私は考えている。

 しかし、何が「価値あるものなのかどうか」は個人によって異なる。

 また、「何を得ることが出来たのか」もその時々、状況によって異なるであろう。


 何かを得た。価値のある物を得た。

 が、それが血肉化していなくては意味がない。

 漠然としたものを得ても、それは曖昧なまま消散してしまうであろう。


 それは、何も得なかったのと同義である。

 何も成長していないのと同じである。


 なら、どうすれば良いのか。


『言語化』をしてみるのだ。


 自分の言葉で、「何を得たのか」をPCや紙で良いから表現をしてみるのだ。

 言語化をすることで、自分が「何を考えたのか」、「何を得たのか」、「何を感じたのか」を明確にすることが出来る。


 感情や頭の中だけだと曖昧なままになってしまう。

 言葉に表すには、自分の気持ちを理解しなければならない。

 明確にしなければならない。


 それはつまり、メタ認知をしなければならないということ。

 自己観察をしなければならない。


 換言すれば、体験したことを如何に内在化させるのか。

 内包化させるのかが重要になってくるように思う。


 加えて、自分が「成長するための時間」を意識することは、どのような意味があるのか。

 それは、文化や学問を発展、発達させるためだと私は考えている。

 いや、私が小説を執筆したり、本を読んだりするのが好きなので、どうしてもそう考えてしまうだけなのかもしれないが。


 小説を書いたり、本を読んだり、絵を描いたり、人と話すということは、ほんの少しではあるが、周囲の人間に影響を与え、コミュニティ内の文化を変化させているということになる。

 余暇こそ、人の文化の発展の要なのだと私は思っている。


『仕事』だけでは無味乾燥としていて詰まらないではないか。

 それに、古代のギリシャ人なんかは、『余暇』があったからこそ、哲学を生むことが出来たのだ。

 哲学が無ければ、数学や生物学、物理学、化学諸々の学問は生まれなかった。


 働くばかりでは、心の余裕が生まれまい。

 心の余裕が生まれなければ、何かを思い描くことも考えることもあるまい。


『暇』は罪ではない。

『暇』を上手く使えないことが罪なのだ。


 日本人は『忙しい』ことが正義の様なところがある。

『忙しい』ことで優越感に浸る人間が多いように思える。


 しかし、重要なのはその『忙しさ』の中で何を得たのかということではなかろうか。

 自分にとって、その『忙しさ』を通して何を得る事が出来たのか。


 これは私の相当な偏見なのかもしれないが、あえて言わせていただこう。

 その『忙しさ』にかまけて『考えない』ふりをしてはいないだろうか。

『考える』のが嫌だから。

 今の状況が続くのが平和だから。


『考える』ということは、疑うことから始まる。

 しかし、疑い始めたら切りが無い。

 何故、今の仕事に就いたのか。

 何故、生きているのか。

 何故、自分はここで働いているのか。


 それを考えだしたら、嫌なことばかり考えてしまう。

 思い出してしまう。

『楽な人生』を過ごそうと思ったのに……。

(そういう人ばかりではないのは重々承知している)


 考えるという行為は、苦痛を伴う。

 頭に負荷を掛ける行為である。


 しかし、人生楽な道などあり得るだろうか。

『苦しみ』から逃れようとしても、それは追いついて来る。

 追いかけてくる。


 逃れようがない。

 それが運命なのだ。


 だとしたら。

 どうせ苦しいのなら考え抜けばよい。


 その苦悩を『楽しく』すればよい。

『楽に生きる』より、『楽しく生きる』方がよいではないか?


 ここで、注意をして欲しいのは、『楽』=『楽しい』ということではないということだ。

 苦悩の中にある喜びや快楽、好奇心を私は大切にしていきたいと考えている(それが学問というものではないか?)


 「人生って奴は、無駄を楽しむもんだ。無駄を重ねてきた奴の方が、生きるのが上手い。楽しい人生って奴だ。」、「面倒クセェのが人生だろ?楽しめよ」(『グリザイアの迷宮』より)

 この言葉は、『グリザイアの迷宮』というノベルゲーム(エロゲー)に出てくる日下部麻子というキャラが言うセリフである。


 この言葉は、核心を突いているのではなかろうか。

 と私は思う。


 長々と書いてしまったが、『考える』という行為は、時間があるからこそ、『心の余裕』、『余暇』があるからこそ可能な行為なのだ。

『仕事』に追われていては、何も考えることが出来ない。

 心も体も追われてしまう。


 それでは唯のゾンビではないか。

『死事』ではないか。


 私は日本人にはもっと休暇、休みが必要なように思える。

 だからこそ、今回のエッセイを書いたのだが……。


 如何だっただろうか。

 何か読者がこのエッセイを読んで何か考えてくれたのなら。

 何を得られたのなら、作者としてこれ以上嬉しいことはない。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ