私にとっての読書とは(語尾にゃんモード)
私にとって、読書とは何か。
それを考えたら堂々巡りになりそうな気がするにゃんけど。
私にとって、本を読む言う行為は「学術分野」と「小説分野」で違ってくるのにゃ。
始めに、「小説分野」から述べていこうと思うのにゃ。
結論から述べると、私にとって小説とは感覚器官と思考器官を刺激させ、見識を広めてくれるものなのにゃ。
小説を読んでいると、目の前に文章内の情景が現れ、主人公の感情が文を通して自分の心に感染するのにゃ。
それは、共感しているとも言えるだろうにゃ。
私が小説を読むときに気を付けていることは(学術分野でも同じであるが)、筆者や作者がその作品を通して私達に何を伝えたいのかということにゃ。
ただ単に、ストーリーを楽しむ。世界観を楽しむというのもしろんあるけどにゃ。
「伝えたい」ことを読み取って、血肉にする。
本で得た他人の考えや思想を血肉にする。
そして、新しい考えを生み出していく。
そうやって文化や思想というのは進化、変化していくものだと私は思っているのにゃ。
「物語」というのはカタルシス効果もあるのにゃ。
「物語」のキャラの人生や半生を通して、自分の生き方や考えを捉えなおすことが出来ると私は思うのにゃ。
それが小説の存在意義なのだと私は思うにゃ。
次に、「学術分野」へと移ろうなのにゃ。
学術分野と言っても様々あるだろうが、大きく分けて量的研究と質的研究の二種類に分類が出来るだろうにゃ。
量的研究は言ってみれば「科学性」の高い研究方法なのにゃん。
ここで言う「科学性」とは「妥当性(一貫性)」、「客観性」、「論理性」の三つの要素で構成されているものの事を言うのにゃ(河合,2010)。
物理学、化学、生物学など多くの理系の学門は、上に挙げた三つの要素に重点を置いているのにゃ。
心理学でも「科学性」を重要視しているにゃんけど、心理学の場合は実験対象にする要因の「妥当性」と「信頼性」をきちんと調べないと見当違いな研究をすることになっていまうのにゃ。
心理学が言う量的な研究とは、とある条件下で人がどのような心理になりやすいかを統計的に測るということなのにゃん。
だから心理学の場合、物理学や化学など絶対的な法則というものは無いのにゃ。
人の心なのだからもちろんなのなにゃが……。
「科学性」というものを信じすぎてしまって、それが絶対的なもののように思えてくるのにゃ。
でも、心理学が相手にしているのは人の心なのにゃん。
人の心は、誰一人として同じ色を持つ者はいないのにゃ。
なので、臨床的な目で見る時は「個」というものと――――その人の持つ世界と――――カウンセラーというものは向き合っていく必要があるように私は思うのにゃ。
話が大分ずれてしまったにゃ。
私がScienceやNewtonを読む時に気を付けているのは、「ここにはこういうことが書いてあるけど、他にどんな考え方ができるだろう。他の視点で視ることができるんじゃないのか」と多面的に、玉虫色的に物事を観察しようとする意識なのにゃん。
そうやって他の文献を調べていくと、意外な発見があったりして中々面白いにゃ。
質的な文章の本も好きにゃ。
文化人類学や哲学、民俗学等々。
世の中には様々な文化や物の見かたがあると新しい発見があるのにゃ。
様々な発見があるのにゃ。
本を読むと言うことは、筆者や作者、主人公の考えや世界観をトレースしていくことだとも言えると個人的には思うのにゃ。
人が物事を経験するのには限界があるのにゃ。
でも、本を読めば違う人の考え方、世界観、文化を知ることが出来るにゃ。
一冊読めば二人分。
二冊読めば三人分。
三冊読めば四人分。
という風に、読めば読むほど自分の中の世界が広がっていくのにゃ。
自らの経験のみでは知見が狭いのにゃ。
それだと、檻の中にいる鳥や動物と同じなのにゃ。
それは、航海や洞窟の探索と同じだと私は考えているのにゃ。
航海の場合、自分の足で自分の力で舵を切って進んでいく。
そこは自分の知らない未知の世界。
島に行けば、知らない植物や鉱物、動物など思いもよらない出来事が待ち受けているだろうにゃ。
洞窟の場合も同じにゃ。
そこに何が待ち受けているのか分からない。
でも、その「未知なる世界」が人々を魅了してきた。
知識という、新しい考え、文化という自分では考えもよらない宝石や財宝を求めて私は本を読むのにゃ。
未知なるものは人々を魅了するとともに、恐怖の対象でもあるのにゃ。
でも、そこで立ち止まっていては何も始まらない。
確かに、危険は待ち構えているだろうにゃ。
猛毒かもしれないのにゃ。
でも、例えそうだったとしても、私はその「未知への魅力」には――――宝石には――――財宝には――――敵わないのにゃ。
例え、それを知って、死んだとしても、新しい門を開くことが出来たのなら本望にゃ。
必ず、その毒を解毒する人が現れると信じるのにゃ。
そうやって、人々の科学や文化は紡がれてきたのにゃ。
それに、危険であれば危険であるほど知的欲求が刺激されるのにゃ。
これは、神話の時代から人類に課せられた重罪にゃの。
未知であればあるほど人はそれを知りたくなるのにゃ。
故に、私は本を読むのにゃ。
そこに未知の宝や宝石がある限り、どこまでも深く、広く、私は彫り続けるのにゃ。
また、本を読むことで考えが深まるのにゃ。
考えるという行為は、人のみに与えられた特権だと思っているのにゃ(私が知らないだけかもしれないが)。
考えることは苦しいにゃ。
人は考えれば考える程、息苦しくなるにゃ。
「生きる意味」なんてその典型なのにゃ。
「生きる意味」なんて人間に存在しないのにゃ。
私達はたまたまこの世界に、この時代に、この地に生を持って生まれて来たのにゃ。
それはほんの偶然だにゃん(人によってはそれを『奇跡』と言うのだろうが)。
それでも、人は自分の生きている意味を、存在意義を見出したがるのにゃ。
考えれば考える程苦しくなるだけだろうににゃ。
自分が生きている理由というのを知りたいのだろうにゃ。
自分が生をこの世界にこの時代に受けたのは必然であると。
そういう「特別感」というのを人間は感じていたいのかもしれないのにゃ。
そういう意味で言えば、私達が「英雄」に憧れるのは必然なのかもしれないのにゃ。
――――「世界を救うため」、「大切な人を守るため、救うため」。
存在意義、生きる目的というものがはっきりしているのにゃ。
だからこそ、多様な人生がありすぎる現代社会で、「存在意義」を見いだせない人は英雄に憧れの念を抱くのだろうにゃん。
が、考えないというのは。「死」や「ゾンビ」と同義にゃ。
変化しないというのは「死」や「ゾンビ」と同義にゃ
考えるのは苦しい、苦悩かもしれないが、「痛み」というのは、「苦しみ」というのは、生きているからこそ感じるものなのなのにゃ。
それを感じることが出来なくなったら、それは「ゾンビ」か「死人」だろうにゃ。
苦しいからこそ、苦悩が多いこそ、宝石や新しいものを発見した時の高揚感と感動は堪らないのにゃ。
何も考えない方が楽なのかもしれないが、それだと何も見つけることができないのにゃ。
探さないと宝石は見つけられないにゃ。
自分の足で歩まなければ、進まなければ、本物の宝石や景色というものは見つけられないのにゃ。
本物の感動を感じることが出来ないのにゃ。
「考える」という行為は、人々に苦しみを与えるものなのかもしれないが、その先にある光や景色を目指して私達は歩もうではないかにゃ。