「努力」と「成果」についてのお話
・投稿につきまして、引用文がありますが、それらは全てご本人様の承諾を得て引用しています。
・協力して頂いたフォロワーの皆様ありがとうございます。また、引用文を承諾して下さった@9CwX4uQRriZxOKE様と@inui_takahumi様につきましては、特に感謝の言葉を贈りたいと思います。
・本作品は個人の主観的な意見です。異論反論ありますでしょうが、そこら辺はご了承下さいますよう宜しくお願い申し上げます。
今回は、努力と成果の話をしてみようと思う(ツイッターの小説垢で話したから)。
もちろん、これは私の勝手な主観的な意見であって、他にも色んな意見があって良いと私は思うし、それらの意見を認める。
私はツイッターでこんなことを呟いた。
「努力したからと言って、成果が出る訳でも無いけれど、努力をしない人間には成果を得る権利すらないと思うのにゃ。何らかの成果を出した人は、質と量(個人差がある)をそれなりにこなしてきたからその結果として得られるものがあると思うのにゃ。つまり、努力って言うのは、何らかの結果や成果を得るための参加者条件であって、過程であると私は思う」
(@GFCYAA 2019.6.2.ツイッターより引用)
そこで、有難いことにフォロワーの皆さんから様々な意見や疑問点、指摘があった。
(私は、批判や疑問を自分の考えを深める良い機会だと考えている。)
ここで、とても印象深い意見があった。
それは以下のようなものあった。
「貴方の意見では、例外が生じ(成果に繋がらない「無駄な努力」など)、努力と権利を無闇に結びつけると、合理性が損なわれ、結果的に個人にも社会にも余計な負担が生じて成果の総量が減ると思うのにゃ」
(@9CwX4uQRriZxOKE 2019.6.2.ツイッターより引用)
と。
その例として、その人は三つの以下のような例を挙げた。
1.「東大合格者には授業を聞いただけで合格できる人もいるけど、そういう人が努力量の差で差別されることは無いし、差別される理由も無い」
2.「なんとなく買った3枚の宝くじが一等前後賞で、努力なく大金という成果を得た場合。その人はただ宝くじを買っただけにゃんけど、他人に迷惑をかけない範囲でならどう使おうが自由だし、結果的にそれでお金の流れが少し良くなるなら社会的にも望ましい」
3.「企業が払える報酬の量が決まっている状況で努力や勤続年数を判定基準にすると、本来ならより大きな成果を上げられる人に割かれたはずの人件費が、成果を上げられない人に流れる可能性がある」
(@9CwX4uQRriZxOKE 2019.6.2.ツイッターより引用)
ごもっともな意見であると私は思う。
というか、完全に盲点であった。
私はてっきり、精神的な話をしていたつもりだった。
なので、まさかお金の話が来るとは思っていなかったのだ。
まあ、それは置いておこう。
この意見は非常に貴重である。
3.のような状況では、確かに努力と成果が釣り合わない。
それだと、私の述べた「努力をしない人間には成果を得る権利すらない」という意見は矛盾する。
幾ら努力をしても、その成果は同じであるのだから。
私とこの人の意見が異なるところは、この人は成果を「お金」と考えているのに対し、私は「夢、目標」と考えている所なのではないかと思う。
そう考えた時に、彼が呟いた「例外が生じ(成果に繋がらない「無駄な努力」など)、努力と権利を無闇に結びつけると、合理性が損なわれ、結果的に個人にも社会にも余計な負担が生じて成果の総量が減ると思うのにゃ」という意見は納得がいくものであった(個人的に)。
そのような考えの相違というのは得てして仕方がないものである。
それを踏まえてこれから私はこの「努力」と「成果」について考えていきたいと思う。
他にもさまざまな意見があったが、私が感心したのはフォロワーの例や思考実験をどんどん考えて意見を求めてくることである。
私は彼らの想像力に舌を巻かざるおえなかった。
それらを以下に述べる。
読者の皆さんも是非考えてみて欲しい。
(以下のQ.1~Q.5の質問は2019.6.2.に@inui_takahumiからのツイッターを抜粋したものである)
Q.1
「みんなに愛されるお菓子が作りたくて、有名なお菓子メーカーに就職した人が、人事部に配属されてお菓子に一切触れられない仕事をさせられているとしたら、普段の仕事の努力は夢を叶えるために続けるべきだと思うかにゃ? それとも転職すべきと思うかにゃ?」
Q.2
「サッカー選手について、空いた時間に熱心にファンと触れ合ったり、試合を見に来て下さいと街頭でチラシを配ったり時間を冷やす選手と、『そんな暇があったら一つでも多くのサッカーの試合を見てプレーの勉強をするわ』と言ってそれを実行する選手、どちらの努力が選手としてより質が高いと思うのかにゃ?」
Q.3
「ネット小説投稿者にとって、『どんなにいいお話も読まなければ人気は上がらない」というジレンマは大きいと思うのにゃ。書籍化を目標とするネット小説家がすべき努力は、『面白い話を書く努力』だけで良いの『読まれる努力』もすべきなのか」
Q.4
「五輪で金メダルを取りたい! と思っていたボクシング選手がいましたが、オリンピック競技からボクシングがなくなってしまう。夢を果たすため、競技の認知を上げるために、IOCに働きかけて再びボクシングを大会競技に認めてもらいました。満を期してオリンピックに出場をしましたが、長らくボクシングの練習に集中できていなかった彼はあっと言う間に負けてしまった。優勝の名誉は、彼がIOCに向けた活動をしている間ボクシングの練習に集中していたライバル選手がさらっていきました。どの程度理不尽な話だと感じるか。それとも、全て仕方がない話だと受け入れられるか」
Q.5
「小説家になりたい夢を持った人がいた。しかし、若いころはニート生活でゴロゴロ。筆も取らずネトゲとゲームの毎日。仕事もせいぜいバイトで、だんだん家の外に出る回数すら減ってきていた。遊び呆けて40が過ぎて『さすがにまずい』と思い、ニートの」毎日を書き綴った小説を書いたら世間に評価されてあっという間に雑誌掲載。単行本も発売され、文芸賞まで貰った。そのお作者は『これまでの人生全てがこの作品の糧になりました』と答えたそうです。彼の半生を知っている人が見たとして『彼は小説家になるために日々努力をしていた』と評価出来るでしょうか?」
以上の五つの質問を受け、私はそれぞれに回答していった。
以下に私の回答をそれぞれに述べる。
(以下のQ.1~Q.5は@GFCYAA 2019.6.2.ツイッターより引用)
Q.1
「その人の認知の取り方次第にゃ。
それで、「自分はお客様に愛されるお菓子を作っているんだ」とやりがいを感じることが出来ればそれでいいし、それでは満足できないのなら、努力をし続けるか、転職するか、自分でお菓子メーカーを造るかすればいいと思うのにゃ」
Q.2
「選手としての質というのが問題にゃんね。この『選手としての質』は色んな要素が含まれているからにゃ。ファンと触れ合うのも選手として大切だし、プレーに磨きをかける為に努力をするのも選手として努力しているわけだし。より多く点を取るのが選手としての質と言うなら、後者が有利なのは間違いないにゃんね」
Q.3
『面白い話を書く努力』をするだけよりも、 『面白い話を書く努力』と『読まれる努力』をする方がいいに決まっているにゃ。1つ努力するより、2つした方が良きにゃ。その方が読まれる可能性が上がりやすくなるんだからにゃ。『読まれたい』と思うなら、その努力をしないとにゃ。まぁ、それをしたからと言って絶対に読まれるという保証は無いにゃけど』
Q.4
「それは、悲しいのにゃ。仕方が無いと言えば、仕方が無いけどにゃ。けど、その人がいてくれたおかげでオリンピックでボクシングが出来るわけだしにゃ。優勝よりもその人のその熱意に私は感心するにゃ。その人が1番の功績なのにゃん!次のオリンピックに向けてファイトなのにゃん!」
Q.5
「『努力』した。とは言えないと思うのにゃ。まぁ、ニート生活でした漫画やゲームが小説を書く上で『糧』となっているのは確かだと思うにゃけどね。明確な目標があるからそれは『努力』と呼べるのであって、そうでないならそれは努力では無いと思うのにゃ」
以上をまとめて私の意見を述べてみようと思う。
最初にも述べたように、努力したからと言って、それが成果(結果)に繋がるわけではない。
が、努力をすることそれ自体は非常に重要なことであるし、努力をしない限りは成果と言うものは見えてこない。
確かに、同じ成果でも、一勉強して出来る人と十勉強して出来る人がいる。
誰しもが、一勉強して結果が出る方が良いと考えるであろう。
それはその通りだと私は思う。
が、本当に大切なものはそこでは無いのだ。
一定の所まではそうであろう。
が、『才能』には限界がある。
『才能』も努力をして評価されないと、その『才能』も無意味なのである。
『結果』を出すには無論努力だけでは事足りない。
才能や運も必要であろう。
が、努力が無いとその『結果』を見ることは不可能なのである。
また、努力は本人や他者の認知によっても異なってくる。
例えば、本人が努力していても、親や他者から見れば「お前は努力していない」と言われる。
ということを読者の皆さんも一度は体験したことがあるのではなかろうか。
「努力」とは、本人や他人の認知の仕方によっても異なってくるのである。
それは、主に質や量の話であるが……。
他にも、例えば、水泳を「好きでやっている」人はそれを『努力』とは呼ばないであろう。
その人は「好きだからやっているだけ」と答えるであろう。
逆に嫌々やっている人は、同じ行為でもそれを『努力するんだ』と言うであろう。
そう。
同じ行為でもそれが『努力』か否かは大きく異なってくるのである。
そこで、私は努力を以下のように定義した(無論、これは私の勝手な考えである)。
努力:とある目標に向かって何か行動を起こすこと(本人の自己認知、または、他人の評価によって異なる)。
つまり、目標を設定して、それに向かって何か行動を起こさないとそれは「努力をしている」とは言わないと私は言っているのである。
やみくもに何かしてもそれは果たして努力と言えるのか?
例えば、何も目的も無く数学を解く。
小説を書く。
絵を描く。
これらは、「遊び」ではなかろうか。
皆さんはこれらを「努力している」と果たして言えるだろうか。
私はこれらを「努力している」とは言えないと私は思う。
が、ここで自分で反論である。
強制的に勉強やピアノを習っている。
これは確かに「努力している」ことになるのかもしれない。
が、それは本当にそれは「努力している」と言えるのだろうか。
将来的に考えれば、それが役に立つのかどうか分からない。
意味もなくその行動を起こしている。
意味もなく、それが何の役に立つのか分からずに「努力」をしているというケーズもある(今の日本の教育が最もたるものではないか。無論、全てではないが、多数の生徒は何のために勉強しているのか。何の役に将来役に立つのか分からずにしているであろう)。
それらのような「(恐らく)無駄な努力、何のためにやっているのか分からない努力」というのも存在しても良いのではないか。
そう考えると、「努力」の定義が変わってくる。
努力:継続的にその行為を行うこと(本人の自己認知、または、他人の評価によって異なる)。
こんな感じだろうか。
個人的には前者の定義の方が好きだが……。
かなりネガティブな意味も含まれる定義になってしまった。
「無駄な努力」というのも確かに存在するのかもしれないが、「継続すること。我慢して継続すること」は非常に重要なことに変わりは無いように思える。
が、重要なのはそれらを「無駄な努力」を本人が如何に「如何に無駄にしないようにするのか」ということではなかろうか(特に勉学では)。
「何事にも意味はある」と思って努力をしていった方が良いのではと私は思う。
成果を出すには、運、努力、才能、その他環境諸々と様々な要因が絡んでいる。
その中で、後悔しないように精一杯、最善を尽くしたり、チャレンジするしかないのかもしれないと私は思う。
成功したか成功しなかったか。成果が出たか出なかったかはその後の話だ。
・読んで頂いた読者の皆様ありがとうございます。本作品が皆様に何らかの糧になれば作者としてはこれ以上嬉しいことはありません。引き続き投稿はしていきたいと思いますので(いつになるかは不明)その時はよろしくお願いいたします。