リスタート
幸福。
これまでの人生。ついにその言葉を知ることななかった。
物心ついた時、実の母親から うちは貧乏だから我慢してね。と、言われた台詞は未だ、記憶にこびりついている。
1DKの小さな部屋。一食、食べることすら難しい環境。父親はおらず、母親の姿しか知らない。その生死すら不確かであり、聞く気にもならなかった。
遺した物は一千万程の借金。来る客はソレを取り立てるヤクザ。類は友を呼ぶと言うように。クズはクズを呼ぶとその時、知った。
そんなんだから、母親の仕事は人に言えるようなものではなかった。それでも、義務教育は強要されるようで小学校には通わされた。
苛めが身に襲い掛かるのにそう時間は掛からなかった。
当然だ。身なりは汚く、給食費もろくに払っていない。ボロボロのランドセルに数本の鉛筆と小さな消しゴムしか持たないのだ。誰だってそんな汚物。廃棄したいに決まってる。
そしてそれは子供に限った話ではない。教師。大人もそうだった。苛めに気付いていながらも見てみぬ振り。学校が。いや、社会の全てが自分という存在を邪魔としていた。
時が流れ、小学五年の時。母親が死んだ。自殺だった。見付けたのは当然、自分で。その時、人の死体を初めて見た。……いや、見てはいなかった。血の臭いと実の母親の空を仰ぎ見るような亡骸は当時の自分には耐えられたモノではなかったのだ。
葬式は開かれず、遺体だけが燃やされた。当然、墓はない。母親が生きていたという存在証明となるモノは燃えて残ったその遺骨だけだった。 それも今では土に還り、無いものとなっているだろう。
なら、何であの人は生きていたのだろう?生きていて幸せだったのだろうか?
幼いながらもそう思った程だ。
母親が死んだからといって、生活は変わらない。借金はあったし、引き取り先の祖父母の家も歓迎などしてくれなかったからだ。
生活は貧乏。更には嫌味を言われ続ける日々。精神が壊れるのにそう時間は経たなかった。
学校には行かず。ただ、家でも何をするわけでもない。何度も死を覚悟したが、いざという瞬間に母親の死を思い出す。生きている方がよっぽど辛く、恐いのに。それ以上に死が恐かった。
結果、二十とちょっと。何をするでもなく、生き長らえてしまった。
その過程。祖父母もいなくなっていた。部屋に籠っている間に消えていたのだ。死んでしまったのか。逃げたのか。真相は謎であったが、水道。電気。ガスも止められてしまっては生きてはいけない。長いニート生活は強制的に終わりを迎えた。
住む家がなくなり、自立しなくてはならない状況となったが社交性もなし。常識もなし。知識も才能もない自分が社会でやっていける筈もなく。結局はどうしようもない人生を送る羽目となった。
運よく受かったバイトも数週間で解雇。それを繰り返していくと働き口など残ってはいなかった。
所持金が三千円程になり、生きる活路すら見失った状況。それでも死ぬことだけは恐かった。
死にたくない。けれど、生きたくない。
そんな謎の矛盾思想が脳内を混乱させる。
そんな時だ。転生サイトの存在を知ったのは。
掲示板で盛り上がっていた内容は、信憑性を疑う。都市伝説や詐欺紛いのものではあった。だが、喪うものなどない自分にとってはどうでもよかった。神にでも祈る気持ちで転生サイトというワードを打ち込んだ。
そして……
「う……うぅ。」
脳の揺れが未だに残っているようで立つことが困難といえた。
数分の時間後。ようやく、まともに思考が動くようになった。
「…ここはっ!?……」
発した自分の声が普段、聞いている自分のものではないことにまずは驚く。自分が選んだことで、当然の事なのだがそれでもだ。まぁ、その事を忘れていたというのが大きな理由の一つかもしれないが。
「高い声……。だけど、女ではなさそうだな。鏡でもあれば……。」
言って、周囲を見渡す。
何十もの長机。床は木造。屋根は高く、空は見えない。後ろには大きな押し扉。前には髭の生やした男が大きな翼を広げている画がでかでかと描かれる。
大天使とかいうやつなのだろうか?その辺の知識が貧弱なゆえ、なんとも言えないが、その画には惹かれた。
自分を導いてくれるような。そんな感覚に陥る。
だが、今は画ではなく、鏡だ。まずは自分の事を知る。それからが状況整理だ。
「…あっ。」
鏡ではないのだが自分を映し出してくれるであろう物を発見した。
ガラスだ。
数はそんなに多くはないのだが、ポツリ。ポツリと昔ながらの窓ガラスがあった。鏡程には映してはくれないだろうが、自分を知れる位には使えよう。
それにしても、ここは集会所か。それとも教会とかなのだろうか?
転生できたのは確かなのだろうけど…
などと思考を巡らせているうちに足は窓ガラスの前で止まっていた。
どれ……ッ!?
どんなイケメン。もしくは不細工かな。などと首を上げたのだがその予想はあろうことか見事にぶち壊された。
「これが…。これが俺?」
ガラスに反射する自分の姿はとても男とは思えない容姿をしていた。髪は白銀ショート。パーマのようなものがかかっているのかふわふわ。モコモコしている。
顔は小さく、目はパッチリ二重。まつげは長いし、唇は薄いピンク色にてかっている。
改めて身長を確かめるが、これまた低い。全てにおいてこの体は小さく、可愛い。そんな印象だ。
見えにくい窓ガラスで、それだけの情報が分かれば十分と言えよう。
それにしても。
「男の娘というやつか…。」
胸はないみたいだし、確認せずとも男にしかないモノがある事は分かる。つまりはそういうことだ。
予想の斜め右上を貫いた。そんな感じだ。
…まぁ、とはいえ。体なんて二の次だ。驚きはしたものの、それと言って不満があるわけでもないし…。
重要なのは前の自分をリセットできたかどうかである。そして、それは見事に叶ったわけだ。文句の言葉など出る筈もない。
「さて…。んじゃ、行くか。」
最低限の情報は得た。ならば次だ。未だいるこの場所からでは、本当に要望通りの世界に来たのかどうかが分からない。パソコンやネットに繋がる機器がない為にサイトとの連絡はもう取れない。騙されたという可能性は大いにある。
ドックンッ。ドックンッ。ドック…
緊張が胸にうるさい。手の汗が握る取っ手を湿らせる。
この先に。この先が。
そんな不安と期待が体中の神経を刺激する。
ゴクリッ。
覚悟は決まった。この先に見える光景が火の海であっても。錆びた町であっても。人、一人いない荒野であっても。何であっても。あの世界ではないことは確かなのだ。
全てをリセット。全てをゼロに。この体で俺は生きる!
ギッ…ギギィィィィィィ。
「なっ…」
古びた木造扉を開けると、そこはファンタジー小説やアニメ。漫画で見るような世界が広がっていた。
馬車での通行。商人の客引きがうるさい路上。独特な衣服。貴族めいた人間が堂々と歩く。獣人なんかもいたりするしまつ。
「本当に…本当に来たんだ。」
歓喜が収まらない。今にでも大声を上げて走り回りたい。
だが、焦ってはならない。世界が変わったとは言え、弱いままではあの世界にいた頃と何も変わらない。
それにこの世界で争いがあるのか。ないのかも未だ、曖昧だ。
まずは、情報が欲しい。
「…そういえば、お金とかってあるのか?」
金が無ければ生きてはいけない。それはどんな世界でも共通といえよう。自分の能力も分かっていないのに働けるとも思えない。年齢制限とかもある可能性だってある。てか、自分は何歳なのだ?見た目十代くらいにしか見えなかったんだが…。
まぁ、そんな不安がよぎったので身体チェックをする。
数日分のお金くらいは用意してくれているだろう。ペナルティがどうとか言っていたし。それは裏を返せばペナルティを受けなければ最低限の用意はアッチでしてくれるという意味だ。
とはいえ胡散臭いサイトではある。情報という情報が掲示板の噂だけだ。もっと調べるべきだったか…。…いや、そんな余裕はなかったか…。
ガサッ…。
身体チェックを始めて数秒。ズボンのポケットからある物が見付かった。
「…カード?」
見付けた物はお金ではなかったが、キャッシュカードのような物が入っていた。この世界でもカード払いとかできるのだろうか?
それともローン的な…。どこだかにお金を借りるような。そんな様なカードなのだろうか…。
「…とにかく、使ってみないことには何にもならないか。」
暗い思考はシャットアウト。せっかく、こんな世界に来たのだ。明るく。ポジティブにいきたい。
「あっ…あの?」
路上に広がる店の一つ。何か香ばしい匂いが漂うその店の店主に声を掛ける。ていうか、言葉とか通じるのだろうか?
「へいっ!らっしゃいっ!」
気前のいい。何か魚屋さんみたいな返事が返ってきた。言葉が通じるとか通じないとかいう懸念は全くの杞憂であった。
「その…これは何を焼いているんですか?」
「ん?嬢ちゃん?さては、観光客だな?これは近隣の森で魔導ハンター共が狩った一角竜の肉だよ。それを一晩、秘伝のタレに漬けこまし、焼いてんだ。どれ?試食していくか?嬢ちゃん、可愛いからな。特別だ。ははっ。」
そう言って、店主は棒に刺さる肉を手に持ち、サイコロサイズにカットしてくれた。
「ほれ。」
笑顔がよく似合う店主は爪楊枝のような物にカットした肉を突き刺し、それを渡してくれる。
「ありがとうございます…。」
異世界で始めて口にする食材がまさか一角竜の肉とは…。ていうか一角竜って何よ?竜の肉?滅茶苦茶、高級なんじゃないのコレ?
などと貧乏生活が染み付いた思考がよぎったが、既に手には爪楊枝が持たれている。
パクッ。
「あっ…うまっ…。…おいしいです。」
「あたぼうよっ!こっちとらこれで生活してんだかんなっ!」
俺はその言葉においおい。あんたは江戸っ子かよ。というツッコミを一言。二言。入れたかった。
まぁ、言わないのだけど。
それはそうとこの肉だ。竜の肉なんて食べた事はないのだが、以外といける。外はカリッとした皮で包まれ、中はモッチリ。食感は最高と言えた。
秘伝のタレというのも自慢するだけの事はある。元いた世界での調味料で例えるなら赤味噌に近しい。それを酒やらここのスパイスやらと混ぜ合わせ作った物と推測する。そしてそれが肉によく合う。一晩漬け込むことで肉にはよく染み込んでいるし、熱を通すことで味噌自体の風味と旨味が外側にも流出して肉全体を包み込む。そして、それは通る客の鼻をも掴むわけだ。
「んで、嬢ちゃん。これ、買ってくか?棒に刺してあるからな食べながらでも歩けるぞ。嬢ちゃん、ほっそいからな大きいやつをやるよ。」
「は…はは。」
今頃だけど、この人。俺を女の子だと思っているらしい。まぁ、確かにこの姿を初見。男だと思う人は少ないとは思うが。
「えっと…。その…。このカードって使えますかね?」
女だと勘違いしてくれている方が都合がいいので敢えて言わない。これで、このカードが使えないなどと言われたらタダで肉を食わせて貰っただけだ。女ならば怒鳴られるなんて事はないだろう。
「ん?カード?」
さっきのカードを店主に見せるとまず始め、店主は眉を潜める。その仕草。表情は決して良いものとは言いがたい。少し心に雲が掛かったのは言うまでもないだろう。
「あー。思い出したわっ!このカードはあれだっ!換金所の方で金に代えてくれるってやつだ!何だ嬢ちゃん、ギャンブルしてきたのか?だが、換金所の場所が分からなかったんだな。はは。」
何が何だか分からなかったが取り敢えずは全く使えないわけでは無いことは分かった。つまり、このカードはお金としては使えないが、お金にはなるということだ。
この店主は人が良さそうなところがある。色々、聞きたいのは正直な感想。だが、今は金だ。物を買った後でならそれこそ色々と聞きやすい。
「えっと…。実はそうなんです。その…換金所?の場所ってどこにあるか分かりますかね?」
「あぁ。幾つかあるがな。ここから近い場所はこの通りを抜けた先。見える一つ目の路地に入る。そこを真っ直ぐ行くと今は使われてない酒場が見えるんだ。そこの中に確か換金してくれる奴がいるはずだ。」
「えっと…それは換金所なんですか?何かとても怪しいような…?」
「はは。何だ?ギャンブルしておいてビビってんのか嬢ちゃん?確かに嬢ちゃんなら悪い男が、悪い考えを持って行動に移るかもしれねぇな。」
おいおい。笑い事じゃないだろ?普通に犯罪だろ?それ?
「その…一緒に付いてきてはくれませんか?」
上目遣いとかよく分からんが。自分に出来る最大限のぶりっ子をしたつもりだ。可愛い。可愛いと連呼していたこの人ならこれで…。
などと思ったのだが甘かった。
「はは。バカ言ってんじゃねぇよっ!見て分かるだろ?仕事中だ!そのカード、金に代えたらまたここに来な。そしたらサービスしてやっからよ。はは。」
「あっ…はい。」
そんな、はっきり言われたら引き下がるしかなくなる。店主が俺に付いてくるメリットなどないのだし。 せっかくの情報支援者。ここで無くすのも惜しいといったところだ。ここは大人しく一人で向かう以外にないと言えた。
それにしても何故、サイトはこんな面倒な事をしたのだろうか?わざわざ、カードを換金させる意味はあるのだろうか?
単純にお金を持たせたくなかった?換金所に行かせたい理由があった?特に考えなし?
そんなこんなを道中考えるが答えという答えはついぞ出なかった。
「まぁ、ここに入れば嫌でも分かるか…。」
見上げた先には、店主が言っていた通りの古びた酒場。窓ガラスは幾つか割れており、押し扉も一つ外れている。中の様子は生憎、ここからではよく見えない。中に入らない事には何も分からないということだ。
ギシッ。
「暗いな…。」
中に入るとまず始め、軋んだ音が床を鳴らす。ふっとした瞬間に床が抜けそうで怖い。
それに、視界が最悪で足元がよく見えない。ガラスの破片やら木材の断片を踏んでいる感覚は音で分かるのだが、危険な事には変わりない。
本当にこんな所に人がいるのか?
などと不審に思った矢先。前方の方からドスのきいた声が響く。
「誰だぁ?」
「あっ…!?あの…」
声に驚いた俺は両肩を上下に揺らす。
「んだ、お前?ガキか?」
「えっと…あの…俺は…」
声の主はカウンターの上にでも乗っていたのだろう。よっ。と掛け声を一つ上げるとその足を床に付けた。その瞬間、少しだが地面が揺れた。
「んだよ?こんな場所に何か用かよ?わりぃがテメェにやるような酒は置いてねぇからな。見ての通り。店はこんなんだ。」
「あ…小さい…」
「アア?」
「ひっ…」
ようやく、視認できた目の前の人物。その姿に思わず口を滑らせてしまった。
「んだ、お前?私の身体に何か言いたい事でもあんのかよ?こう見えてもれっきとした大人だからなっ!二十歳越えてるからな!アァ!」
柄の悪いヤンキーのような威嚇。それが背丈、幼稚園くらいの女の子にやられているのだから何だかホッコリした気持ちになる。本人には口が裂けても言えないが。
「も…文句なんてありませんよ。その…実はある人にここで換金をしてくれる人がいるという情報を貰って…。それで来たのですが…。あなただったりしますか?」
敵意が無いことを示すよう、両手を上げながら笑顔なんかも刻んでみせる。
「へっ!」
それが効いたのか、幼女体型の女性は唾を吐き出した後。俺の前から顔を引いた。
「ああ。換金ならしてやるよ。ただし、それを証明できるような物があるならな。」
ドカッとカウンターに座る女性はそんな事を声を荒げに言ってのける。 完全に舐められている。
「よく分からないですけど、コレでいいんですか?」
証明という言葉はイマイチ分からないが、ある物と言えば一つ。例のカードを差し出す他にない。
「ちっ。んだよ。ホントにあんのかよ。まさか、どこの誰かからパクったか?」
「いや…そんなことは…」
第一声が彼女のコンプレックスに触れたモノだった為か、未だに敵意剥き出しの姿勢が解かれていない。
まぁ、この人とはカードをお金に換えて貰う。その為だけの今日限りの関係だ。差して問題があるわけではないのだが。
「ほう。なかなかツキは持ってるみてぇだな。ゴールドカードなんて早々に拝める物じゃねぇ。ルーレットか?カードか?それとも闘技場にでも行ったか?」
カードを渡すと彼女の顔からは眉間の皺が取れたようであった。先ほどの態度から少し変わって、緩くなったとも思えた。
「はは…。どうでしたかな?」
話の口振りからこのカードはギャンブル系で勝った時に貰える物と推測できた。
元いた世界でパチンコ。競馬。宝くじなどと言った、ギャンブルをやった試しがないから何とも言えないのだが…。
「んじゃ、仕方ねぇな。」
彼女はカードを手にすると何故か腰横に手を乗せた。
「あ…あの?」
一瞬の判断が全てを決めることがある。その時の俺は正にその通りであった。
シュッ!!
「クッ…」
鋭い閃光が曲線を描く。それを見た。というよりも、そう見えた。何故なら、その動きは一瞬であったからだ。
「な…何を…」
「ちっ。避けやがったか。」
舌打ちを口に出す、彼女の手元には先端を赤く染める短剣の姿が視認できた。勿論、そこに染まる血は俺のモノだ。
「そのカードを奪うつもりですか…」
「あ?だったらどうするよ?」
「それは…」
浅はかであった。異世界とて、金に飢えている者はいる。その事は他でもない。自分がよく分かっていた筈だった。それなのに…。
「肉屋の男とはグルだったということか…。」
「は?肉屋?悪いが私はそんな奴は知らねぇな。まぁ、昔。ここが換金所だったのは事実だったからな。間違えたんじゃねぇのか?」
「クッ…」
何であれ、ピンチであるのには変わりない。カードは奪われ、命の危機にすらある。争いのない世界とて、人。 個人の争いは例外ということだ。
それに、彼女…。
「視覚の幻惑…。」
「まぁ、バカでも分かるか。そうだよ。私の魔法は相手の視覚を惑わす事を得意とする。この魔法のお陰でギャンブルでは稼ぎまくってたんだけどな。バレちまって出禁よ。出禁。だから、もう二度とギャンブルはできねぇ。」
肌が張り付くような感覚。先程の例えで言う。一瞬の判断はこの場からの逃走を告げている。だが、それに応える訳にはいかない。今、ここでカードを取られてしまってはそれこそ絶望的だ。
「そんで、今日。ギャンブルで勝ったムカつく野郎が現れた。それもゴールドカードを持ってだ。人の寝床を荒らしにきただけに留まらず。テメェの財産、見せびらかすとはいい度胸。死ねよっ!!」
またも手に持つ小刀が消える。いや、正確には彼女の魔法でそう見えさせられているのだ。
だが、長さはさっきので分かっている。避けるのは容易い。
が。
「ガッ…何で?」
斬られた。
小刀のリーチを考えて背後に跳躍した筈なのにだ。
「残念だったな。カウンターの後ろの床。その床には幾つもの剣が転がってんだよ。始めの小刀は私の護身用だ。そんで今、持ってるのが。」
「なっ…」
苦痛を感じながらも目前の光景に唖然とする。何故なら彼女の手にはさっきまで見ていた長さとは異なる長剣が握られていたからだ。
「視覚の幻惑。気付いた割には間抜けだったな。わざわざ剣を見せた意味?今なら分かるだろ?」
「クッ…」
完全にやられた。彼女の魔法は視覚を惑わす。つまりは幻覚に近しいモノをも見せるという意味だ。いつ、すり替えたのか?正確には分からないが、さっきまで見ていた刀。あれの本当の長さは今、見せているソレが正しいと言える。
「へっ。これだから、平和ボケしたボンボンわ。騙されたテメェを憎めよ。」
「はぁ…はぁ…」
俺の体力は虫の息。腹を剣で斬られたことなどない。その痛み。恐怖は尋常ではなかった。
出欠大量。だが、直ぐにでも死ぬような怪我ではない。…ないのだが立ち、逃げるという行動はできない。まず、体が動かないのだ。
よって、俺はここで殺されるしかない。異世界に来て数時間。短すぎる再スタート。
「じゃぁな。ザコ。」
彼女が持つ剣が振り下ろされる。今度はしっかりとその姿。長さが確認できる。彼女も俺が既に諦め切っていると気づいているのだ。
ぶぅぉぉぉぉんっ!!
素早い風切り音が空を斬り。そして…
「え?」
俺は斬られた。…と思ったのだが、斬られてはいなかった。
「時間が止まってる…?」
見える景色は全てが静止した世界。目の前で長剣を振り下ろす女性が止まっているのだ。そう言うしかない。
まさか、俺の魔法って…。そう思った瞬間。
「…やっぱり。」
軋んだ床音と共にそんな声が耳を掠めた。
女の声?それも若い?
激痛とその他諸々の感情で思考がままならない状態ではあったが、それだけは何となく分かった。
ギシッ。
「え?」
地面に寝転がった状態。その顔前に影が掛かる。そして、次の瞬間。
「生きてた…。生きてたんだね。良かった。良かった…」
大粒の涙が上から降り注がれ、頬に弾かれる。
「あっ…あの…」
訳が分からなかった。目上に立つ少女の存在は勿論。自分を見て、涙溢す意図も。
痛い。怖いなんて言ってはいられない。
「君は…」
言って立ち上がろうとしたその時。
「…へ?」
甘く、柔らかい。花畑に吹く、そよ風のような。
思考がそれをキャッチするよりも前に、俺の体は彼女の両腕の中にいた。
「今度は放さない。今度は君を放さないからねぇぇぇーー。」
俺にダイブを決めた彼女はその勢いを緩めず、今度は大声で泣き出す。
俺の頭上にハテナマークが大量に浮かんでいるのは言うまでもないことだろう。
斬られた痛みも。先程まであった恐怖も。 彼女の腕の中にいた俺にはもう無かった。
止まった時間。彼女の泣き声だけが耳に響いていた。始まりの目覚ましにしては少しばかり胸が傷む。
そう思った。