9 三兄弟の憂鬱
1~8話に入れようとして入らなかった閑話みたいな感じになります!
<1話のちょっと前>
「お願いします! 仕事をください!!」
そう言って勢いよく頭を下げた少女を見て、ジークベルト・ヴァイセンベルクは珍しく困り果ててしまった。
ことの始まりは少し前、末弟ヴォルフの(おそらく)恋人──クリスが屋敷を訪ねてきたことから始まった。
ちょうどヴォルフは不在だったので、待ちがてら彼女の最近の様子でも聞こうとジークベルトは中に通したのだが……どこか深刻そうな顔をした少女はソファに腰をつけた途端にそんな事を言いだしたのだ。
おかしい、ビアンキ家は金に困っているという事実はないはずだ。
もしそうならば、とっくにヴォルフが気づいているだろう。
もしや、何か変なトラブルに巻き込まれたのだろうか。
……そうだったらまずい。ヴォルフに気づかれる前に処理しないと、うっかりシュヴァンハイムの街に血の雨が降る事態になるかもしれない。
頭の片隅ではそんな可能性を考慮しつつ、ジークベルトはいつも通り完璧な笑顔を携えて続きを促した。
「どうかしたの? 何か欲しい物でもできた?」
「いえ、あの……そういう訳じゃなくて……」
クリスはどこか気まずそうにそう口にした。
ふむ、その様子からはそこまで深刻な事態ではなさそうだ。ジークベルトはひとまず胸をなでおろした。
「……今の生活が、不満かな?」
「い、いえっ! 不満とかそういうのじゃなくて……ほんとに、よくして頂いて感謝してますっ!!」
クリスが慌てたようにそう口にする。
その様子からは、嘘をついているようには見えなかった。
「その、ただ……どうしても、働きたくて……」
「……理由を、聞いてもいいかな」
どうやら彼女は金が欲しいわけではなく、ただ労働を求めているようにも見える。
ジークベルトだったら万が一働かなくていいと言われれば毎日遊んで暮らすだろうが、きっとクリスは真面目な人間なのだろう。
クリスは緊張したように大きく息を吸うと、そっと口を開いた。
「あの、ここに来て……色々してもらって、本当に感謝しています。ヴォルフにも、迷惑かけてばかりなのに」
クリスが膝の上で握りしめた拳が少し震えている。
緊張をほぐすように優しく握ってやろうかとも思ったがやめておいた。弟に変な勘違いをされれば後々厄介なことになるだろう。
「だから……少しでも、追いつきたいんです。……ヴォルフにも、他のみんなにも。その為にも、働かせてください!!」
そう言って、クリスは再び大きく頭を下げた。
……なるほど。周囲と比較して無職という現状に焦りを覚えたわけか。
やっと彼女がここに来たわけが分かった。
だが……どうするべきか。ジークベルトは再び頭を悩ませる。
仕事を紹介するのは簡単だ。その気になればすぐにでも彼女の悩みは解決できる。
だが、その先が問題だ。
末弟のヴォルフは、何よりも誰よりもクリスの事を大切にしている。
彼女の保護を最優先に考え、あまりよく思っていなかったヴァイセンベルク家に戻り、今もその手足として動いているほどなのだから。
もしも仕事先でクリスに(いろんな意味で)危険が及ぶような事があれば、ヴォルフが暴走するのは目に見えている。
そしてクリスは……あらゆる意味で危なっかしい存在だ。
うっかりトラブルに巻き込まれる確率は高いだろう。
彼女に仕事を与え、ヴォルフも暴走しない方法……そう考えたところで、一つの案が浮かんだ。
そうだ、こうすれば二人とも満足じゃないか!
「クリスちゃん、ヴォルフの専属メイドやってみない?」
その言葉を聞いて、クリス・ビアンキはきょとんと目を丸くした。
◇◇◇
<5話>
「あら、元気がないわね。どうかしたの?」
「義姉さん……」
気遣わしげにそう声を掛けられ、ヴォルフリート・ヴァイセンベルクは足を止めた。
目の前では長兄の妻であるユリエが心配そうにヴォルフを見つめていた。
できるだけ普段通りを装っていたつもりだが、聡い彼女には気づかれてしまったようだ。
この人に隠し事はできないな、とヴォルフは内心苦笑する。
ユリエは真面目で賢い女性だ。何故彼女がジークベルトのような顔以外欠点だらけの調子のいい男と結婚したのか、ヴォルフにとっては大いなる謎の一つとなっている。
しかし、そんな彼女にも話せないことはある。
まさか「つい調子に乗って吸血しすぎて専属メイドを怒らせました!」など、いくらなんでも話せるわけがない……!
ユリエとてヴォルフの素性をまったく感づいていないという事はないだろうが、おおっぴらに言葉にするのははばかられた。
とりあえず適当にごまかそう、とヴォルフは冷や汗をかきつつ口を開く。
「その……少しクリスさんを怒らせてしまいまして……」
「あら」
ユリエが手で口を覆う。今の所不審には思われていないようだ。
……というより、クリスを怒らせたこと自体は偽りのない事実だ。そう考えて、ヴォルフはまた少し落ち込んだ。
「機嫌を取ろうとケーキを買いに行こうと思ったんですが、さすがに時間がないですね……」
クリスは甘いものが大好物だ。食べ物で誤魔化すのはよくないと思いつつ、実はこれが最善の解決方法だったりするのだ。
しかしそのケーキを確保できなかった。
今から別館に戻り機嫌の悪いクリスと顔を合わせることを考えると、つい足取りが重くなってしまう。
「ケーキ、ね……そうだ。ちょうどいいわ」
「え?」
「いらっしゃい。いいものを上げる」
そのまま微笑んで手招くユリエに連れられ、彼女の後を追う。
その理由はすぐにわかった。
「ちょうど今日焼いたばかりなの、よかったらもって行って頂戴」
そう言ってユリエがくれたのは、粉砂糖がたっぷりまぶしてあるシュトーレンだった。ヴォルフの大好物である。
「い、いいんですか……!?」
「ええ。作りすぎてしまったからちょうどいいわ。ぜひともあの子と一緒に食べてね」
「ありがとうございます!」
ユリエに深く頭を下げ、ヴォルフは軽い足取りで別館を目指す。
これはいい手土産ができた。これならクリスも喜ぶだろう。
まずは血を吸い過ぎたことを謝って、そしてクリスと一緒にシュトーレンを食べよう。
クリスのシュトーレンを目の前にしたときの笑顔を想像しながら、ヴォルフはそっと扉を開けた。
◇◇◇
<8話>
「……おい、一体何を真剣に読んでるかと思えば」
執務室で一心不乱に書物を読みふける弟を眺めながら、マティアス・ヴァイセンベルクは大きくため息をついた。
別に読書をすること自体は問題ない。問題はその内容だ。
弟のヴォルフリートが先ほどから必死になって読んでいたのは「必勝デートマニュアル」などという怪しげな本だったのだ。
まったく、そんなものを読んで情けなくならないのだろうか。
「明日、クリスさんとデートなんです……!」
「……そうか」
弟はまったく動じることなくマティアスを見上げてそう言った。
ちらりと後ろからのぞくと、「自然に肩を抱く方法」「これで惚れ直させるエスコート術」「彼女が喜ぶスポット百選」などげんなりするような文字が目に入る。
机の上にはそれだけではなく婦人向けの雑誌がいくつか乱雑に置かれていた。表紙に「おすすめスイーツ特集」などという文字が踊っているのが見えて、見ているだけで胸焼けがするようだ。
「……ちなみにこれはどこから持ってきたんだ」
「ジーク兄さんに借りたんです。ご婦人方と話を合わせるのに必須だとか言ってました」
マティアスは再び大きくため息をついた。
まったく、兄も弟ももう少し有意義に時間を使えないのか……!
弟は明日のデートによほど気合を入れているのかぶつぶつ呟きながらペラペラページをめくっている。
……もういい。こうなったら何を言っても無駄だろう。今のヴォルフには明日のデートのことしか頭にないようだ。
仕事の話をしようかと思ったが、おそらく明日までは何も耳に入らないだろう。
「まあ、せいぜい頑張れよ……」
マティアスは痛む頭を押さえ執務室を後にする。
まったく、どいつもこいつも浮かれ過ぎである……!