第六話
三月に発売になった新しいシングルは、ノーコン史上最高の売上を記録した。それまで新曲をリリースする度に右肩上がりで伸びていった売上の推移の上昇線はまた角度を上げた。武道館でのライブが終わり、活動にひと段落がついたところで次回発売されるシングル曲のメンバーが発表された。
タエさんがスパイスから作ってくれたカレーは完全に家庭で作るカレーを超えていて美味しかった。「お店で出せますよ」という感想を言うのはベタ過ぎて嫌だったので何て言おうかと考えているうちにタエさんの方から「辛くなかった?」と言われてしまい「大丈夫です」としか言えなかった。
リビングの大きな液晶テレビにはヨーロッパのサッカー中継が映し出されている。
「この選手な、全然走らへんし、守備もせえへん。せやけどボールを持ったら上手いねん。でも簡単にはパス出さへんから、結局最後はボール取られてまうねん」
ヒデヨシさんが少しだけ手をつけたままのカレーはすっかり冷めてしまっていた。ヒデヨシさんは食事中でもお構いなしに煙草を吸う。一応気を遣ってくれているのか煙を吐くときは透子のいる場所とは反対の方を向いてくれた。
こんな光景が最近では当たり前になっていた。タエさんの家に初めて行った日の数日後、この前貰ったタクシー代のお釣りを返したいという旨のメールをタエさんに送った。しばらくして仕事終わりに携帯を確認すると「ご飯食べた?」という透子のメールの内容とは繋がらないメッセージが届いていた。きちんと領収書を添えてタクシー代のお釣りを返そうと思っていた透子はなし崩し的にタエさんのマンションで夕食をご馳走してもらうことになった。
そんなことが何度か続き、透子はタエさんの家に入り浸るようになっていった。近頃では仕事終わりにはここに立ち寄ることが恒例になってしまった。「今お休みで暇だから透子ちゃんが来てくれると嬉しいわ」というお言葉に甘えて毎晩のようにご飯を作ってもらっていた。
透子はタエさんと仲良くなれて嬉しかった。憧れの人とはあまり近づきたくないという人は多い気がするけど、透子は違う。その人と繋がれると同じ世界に到達できたような気がしていい気分になれた。そういうイタいところが透子にはあった。
毎日の食事のお供はもっぱらサッカー中継で、今日はイングランドのプレミアリーグだった。スペインやイタリア、ドイツの中継を流すこともあるけどヒデヨシさんはこのリーグが一番好きだと言っていた。その理由を聞くと「スタジアムの雰囲気がええから」と教えてくれた。
毎日のように三人でタエさんの手料理を食べながらサッカーを観ていたので透子もチーム名や選手の名前をいくつか覚えてきていた。
なかでも今流れている試合でリードしている青いユニフォームのチームはよく観ている。
「やけど俺はこの選手が好きやねん。見てるだけでワクワクする。この選手がボールを持つと何するかわからへんから」
前にヒデヨシさんは少年のように目を輝かせながらそう語っていた。確かに青いユニフォームを着てプレーするその選手は透子にはどうやったかわからないような動きで相手を躱したり、いつ出したかわからないタイミングでパスを出したりするからなんだかすごいんだろうなということは透子にもわかった。でもボールが来ないときや相手ボールのときとかはなんだかだらだらしてるなとも思っていた。
「あら取られてもた。足がもう動いてへんな。試合終盤やしそろそろ代えられるかもな。おっ、やっぱりや」
自分の背番号が表示されるとヒデヨシさんのお気に入りの選手がとぼとぼとフィールドをベンチの方に向かって歩いて行く。他の選手に比べると半分も走ってないのに90分間休みなく全力で走りきったみたいな顔をしていた。まるで昼下がりのお散歩でも楽しむかのようなあまりにも優雅な歩みに対して試合の流れが滞ることを嫌った審判が笛をきつく一度鳴らして急かすも、その選手は無視してサポーターからの歓声に応えて客席に向けて拍手を送っている。
「お疲れさんやな。こっからはみんなで守って逃げ切りやな」
交代していく選手が所属する青いユニフォームのチームはサッカー界では世界的に有名な監督が指揮している。その監督はどちらかと言うと守備を重視する人で試合中も選手にたくさんの約束事を守らせるらしい。試合中にはベンチから飛び出し大声で指示を飛ばしている姿がよくカメラに捉えられていた。でもヒデヨシさんのお気に入りの選手にだけは自由が認められていた。このチームはいつも気まぐれな一人の王様のために残りの選手が体を張ってたくさん走った。
「この監督は前のチームからずっと見てるけど、こんな選手を使うのは意外やった。すぐ削られてよう怪我するからたまにしか試合に出られんのに」
それだけこの選手に魅力があったんやろうな、と言ってヒデヨシさんは煙草を咥え苦しそうに深く吸い込んだ。
交代が終わってからは最近サッカーを観るようになった透子でもわかるくらいつまらない試合になってしまった。ヒデヨシさんもさっきほど集中して観てはおらず、ようやく冷め切ったカレーを二、三口食べてからスプーンを置いた。タエさんが「もういい?」と聞くと頷いて声を出さずにごちそうさんと口を動かしながら行儀よく手を合わせた。
カレーが残ったお皿を運ぶタエさんを手伝おうと立ち上がると「いいから一緒にテレビ見ててあげて」と言われてまた試合に目を戻した。青いチームはそれまでとは打って変わって点の取り方を忘れてしまったみたいに意味のないパスを繰り返してボールを奪われていた。
「これはこれで面白いねんけどな」
退屈そうな顔をしてしまっていたのかヒデヨシさんがテレビを見ながら一つ一つのプレーの解説を始めてくれる。
「これはこの選手がほんまはゴール前に戻らなあかんねんけどそれが遅れてしまってるからフリーでシュートを打たれてしまってるねん。キーパーがナイスセーブしたけど普通に一点もんやな」
ヒデヨシさんは映像を巻戻したり一時停止したりして丁寧に解説してくれた。そう言われてから観ると確かにきちんとした決まりの中で選手たちが動いていることがわかった。
「この選手が一番動いてますね」
「そう。このチームで実は一番大事なんはこいつやねん」
ピンチのときにはいつも顔を出す選手はアンカーというポジションらしい。相手のボールを奪うために激しいタックルを決めたりシュートをブロックするために体を投げ出したりとにかく守りの場面でよく登場した。ヒデヨシさんが言うにはボールのないところ、もっと言うと画面に映っていないところでも貢献しているらしい。
「この選手は運動量があって体もでかい。この監督がどこのチームに行っても絶対連れて行く選手や」
それから試合終了まで透子はその選手に注目した。恵まれた体格と持って生まれたスピードでことごとく相手のチャンスを潰していた。
「この調子やったら今年もここが優勝かもなあ」
青いチームは現在リーグ戦で首位をキープしていて、ヨーロッパ各国の強豪クラブチームが集まる大会でも勝ち残っていた。
試合終了のホイッスルが吹かれると両チームの選手が握手を交わしお互いの健闘を讃え合っていた。ハイライトが始まるとヒデヨシさんはテレビを消した。真っ暗な画面には透子とヒデヨシさんが映し出されて部屋に沈黙が落ちた。タエさんはまだキッチンで洗い物をしている。
「もう、新しい曲は作らないんですか?」
ヒデヨシさんみたいに煙草を吸うというような間を持たせる手段が何もない透子は沈黙を打開するために少々厳し目のパスを出した。タエさんの家に通うようになってヒデヨシさんを前にしてもそんなに緊張しなくなっていた。そして見れば見るほどいつも同じくたくたのジャージを着ている人と、一時代を築いたバンドを作った人がどうしても同じ人物だとは思えなくなっていった。
「俺はもうあかんよ。寂しがり屋どもを相手に金儲けしてきたけど、今はもう一人やない」
ヒデヨシさんは透子の問いをあらかじめ答えを準備していたかのように柔らかくトラップして受け止めた。それは交代させられたあの選手みたいで、ボールの勢いを完全に殺した華麗なボールタッチだった。あれだけピタッとボールを止められたら次のプレーにスムーズに移れるだろう。
透子は一時でも時代を動かした人はどんな風に世界が見えているかを知りたかった。だからヒデヨシさんの瞳をフェイントに引っかかってしまわないようにしっかりと見つめ続けた。
「寂しがり屋どもは俺をもっと一人にしようとした。最終的に俺は昔からのツレを差し出すことで新しいアルバムを作ったけど、もう何も差し出すもんがなくなってもうた」
差し出せるものと聞いてタエさんのことが思い浮かんだけど、ヒデヨシさんにとってそれは差し出せないものなのだろう。透子が馬鹿なふりをしていると関西人らしく話し好きのヒデヨシさんは喋り続ける。
「ロックバンドはもう流行らんからなあ。今は大きいフェスでみんな一緒に歌える歌か、何も考えんと踊れる歌しか求められてへん。俺もディージェーになれば良かったなあ」
自分の作るものしか興味がないみたいな根っからのミュージシャン気質な人という印象だったけど、そんな人が現在の音楽界の潮流を客観的に把握できていたことが意外だった。曲がりなりにも10年以上音楽だけで食べてこられているのだから、こう見えて案外クレバーなのかもしれない。
「最近は一人ぼっちの奴のためには君らみたいなアイドルがおってくれるし、ロックバンドはもう求められてないんとちゃうかなあ。少なくとも俺みたいなもんは」
昔見た百尺玉のライブ映像は一つのライブが、一曲一曲が、言葉の一つ一つが、切実で最初から最後までずっと試合終了間際のように鬼気迫っていた。それが救いになった人もたくさんいるだろう。百尺玉のファンだった人たちは今となってはほとんどが音楽なんかなくても立派に生きているのだろう。でも数は少なくてもそこには間違いなく百尺玉の、日出吉貫太郎の、音楽に救われた人はいるはずだ。
透子がステージでやり遂げたいのは正にそういうことだ。アイドルをステップにして女優や歌手になりたいわけじゃない。今、全てをひっくり返すようなすごいことをやり遂げたい。世界を変えたかった。
「それでも未だに応援してくれる人がおって、こないだなんか自分の子供でもおかしないような年の子から手紙が届いた。アルバムすごい良かったですって」
10年振りに完成した百尺玉のアルバムはその子の言う通りすごく良かった。よく音楽好きを自称する人たちが言う「年間ベスト級」を透子がもし選ぶなら間違いなくこのアルバムを挙げるだろう。新しい曲たちは、時を経て熟成するわけでも丸くなるわけでもなく、また変に若ぶらず、あの頃の感覚そのままに歌われていたと透子は感じた。それは限りなく奇跡に近い所業だった。
「こんなこと言うたら偉そうやけど、そんな人たちの為に今回アルバムを出した。まあ、あんまり売れへんかったけど」
それは違う。アルバムの売上は数字的には悪くなかった。でもそれは今の時代では、だ。CDが売れなくなったと言われ始めてもうずいぶん経つけどその傾向は改善されることなく悪化の一途を辿っていた。だから現在の基準で言えばセールス的には悪くなかったけど、あの頃の感覚のヒデヨシさんからすれば物足りない結果だったのかもしれない。
百尺玉は全盛期にはインディーズながら10万枚以上の売り上げを記録していたこともあった。透子たちのようなグループアイドルが何十人がかりでやっとライブを成立させられるような大きな会場を片手にも満たない人数のバンドだけで満員にしていた。
「大勢の人にずっと好きでおってもらうためには俺みたいな奴の場合、早いうちに死んどかなあかんかった。少なくとも二十七くらいまでには」
でも世界は変わらなかった。それどころか今の世の中は握手券に代表されるような特典付きのCDしか売れない時代になってしまった。
「死に損なってもうすぐ四十や。こんなもん、もう誰も愛してくれへん」
もしヒデヨシさんが言うように彼が若いうちに死を選んでいたらどうなっていただろう。今なお語り継がれる伝説のミュージシャンになって人々の記憶に残り続けただろうか。
「俺らはちゃんと解散もしてへん。ずいぶん前にやったライブも解散ライブとは言ってなかったし、今回のアルバムもラストアルバムとは言うてない」
握手券を付けて可愛く着飾ってやっとパフォーマンスを見てもらえるようなアイドルの透子がどうやったら人々の記憶に刻み込まれることができるだろう。誰もが熱狂するようなライブをするにはどうしたらいいのだろうか。
「だからずっと待ってくれてる人にはほんまに申し訳ない。そんな人はもう少なくなってもうたけど」
私を応援してくれる人はいつまで私を好きでいてくれるだろう。もし今私が死んだらずっと好きでいてくれるかな。
夏に発売する新しい曲で透子はまたセンターに指名された。気まぐれの一回限りかと思っていたので、初めて聞かされたときは驚いた。まだ正式には発表されていないけど二作連続で透子がセンターを務める新曲を引っさげてノーコンセプトガール史上最大規模のライブが予定されている。夏のシングルでセンターを任されるということはそのライブと合わせて毎年行っている全国ツアーもセンターで迎えることになる。おそらく世界を変えるには最大の、そして透子にとって最後のチャンスかもしれない。
「はい、お茶入ったよー」
ヒデヨシさんの話を遮るようにタエさんが湯気の立つ三つのカップととっても甘そうなケーキを運んできて机に並べた。
「冷めないうちにどうぞ」
透子は入れたてでまだ熱い紅茶を流し込んだ。舌と喉がしびれて一瞬目の前が真っ白になった。
「どうしたの透子ちゃん。そんなに慌てたらだめだよ」
透子は焦っているのかもしれない。今年で二〇歳、世間的に見たらようやく大人の仲間入りってところだけどアイドルとしてはもう決して若くない。グループでは平均年齢を上げてしまっている側に入る。
タエさんはゴホゴホと咳き込む透子の背中を優しくさすってくれている。unkNownは来年で結成一五周年を迎える予定だ。
「ちょっともうそれやめなよー」
ヒデヨシさんはタエさんの注意を無視して芸術品のように美しい造形のケーキをフォークの背で上から押しつぶしていた。
「こうやって食べるのが上手いねん」
見るも無残にぐちゃぐちゃに潰されたケーキは生クリームとスポンジとフルーツを混ぜた吐瀉物のようになってしまった。
「もう、透子ちゃんも見てるのに行儀悪い」
タエさんのお母さんみたいな言葉を鬱陶しそうにしながらヒデヨシさんはその元ケーキだった吐瀉物らしきものを口の中へ掻き込んだ。それを見てタエさんは「もうっ」と呆れていた。
ようやく感覚の戻ってきた口の中にケーキをひとかけら放り込むとけとけととした甘さが広がった。甘すぎてむせ返りそうになるのを我慢しながらどんどん口に運んでいく。急いで食べてしまって早く帰らないといけない。