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私の背中を押してください  作者: 箱々屋満平
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第五話

 年度が変わって街にはふわふわとした新鮮な空気が漂っていた。暖かな春が来たということは同時に寒かった冬が終わってしまったということだとは誰も意識しないように、何かが新しく始まった裏で違う何かが終わってしまったことには誰も気づこうとしない。街ゆく人々は過ぎ去った日々は振り返らずにいつまでも希望に満ちた新しい明日が来ることを信じて疑わない。

 朝が必ず来るように信号が赤から青に変わるとものすごい数の人が一斉に歩き出した。透子はそれを駅から出てすぐの場所から眺めていた。あれだけたくさんの人が四方から動き出しているのに交差点内には目立った混乱もなく、歩行者たちは信号が赤に変わる前にはきちんと渡り切り事故が起こる気配もない。裏を返せばこの世の中にはそう簡単に変化は生まれないということなのかもしれない。

 今日は早めに仕事が終わり帰宅していたのだが、なんとなくまっすぐ家に帰りたくなくなって途中で電車を降りた。最近になって出された着用指令に従って装着していたマスクもそろそろ季節はずれの場違いさが出てきてしまっていた。

透子は顔の面積のほとんどを覆っていたマスクを外し素顔のままで歩き出した。夜はまだちょっと肌寒くて髪をなびかせる風は冷たかった。

 どこに行くでもなく人ごみをかき分けて足を進めていくとタイミング良く信号が赤から青に変わったので透子は一番早く横断歩道に足を踏み出した。まだ誰もいない歩道を進んでいく。視界には向こう側だけを映して誰にも追いつかれないように歩調を強める。ちょうど中間くらいで向こう側から来た人波に飲み込まれてしまった。透子は進行方向を変えずにまっすぐ歩き続けたが誰にもぶつからず対岸にたどり着けた。大群を率いるように横断歩道を行進しても誰も透子のことなんか見ていなかった。当然のことだ。あれだけ大きなステージで何万人の人たちの前に立っても自分のことが見られていないことだってあるのだから、それは決しておかしなことではない。

 信号が赤に変わって、その間にまた新しく歩道の向こう側を目指す人が集まってくる。その営みは永遠に変わらないだろう。

 武道館でのライブが終わってから、それまで続いていた良い流れが嘘みたいにぱったりと止まってしまった。日々新しい娯楽が大量に供給されるけど、それを受け取る人の数は同じだからどうしてもよりショッキングで、より残酷なものが出てくるとそっちに目が奪われる。ただでさえ狭くて辺境に位置するアイドル界でもパイの奪い合いは激化の一途をたどっていた。

 ここ数日だけでもいくつかの事件が起きて話題のトピックは毎日のように更新されていった。アイドルが振り込め詐欺の容疑者として逮捕されたり、デビューして間もないアイドルの男性とのツーショット写真が流失してそのお相手が母校の教師だということが判明したり、盗撮されたセックステープが流失してしまったアイドルがそれをネタに恐喝されていたことが判明したのだが、犯人の協力者になんと同じグループに所属する別のアイドルがいたなんてこともあったりしてノーコンの名前はテレビや雑誌、インターネットでもあまり見なくなってしまった。CDのリリース期間が終わったばかりいうこともあるかもしれないけど、それまでの目まぐるしく過ぎていった日々とのギャップにメンバーのほとんどが気を抜いてしまっていた。

 先日の武道館でのライブも取材陣がたくさん入っていた割にはあまり目立った取り上げ方はされなかった。

「トーコ、ごめん! 私台本全然読んでなかった!」

 武道館でのライブ後、彩雪は透子の元へ飛んできて手を合わせた。

「いいよ、いいよ。ああいうところで喋るの苦手だから逆に助かったよ」

「本当? じゃあ良かった!」

「何も考えてなかったからちょうど良かったよ」

 透子がそう言うと彩雪は安心したのかステージで見せた顔と同じようににこっと笑ってからまた忙しなくあちこち走り回っていた。終演後、テンションが上がったままのメンバーたちはぺちゃくちゃとお喋りをしたりパタパタと動き回ったりして熱を冷ましていく。ステージを降りた途端に冷め切ってしまう透子はその様子をいつも静かに見ていた。

 グループの中でもライブの高揚感が尾を引きがちな彩雪は透子の前から去った後は仲の良いメイクさんと楽しそうに話していた。

「彩雪、良かったよ! リハも全然出れなかったのにちゃんとできてたじゃん!」

「完璧だったよぉ! もう見てるだけで感動して涙とまらなかったよぉ」

 ライブ中よりもテンションが高そうな彩雪はそんな言葉にとても嬉しそうに、邪なものが一切なさそうに笑っていた。その光景がなんだか眩しすぎて透子は目を逸し、楽屋の隣にある方ではなく少し歩かなければいけない遠いところにあるトイレに向かった。

 彩雪はわざわざ謝ってきてくれたけど透子は気にしてなかった。悪意があっての行動ではないことはよくわかっていた。伊達に三年も一緒にいるわけじゃない。彩雪は何も考えていないように見えて本当に何も考えていない。でもその行動の全てが見ている人の心を惹き付けた。

 何をしてもみんなの注目を集めてしまう彩雪とそこにいるだけで絵になるマリー、その真ん中に立っていた自分のことをあの日の武道館で見ていた人は果たしていたのだろうか。

 少なくとも今この場所で透子のことを見ている人はいない。笑顔で歩いて行く人々は何がそんなに楽しいのかはわからない。ちょっと見渡すと笑っている人が多いことに気がついた。

 すぐにここを離れないといけない。

透子はまたあてもなく歩き出した。高いビルの上から彩雪とマリーに挟まれて笑う透子が透子を見下ろしていた。あの看板も直に別のものに取り替えられるだろう。


 長い坂を登りきると息が上がって胸が苦しくなる。何かから逃げるように、いや正しく逃げてきた透子は頂上で膝に手をついて呼吸が整うのを待った。夜が深くなって更に冷たくなった空気が肺に流れ込み胸を締め付けて酸素の補給を妨げた。

 どんどん息は荒くなり胸が痛くなる。

私はこのままここで息絶えてしまうんじゃないか。

なんて一瞬思ったりもしたけどそう簡単に事件は起こらないことはもう知っている。透子はその姿勢のまま落ち着くのを待った。

「もしかして、透子ちゃん?」

 トーコ、ではなく本当の名前で呼ばれたので初めは自分が呼ばれていると気がつかなかった。顔を上げるとそこにはただ一人透子のことを見ている人が立っていた。




「どうぞ」

「……失礼します」

 招き入れられた部屋は玄関を見ただけで清潔に保たれていることがわかって、長い廊下を抜けると広々としたリビングダイニングに出た。透子は坂を登って蒸れた靴の中で湿っていた靴下の跡がつかないようにそうっと床に足をつけて歩いた。

「適当に座って。何もおもてなしできないけど。紅茶でいい?」

「あっ、いや、そんなお構いなく」

「うふふ。そんな気を使わなくていいよ。ちょっと待っててね」

 そう言って奥のキッチンへ消えていくタエさんの後ろ姿を見送って透子は高そうなソファに恐る恐る腰を下ろした。肌に触れた冷たい革は滑らかで見た目よりもふかふかしていて体重を少しかけただけなのに透子の体は包み込まれるようにめり込んでいった。一息着くと代わりに新しい空気と微かな煙草の匂いが鼻を通った。

 ここがunkNownのタエさんの部屋――。

 透子は自分が置かれた状況を言語化してどうにか理解しようとしていた。

「ミルク入れるぅー?」

「あっ、お願いします」

 息も絶え絶え渋谷の坂を上りきった先で偶然タエさんと遭遇した。というよりは透子がタエさんに発見された。いきなり目の前に膝に手をついてゼーゼー言っている人が現れてさぞ驚かせてしまったことだろう。その人物が透子だと気付いたタエさんが声を掛けてくれたのだった。今になって思えば、以前ライブに行ったときに一度挨拶しただけの透子のことに気がついてくれるなんて、タエさんはすごく記憶力がいいのかもしれない。

 突然のことでテンパってしまった透子はなぜかその場を速やかに立ち去ろうとしてしまったのだけど、それを見たタエさんは「私の部屋すぐそこだから少し休んでいきなさい」と言って引き止めた。そして透子が答えに迷っている間にはもうタイミングよく通りかかったタクシーを停めていた。

 タエさんの家は本当にすぐそこでメーターが一度も上がることなく到着した。確かにタエさんはちょっと近所に買い物でもといった感じのラフな服装だった。

「おまたせー」

「あっ、すみません」

 優しく湯気が立つシンプルなデザインのカップを透子の前に置いたタエさんはソファではなくラグが敷いてある床に腰を下ろした。しまった、と思ったときにはもう遅く透子は高いところから大先輩を見下ろす形になってしまった。

「緊張してる?」

「あっ、いや……」

「まあいきなり連れてこられたらそうなっちゃうよね。いいんだよ、本当全然気使わなくて。ってまたこんなこと言ったら余計気使っちゃうか」

 ビクついている透子をリラックスさせようとしてくれているのか、普段のイメージより口数が多いタエさんが両手でカップを口に運んだので透子もそれに倣ってカップに口をつけた。ミルクがたっぷり入れられた甘くて温かい紅茶が体温をぐっと上げる。

「最近、忙しそうだね。よく見るもん」

「でも今はそんなに」

「あっ、そっか。リリースの合間か。ちょうど私たちもツアー終わったばっかだから落ち着いてるんだ」

 二月かけてアジア、オーストラリア、ヨーロッパ、そしてアメリカを回ったunkNownのワールドツアーは各地で大盛況だったと聞いた。早くも今度の夏には海外の音楽フェスティバルへの出演が決定していた。

「武道館、すごい盛り上がったらしいね」

 私も行きたかったな、と呟くタエさんに次は是非来てくださいなんて口が裂けても言えない。unkNownと比べるなんておこがましいけど、改めて自分のやっていることのスケールの小ささを実感してしまう。unkNownと違って透子たちは歌やダンスだけじゃなくてテレビのバラエティ番組に出たりグラビアをやったり握手会をしたりしてやっとライブに足を運んでもらえる。

「私も本当は透子ちゃんみたいになりたかったな」

「えっ! なんでunkNownはあんなに格好良いグループなのに」

 タエさんの言葉に驚いて反射的に出た言葉はちょっとタメ口気味になってしまっていた。もしかしたら話しているうちに少し緊張がほぐれてきていたのかもしれない。

「今はね。色々やらしてもらってるけど。たまたま路線変更が上手くいったけど最初はすごい葛藤もあったんだよ。ヒロさんが付いてすぐの頃なんか特にね。レッスンとかレコーディングの度に三人で泣いてたし。本当はもっと可愛い曲歌いたい! フリフリの衣装が着たい! 踊ってる時もっと笑わせてー! なんて言ってね」

 今や日本では他の追随を寄せ付けない先進性と洗練されたパフォーマンス力で絶対的な地位を築いているunkNownもそこに至るまでは決して順風満帆とは言えない道のりを歩んできた。

 元々のグループ名の表記は「ぁんのぅん」で、今で言う地下アイドルとして結成され、当初は今と違いもっと王道のアイドルソングを歌っていて販促イベントでは過激な特典会やえげつないパフォーマンスもやっていた。しかしその路線では芽が出ず、ヒロサワさん、unkNownの人たちの間での愛称で言うとヒロさん、がマネージメントを担当するようになったことが転機となり、それまでのグループのイメージや音楽性を一新したことでブレイクのきっかけを掴むことになる。紆余曲折を経て今の地位に昇り詰めたunkNownの物語はこれ以上ないほど美しかった。透子が他の物語を受け付けなくなったのはunkNownの物語が素晴らしすぎたからかもしれない。

「だから透子ちゃんみたいな人はちょっと羨ましいの」

 確かに今のところ透子はとても恵まれた環境にいて、ノーコンはどちらかと言うとアイドルの王道と言える道を歩めていた。タエさんは長い髪をひとつに纏め、シンプルなピンで前髪を上げていた。透子は憧れの人からの不釣り合いな羨望の眼差しに耐え切れず話を変える。

「でもワールドツアー大成功はすごいです」

「記事ではね、そう書いてくれてたりするけど。やっぱり世界の壁は厚いね」

 後に伝えられる偉業と実際の現場の熱量に差異があることはよくある。超満員の会場は熱狂の渦に巻き込まれたと書かれたノーコンが武道館で行った一度目のライブも蓋をあけてみれば二階席は黒い布で潰された空席祭りで熱狂の渦に巻き込まれたのはせいぜい前半までだった。

 今回のunkNownのワールドツアーも各地で満員御礼の札止めであったことに間違いはないが現地ファンも熱狂というところが違っていたらしい。満員の会場の大半が日本人客だったらしい。

「おかわり入れてくるね」

 いつの間にか紅茶を飲み干してしまっていた。タエさんは冷たくなったカップを持ってキッチンへと消えていった。

 しばらくするといれたての紅茶の香りの代わりに思わず咳き込んでしまいそうになる匂いが近づいてきた。

「あれ起こしちゃった?」

「いや……。今何時?」

「11持」

「朝? 夜?」

「夜だよ」

 全身から煙草の匂いを発する男はまだ完全に頭が起きていない様子で体を投げ出すように勢い良く透子の隣に腰を下ろした。

「あれ。お客さん?」

 ソファに背中で座るような姿勢の男が透子の方を初めて見て言った。

「ヒデヨシさん?」

 男と目が合うと、反射的にその名が口をつく。

「あら。透子ちゃん彼のこと知ってるの?」

「……珍しいなあ。こんな若い子が俺のこと知ってるなんて」

「いや、だって……。アルバム買いましたもん」

 寝癖の付いたボサボサの頭をかき乱しながら「ほんまかあ。それは嬉しいなあ」と言って笑っている男のことを透子は知っていた。

 男の名は日出吉貫太郎。90年代から2000年代にかけて活躍した関西出身のカリスマ的ロックバンド「百尺玉」のギターボーカルで、全ての楽曲の作詞作曲も担当していた。今年の初めには十年振りに新しいアルバムを出したばかりだった。

「買うてくれたんかあ。ありがとお」

 新しいアルバムをリリースしたと同時にメンバーの脱退が相次いで現在では事実上の解散状態にある、ということまでは透子も知っていた。

「お嬢ちゃん、音楽好きなんか? 俺みたいなもんのこと知ってるなんて」

「そうなんだ? 言われてみれば透子ちゃん歌上手いもんね」

「いや、そんな全然で」

 目の前の二人の有名人に頭が追いつかず上手く言葉が出てこない。

「とうこちゃん?」

 ヒデヨシさんは頭の上にクエスチョンマークがはっきり見えるような表情で浮かんできた疑問を素直に投げかけた。

「そう。透明な女の子で透子ちゃん。アイドルグループで今センターやってるの」

「ええ名前やなあ」

 ヒデヨシさんはタエさんによる透子の紹介の前半だけの感想を述べた。最近では自分も含めて誰も使わなくなった名前を今日はよく呼ばれる。

 若者から絶大な人気を誇ったバンドマンで後の音楽シーンに与えた影響は絶大、ライブでは激しいパフォーマンスのせいで流血するなんてこともしばしば、ときにはステージ上で裸になってしまい逮捕されたりしていた、そんな人が目の前でヨレヨレのジャージを着て眠そうに目をこすりながらゴホゴホと咳をしている。そして同じ部屋にはunkNownのタエさん。情報量が多すぎて透子の頭は今にも爆発してしまいそうだ。

 だったけど部屋にはバーンという爆発音ではなくグゥーという間の抜けた音が響いた。

「なんか作る?」

「頼むわ」

 甲斐甲斐しいタエさんが立ち上がったので透子はこの機を逃さまいと、

「えっと、じゃあ私そろそろ」

 と切り出した。とりあえずここから早いとこ離脱しなければならないと思った。

「あっ、ちょっと待ってて。私送ってくるから」

「あーい」

 ヒデヨシさんは気の抜けた返事をしながら煙草に火を点ける。

 透子が遠慮する前にタエさんはもう上着を着て玄関の方に向かって行ってしまった。透子は急いで後を追いかけようと立ち上がった。

「またおいで」

 紫の煙と一緒に吐かれた言葉にさっと一礼してタエさんの後を追った。


 大通りまで出ると、タエさんはまだ終電があるから大丈夫と言うのを聞かずにタクシーを拾ってくれた。その車に「すみません。今日は本当にありがとうございました」と言ってから乗り込もうとすると、ここから家までの料金にしては十分過ぎる金額を拒む透子に強引に持たせてくれた。

「じゃあね。またいつでも来てね。今度はゆっくりご飯でも食べようね」

 タエさんはタクシーが見えなくなるまで手を振ってくれていた。角を曲がりその姿が見えなくなるとシートに頭ごともたれかかって大きく息を吐く。

「びっくりさせちゃってごめんね。彼、同居人なの」

 マンションから大通りまでの短い帰り道でタエさんからヒデヨシさんのことをそういう風に紹介された。同居人という言葉の響きが透子の中に馴染みがあまりなくてまだ上手く飲み込めなかった。

「お客さん、もしかしてテレビに出てる人?」

 このまま家まで完全に脱力した状態で過ごしたかった気分だったけど、もうちょっと気を張っておかないといけなくなってしまった。



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