第二話
冬の海は灰色で、砂浜も灰色で、重そうな雲に覆われた空もやっぱり灰色だった。その灰色の世界を明け方から降り始めた雪が白く浄化しようとしたのだけど全然足りなくてべしゃべしゃになった雪だったものが所々に残されていた。
雪が降り始めた頃に透子はようやく短い眠りについた。眠ったと思ったらすぐにうるさいアラームが鳴り出したけど、そんなことはもう慣れっこだからぱっと起きることができた。振りの練習は第一段階が完了して次の段階に手をつけたところまでしかできなかったので今晩もやらないといけない。
雪は昼前には雨に変わった。馬鹿みたいに冷たい雨の中でもカメラを向けられるとまるで春が来たみたいに笑う。でも実際にはこの冬一番の寒さに体の震えが止まらなかった。
カメラの前に立つと自分だけの世界に入り込んでしまって他のことは何も見えなくなって何も感じなくなる人がいるそうだ。今日みたいなグラビアの撮影はこれまで何回も経験しているけど、透子はその境地にはまだまだ達せていなかった。寒さはもちろん、肩に落ちる雨粒とか荒い波の音とかカメラの後ろにいるたくさんの人の動きとか全部が気になってしょうがなかった。
彩雪なんかは目の前のことに没頭できるらしい。確かに一緒に撮影していているときも横にいる自分のことさえ見えてないんじゃないかと思うことが何度もあった。彩雪は目の前の事以外を消し去ることができる。
そんなこと自分には絶対できそうもない。
今だって透子は今日の撮影には関係のない彩雪のことを考えてしまっている。
「オッケー。じゃあちょっと向こうに走って行って、走りながらちょいちょいこっち振り返ってくれる?」
何度も撮ってくれている顔なじみのカメラマンからの指示に従って透子が走り出した。裸足の足の裏に雨でアスファルトみたいに固められた冷たい砂浜が叩きつけられる。あまりの寒さに朦朧としてきていたところだったので急に走り出したら頭がふらっとした。意識が薄れそうになって風景がぼやけるとさっきロケバスの中で見た写真が頭に浮かんでくる。
雨待ちの間、楽屋兼ロケバスの中で今撮っているグラビアが載る予定の雑誌で過去に透子たちノーコンセプトガールが掲載されたバックナンバーが置かれていたのでそれをぱらぱらと眺めていた。もう二年以上前のものから最近のものまでが取り揃えられていた。この前の夏に発売された号には透子とマリーと彩雪の三人で撮ったものが載っていて、真ん中にいる彩雪を挟んで透子とマリーが笑っていた。
「天下が見えた!」
そんなキャプションが最初のページに添えられたグラビアの中の三人は流石に熟れていて表情も自然で柔らかかった。
たくさん積まれた雑誌の一番下から引っ張りだした号に載っていたグラビアには安っぽい制服を着せられた透子たちがぎこちない表情をしていて、たぶん笑ってくださいと言われて撮られたそれは決して笑顔といえる代物じゃなかった。
「私たちには、何もありません」
そのキャプションは透子たちが所属するアイドルグループ、ノーコンセプトガールのコンセプトを表していた。
当時アイドルブームが始まってから人気を集めていたグループが物語性を重視していたことへの反発で「コンセプトがないことをコンセプト」に結成されたのがノーコンセプトガール、通称ノーコンだった。それまで物語の主人公はもちろん、主要な登場人物にもなれなかった透子は、それならばと思ってオーディションに応募した。
ワンピースの裾が太ももとふくらはぎの裏側にまとわりついて煩わしい。透子は絡みつく薄い布を振り払うために砂浜をもっと強く蹴った。
積まれた雑誌を下から見ていったけど、しばらく透子の姿はなかった。
「デビュー記念グラビア 改めまして私たちがノーコンセプトガールです」
「『コンセプトがない』快進撃!」
「祝! 武道館ライブ決定記念グラビア!」
どんどん大きくなっていくグループの中で、口では作らないって言っていたはずの物語に透子は加わることができなかった。
気体の状態を保っているのがやっとなくらい冷やされた空気が空っぽになった肺に流れ込んできて胸を締め付ける。それでも足を止めてはいけない。
「ノーコンセプトガール新章」
新しく積んでいった雑誌の塔の方が高くなってから集合写真の端っこに透子が現れた。問題集をたくさん解いて単語をいっぱい覚えればいい学校の勉強と違って、それをたくさんやればいいって事がなかったから思いついたことを全部やった。上手くなることが遠回りになるような世界でもまず上手にできるようにならないといけないと思った。
手足の先の感覚はもうなくなってしまった。じゃりじゃりと足の裏を刺してきていた砂粒ももう感じられない。でもこれは寒さのせいでどこかの世界に入り込めたわけではなかった。
「M・S・T アイドル史上最強スリートップ!」
最初に手にとった号を再び開くと最後のページにはそんなキャプションが書かれていた。用意してくれていた雑誌を何冊も積み上げて不安定に立つ塔の一番上にそれを投げるように置いた。不安定に見えた塔は絶妙のバランスを保っていたみたいで少しもぐらつかなかった。
灰色の砂浜が目の前に迫ってくる。
違う。
私が地面に飛び込んでいっているんだ。
そう気付いた頃には口の中に血の味が広がっていた。
「ちょっと大丈……」
駆け寄ろうとしたマネージャーをカメラマンさんが制した。体のあちこちがひりひりとしてくる。血の味がしていた口の中は次にじゃりじゃりしてきて気持ち悪い。顔の辺りが急に熱を持ち出していた。
「ははっ……ははっ……こけちゃった。ださいですね」
どうにか変な空気にならないように透子は意識的にケロッとした。そのままゆっくりと立ち上がると目の前には汚い海が波を打っていた。
「なんか一言ない? 海に向かって」
いつのまにか追いついてきて透子の前に回り込んだカメラマンが立派なカメラを構えながら言った。衣装についてしまった泥をはたきながらカメラの方を見る。ОKの声がかかっていないからまだ撮影は続いている。
そんなことをいきなり言われると持ち前のサービス精神が刺激される。何を求められているのかを考える。
でもそんなときいつも透子は意表を突きたくなってしまう。
「……殺してやるぅううーー!」
透子の叫びでスタッフの人たちが笑いだした。ちょっと突拍子がなさすぎたかなと思ったけどなんとか及第点の言葉を選べたみたいだ。透子は安心して同じ言葉を繰り返す。その間カメラのシャッターは何度も切られていた。風に煽られた髪が顔にまとわりついて鬱陶しいけど気にせず叫び続ける。
黒い海から押し出された白い波はどうにかして陸地に這い上がろうとしているけど力及ばずまた黒い海の中へと引き戻されていく。それを見ながら透子は自分の中から出てきた咆哮を繰り返した。回数が増える度にコミカルさを加えてマジさを消していく。海での撮影が終わる頃には同じ言葉とは思えない程軽くなっていた。
何ヶ月も前から楽しみにしていた日を透子は複雑な気持ちで迎えていた。明日からは怒涛のスケジュールが待っているので今日は思いっきり楽しんで英気を養おうと思っていた。だけどここに来る前に見た一本の映像が透子の心を重くしていた。
がっかりしているのかな、私は。
でもこんなこともあるだろうと予測はしていた。いつだって透子は最悪の想定を欠かさない。今日だって天気予報を見て降水確率的には微妙だったけど折りたたみ傘を持ってきた。今回の新しいポジションを手に入れるためにも結果を残してきたつもりだった。
この前、習った新しい振付けを透子は完璧に踊った。だけど彩雪は全然踊れなかった。彩雪のためにみんなで練習したけど、彩雪は全然踊れるようにならないまま本番の日を迎える。初披露のステージの直前に彩雪は逃げ出してしまう。そんな彩雪をみんなが追いかける背中を透子が見送っていた。
完成した新曲のミュージックビデオはそんなストーリーが展開されていた。
携帯に送ってもらったその映像を見ているうちに目的の駅にたどり着いていた。気持ちを切り替えて透子は歩き出した。
入場を待つ人たちが長蛇の列を作っているのを尻目に関係者入口で受付を済ませるとパス替わりのステッカーを受け取る。透子たちのライブに来る人がたまにそれを体の目立つ場所に貼り付けて楽屋にやって来ることがあるけど、その度に透子はなんか鼻につくなと思っていた。ステッカーは貼らずに鞄に入れて二階席に向かった。
用意していただいた席に着くとなんだか澄んだ空気が充満しているように感じた。薄明かりに照らされてふわふわと宙を舞う埃がなんだか綺麗だった。ここゼップ東京には何度も来たことがあるけど、こうしてお客さんとして来るのは久しぶりだったし、二階席は初めてだった。二階席にはもうほとんど空席はないけど透子がいる辺りはなんだか雰囲気が違う。きちんとした服装の人とか大きなサングラスをかけている人とかノートパソコンを開いている人とかがいて、これからライブが始まるとは到底思えない空気で居心地が悪い。
正面に見えるステージは前面に幕が張られていてその全貌は見えない。たぶんライブが始まるとあの幕が下ろされてみたいな演出だろうなとちょっとそれっぽいことを考えてしまって透子は自分に対し「何気取ってるんだ」と一人で恥ずかしくなった。
普段からちゃんとしていそうな人たちに囲まれて自分の場違いさが居たたまれなくなっていると、オールスタンディングでぎゅうぎゅう詰めの一階から手拍子が始まる。あっという間に二千人以上の人が出す拍手の音にライブハウスが包まれた。手拍子していない人は透子の周りに座る人だけだった。
どんどん大きくなる手拍子の音が今日のライブへの期待感を表しているみたいだ。
今日ライブをするunkNownというグループは、こんな場所でライブをするようなグループではない。それはゼップ東京が悪いということではなくて、この会場のキャパシティーではunkNownのライブを観たいという人は全然収まりきれないし、最先端のテクノロジーを駆使するステージセットやライブ演出を再現するにはステージの規模が小さ過ぎるという意味だ。今日のライブはこの後に予定されているワールドツアーの前哨戦という位置づけなので、そのツアーでライブを行う世界各地の会場の規模に合わせてゼップ東京が選ばれたのだった。
当然チケットは争奪戦になり、購入申し込みの抽選もものすごい倍率になった。一応、透子も正規の方法で購入を試みたのだけど、駄目だった。それで不本意ながら少ないつてを頼ってこのライブに携わっている杏子先生にお願いしたのだった。杏子先生はunkNownが結成前に在籍していたスクール時代から講師としてダンス指導をしていて、デビュー後もほとんどの曲で振付けを担当している。今日のライブでは演出も担当していた。
純粋なファンは一般でチケットを買わないと意味がない! とは面倒くさいから思わないけど、透子は極力大人の力みたいなのは使いたくなかった。あと杏子先生にお願いするときもビクビクしてしまっていた自分が心底格好悪くて嫌だった。
今や日本だけでなく世界中でライブを行い、国内の野外音楽フェスティバルでも一番大きいステージにラインナップされるunkNownは女性三人から成るボーカルアンドダンスユニットである。ボーカルアンドダンスユニット。インターネット上の辞書には彼女たちのことがそんな風に書かれていた。
透子がこの世界に飛び込んだのには、unkNownの存在が大きく影響を与えていた。
一階の出入り口の重そうな扉が閉じられて非常口誘導灯が消された。たぶんすぐにライブは始まるだろう。なんて考えているうちに照明が落ちてお腹に響く重低音が響いてきた。一階にいる人たちはみんな両手を挙げている。二階席にいる少ない人たちも立ち上がっているのに、透子の周りはライブが始まったことに気づいていないみたいに静かだった。
この日、透子は今までで一番近い距離でunkNownのライブを観て、初めて一度も立ち上がらなかった。
普段は汗をかかない手のひらにじとっとした感触が未だに残っている。
ライブが開演して、最初の方こそ自分たちのライブと恐れ多くも比較してしまったりしていたけど、知らない間に心から純粋に楽しんでしまっていた。それは透子が完全に敗北したことを表していた。
ステージにはunkNownのメンバーの三人しかいなかったけど、その三人のパフォーマンスを極限まで高める演出の数々や楽曲が余すことなく注ぎ込まれたライブは完璧としか思えなかった。あの頃は何もわかっていなかったけど、曲がりなりにもステージに立つ側の人間になった今では目の前で行われていたことの途方もなさの一端を感じることができるようになったみたいで軽々しく憧れを口にすることなんてできなくなってしまった。無意識に出てきていた涙は感動でもあったし、興奮でもあったし、悔しさなんてものも少しはあったかもしれない。
透子たちのライブではお客さんを煽って掛け声を合わさせ、拳を振り上げるタイミングを揃えさせてやっと一体感、のようなものを作る。銀テープを飛ばしたり感動的な内容の詞を歌ったりして幸福感、のようなものを作る。
でも透子が今日のライブで感じたものが一体感であり幸福感なのだとしたら、自分たちのライブでのそれはどうやら偽物だったみたいだ。
自分たちに、私にあんなライブができるだろうか。
ライブが終わってしばらく経って慌ただしく人が出入りする部屋の中に閉じ込められた透子はそんなことを考えていた。
ライブ終演後、帰ろうとした透子を呼び止めたスタッフらしき男に案内された部屋にはたくさんの人がいた。
「関係者の皆様にはこの後、本人たちから挨拶がありますのでしばらくお待ちください」
透子も一応関係者ではあるようだった。言われるがまま関係者控え室と書かれた張り紙がしてある部屋へ連れて行かれると、さっきまでのライブで関係者席に座っていた人数よりも遥かにたくさんの関係者と呼ばれる人がそこにはいた。
透子がライブ前よりも大きな居心地の悪さを感じながら隅っこに立ちすくんでいると、大きな拍手が巻き起こる。ライブのときは手のひらでも怪我してるのかと思う程頑なに手を叩かなかったのに。
「皆さん今日はありがとうございました」
「ちょっと色々失敗してしまったんですけど、それはまあ初日ということで」
「とりあえずワールドツアー行ってきまぁす!」
たくさんの関係者を前にunkNownのメンバーであるミリさんとテジメグさんが中心になって話している。キャリアも長いだけあってステージ上と同じようにトーク力が冴え渡り集まった関係者の人たちを大いに盛り上げていた。よく喋る二人の横で三人目のメンバー、タエさんが静かに微笑んでいる。いつものライブ中のMCと同じ構図だ。
透子たちもライブ終わりに来てくれた関係者の人たちに挨拶をすることがあるけどあんな風に盛り上げることはできなかった。そんな時、透子はいつも決まって端の方で気配を消していた。今も自分が話す側じゃないのに同じように隅で小さくなっている。
あれで失敗したところがあるのか。
それは求めるものが大きいのか、それとも透子なんかでは気づけないような高いレベルでのミスなのかはわからない。
自分にもあんな凄いライブが出来る日が来るのかな。
unkNownのメンバーが今の透子の年の頃、アリーナクラスの会場を回るツアーを行った。自分が現在のunkNownのメンバーの年になる頃にどんな風になっているかなんてまったく想像できなかった。
「あっ、トーコ」
この声を聞くと反射的に体が硬直してしまう。
「そんなところにいないで、こっち来な」
いつものレッスンよりちょっと着飾っている杏子先生は透子を連れて人だかりをかき分けて行く。向かった先には本日の主役たちが大量に並べられた差し入れを物色していた。
「みんなお疲れ様」
杏子先生の声を聞いて振り返った三人は自然な柔らかい表情だった。ノーコンにも先生と緊張せず砕けた感じで話せるメンバーはいる。リンリンメイメイなんかは持ち前の子供っぽさで誰に対してもそんな感じだしマリーとか、あとダンスが苦手なくせに今宵とかもそうだ。
そんな風に杏子先生と話せるメンバーよりも、目の前の三人と杏子先生の間からはもっと強い繋がりが見えた。絆、って言葉を透子はそんなに好きじゃないけど、たぶんこれはそう呼ばれるものだ。
「あっ、ノーコンの?」
「可愛いー!」
杏子先生がunkNownのメンバーに透子のことを紹介してくれた。三人程ではないが、透子も少しは芸歴を重ねているのでもじもじしていないできちんと挨拶をした。
「お疲れ様でした。今日のライブもとっても素晴らしかったです」
素晴らしかったって何様だよと言い終わってから気がつく。でもunkNownのメンバーはそんなことまったく気にしていないみたいだった。
「いくつ?」
「えっ、若い!」
「一緒に写真撮ろ写真!」
さっきまでステージであんなに格好良いパフォーマンスをしていた人たちとは思えないくらい気さくな感じで接してくれた。
なんか久々にこんな風にちやほやされた気がする。若いって言われたのもいつ以来だろう。最近ではグループでも年長組に入れられることが多くなった。
「髪綺麗だね。なんかタエに似てるね」
ミリさんは透子の髪を一掴みとってから指先に滑り落とすように流した。
タエさんはそれまで何も話さずミリさんとテジメグさんと話す透子を見てニコニコと笑っていた。笑うと三角になる瞳は真っ黒に輝いていて吸い込まれそうだった。
「これタエのこと意識してるんだよね」
「えっ、あっ、いや」
いつもより杏子先生の精神年齢が一〇歳くらい低く感じる。なんだかはしゃいでいるみたいな先生に言われたことに透子は上手くリアクションできなかった。
「あれ? オーディションのときタエに憧れてるって言ってなかったけ?」
若返っている先生は三年前のことを昨日のことみたいに話す。それは透子にとって昨日のことではなく、今日も、そして明日からも変わらないことだ。
――憧れているアーティストはいますか?
今でもはっきりと覚えている視聴覚室みたいな部屋で行われた最終面接で聞かれた質問に、
「誰みたいになりたいとかはありませんが、強いて挙げるならunkNownみたいになりたいです」
とクソ生意気な答えを発表した。その思い出が時を超えて透子の顔を赤く染めた。
「新センターなんでしょ? 頑張ってね」
優しい言葉を掛けてくれたタエさんの長い髪は枝毛なんか一本もなさそうで、さっきまであれだけ激しいダンスをしていたとは思えないくらい綺麗だった。透子の髪も同じくらい長い。だけど最近サロンに行くのをさぼっているから毛先が少し傷んでしまっていた。
透子がその存在を知ったときにはすでにunkNownはトップに上り詰めていた。初めて足を運んだライブの会場は嘘みたいに大きくて見たことがないくらいたくさんの人がいた。そんな大勢の人をたった三人で相手にするなんて聞いたらほとんどの人が笑うだろうけど、unkNownの三人はそれをいとも簡単にやってのけていた。ライブ中、ステージから発される光があまりにも眩しくて透子は前を向いていることができずにキョロキョロと周りを見渡していた。眩い光に照らされたお客さんの顔はこの世界に存在しているにしては幸せそう過ぎた。あんな風に辺りを気にして見回しているのは透子だけだった。
光から目をそらしてしまった透子はステージに背を向けた。すると背後には、辛いことなんか最初から何もなかったみたいな顔して幸せそうに体を揺らしている人たちがいっぱいに埋め尽くされていた。
私はこの人たちみたいに没頭することができない。
だったら、誰かを没頭させる側になりたいという捻れた思いを持つようになった。
そして何度かunkNownのライブに足を運んでいるうちに、長い髪をまるで体の一部みたいに操りながら踊るタエさんに目を奪われる分量が増えていった。次第に透子の髪も伸びていった。スタイリッシュなunkNownの衣装と違ってフリフリでぶりぶりなアイドルっぽいノーコンの衣装には黒髪では重すぎるし腰まであるのは長すぎて似合わないけど、グループ結成当初から透子は髪型を変えていない。
その後、またご飯でも行こうと言って三人が連絡先を交換してくれた。透子との会話を切り上げた三人は最後にもう一度残っていた関係者に挨拶をして、颯爽とその場を後にした。
最近は仕事にも慣れてきて決まった人とばかり接していたので、今日は久しぶりにいつもより気を使って疲れていた。透子は三人が出て行ってしまったのにまだこの部屋に居座ろうとだらだらと下世話な世間話をしている人たちの間を縫って退出する。
部屋を出た透子はガヤガヤした音を聞いていたくなくて早足で歩き出すと角を曲がったところで杏子先生の後ろ姿が目に入った。そういえば今日のお礼をまだきちんと言っていなかった。
「先生、今日はありがとうございました」
「ああ、トーコ。三人も喜んでたよ」
透子にはそれ以上言いたいことがなかったので「それでは失礼します」と言ってアイドル仕込みの深いお辞儀をしてその場を離脱しようとした。
「あそこはもっと間をなくした方がいいね」
「MCは減らしてもいいかも」
「この曲は後半の方が」
頭を下げて低くなった耳に杏子先生の背後の部屋から低い話し声が入ってきた。ついさっきまで立っていたステージとは比べ物にならない泥臭い場所でいろいろな人の相手をした後なのに、それよりも少し前までは世界を変えてしまえるようなパフォーマンスをしていたのに、あんなに会場を熱くしていた三人が真っ先に冷静に修正点を晒し出していた。
透子は終演後に間を置かず開かれている反省会に驚いているのではなかった。自分たちのライブでも気になった点があれば終わってからすぐに意見を出したり話し合ったりすることは珍しくない。時には舞台監督や演出家のスタッフを交えて殺伐とした空気のなかで行われることもある。
しかし目の前の三人は阿吽の呼吸で一つ一つの問題を解決していっているように見えた。一心三体、三人の意思が見事に齟齬なく共有されていた。意識を無理やり矯正しているというわけではなく自然に一致している三人の意思のキャラバンは透子にとって物凄く衝撃的だった。
「デビューする前からずっとこうよ」
それは自己顕示と自己陶酔、人によっては復讐心なんかで集まった有象無象の集団では決して到達できない境地だった。
「あなたたちも……」
「すみません。失礼します」
胸の下辺りがきりきりする。
ライブを見ていたとき、透子が涙を流したのは自分もこんなライブがしたいというずいぶん前に心の奥に仕舞いこんだ汚れを知らない子供のような無垢な願いが、ちょっとだけドラマチックになってしまっているところを狙って這い出ようとしていたからかもしれない。
――unkNownみたいになりたいです。
自分で言った言葉に呪われて、隠して、でも時に利用して言い訳にした。でもいろいろなことを経験して知識が増えると嫌でも気付いた。
私はあの人たちみたいになれない。
大人数の中に十把一絡げにされて、その中だけが透子の世界になってしまった。
東京湾の埋立地は年が明けてもうひと月が過ぎたというのにキラキラとしたイルミネーションで飾られている。しかし街行く人々はその光に見慣れてしまったのか誰も足を止めて見上げようとしない。それどころかみんな余裕がなく、どこか急いでいるみたいだった。
明日は月曜日だ。学生でも会社員でもない透子には何曜日かなんて関係ない。だけど朝になると透子が生きる小さな世界の中で、大きな事件が起こる。