第十四話
ステージの様子を伝えるモニターからは映像だけでなく音声も流れてくる。久しぶりに聞いた自分たちの持ち歌は以前よりもなんだか速いような気がした。でもそれはありえない。透子たちのライブは生演奏ではなく、カラオケを流しているのだからテンポが変わるなんてことはない。でも確かに耳に届いている音のスピードはいつもより上がっていた。
楽屋でステージの様子を見ていた透子は自分の体を押さえつけていた。
自分もいるはずだった場所に思いを馳せ遠くから流れてくる音に合わせて体が勝手に動き出してしまった。
もしここで踊り出したら周りにいる人からそんな風に思われてしまうだろうし、後に饒舌な噂好きが尾ひれを多めに付けて得意顔で語り始めてしまうのは火を見るより明らかなので両手両足を鎖で縛り付けてでもじっとしていないといけない。
透子がいる場所には届いてこないけれど、ステージ上ではかなり強い風が吹いているのが真横になびくマリーのポニーテールを見てわかった。他のメンバーも髪を顔に打ち付けられながら、でもそんなことに構いもせず一心不乱に踊っていた。ほとんどの舞台装置が使えず満足に照明も当てられていないのに、その姿は同じグループの透子でも胸を打たれるものがあった。現実の出来事なのに、物語の中で起こっているみたいな光景が広がっている。
自分のいないノーコンセプトガールのパフォーマンスを久しぶりに見た。以前は見慣れていた光景が久しぶりだと感じることに驚いた。年数にすればたった三年、だけど思えば遠くにきたものだ。
努力は必ず報われる。これはたぶん本当のことだ。でも言い換えれば報われないのは努力が足りないからだ。報われないことに費やした努力は意味がない。ただやり続けている間はその努力は報われることが約束されていた。そう、ずっと続けていれば。
いつからだろう。努力をしていることを免罪符にするようになったのは。
誰よりもちゃんとできるようになったことで遂には努力を隠せるようになった。そしてそんな自分に酔っていたのかもしれない。隠していても努力を続けているということは、いつかはチャンスが回ってくるということだとどこかで安心していた。
努力は裏切らない。それも本当。アイドルになって努力をできる環境を手に入れられたことは透子にとって大きなことだった。でも努力は裏切らずにずっと傍にいてくれるだけで背中を押してはくれない。前に進むためのエネルギーはいつだって餓えや乾きだ。シンプルな欲だ。
私はもう何も言わなくても自分のことを理解してくれる人たちだけから評価されるのでは足りない。
やっぱりマリーは一際目を引く。与えられた才能を余すとこなく振り撒きまくっている。
気分によってダンスの切れが全然違う彩雪も今日は溌剌としている。
二人ともとっても良い顔をしている。まるでこの世界が自分のものだとでも思って信じて疑わないように。この二人が一番良い場所にいるのが本来のノーコンセプトゴールの姿だとでも言わんばかりに観客たちも声を張り上げて応えていた。
世界は変わらない。こんな二人がいるんだから、少なくとも私の世界なんて変えられないだろう。でも誰かの世界だったら少しは変えられるかもしれない。
「トーコ! ちょっと天気が限界だから今から」
透子は自分に飛んできた声を追い越して歩き出した。
そんな大きな声出さなくてもなんとなくわかるから大丈夫。あんまり焦っている人とかテンパってる人を見るのは好きじゃないって言ってるじゃない。
開演前に修正された予定は再度変更され、また何曲かカットされるようだ。天候はどんどん悪くなって新たな不具合があちこちに出てきているとのことだった。透子の出番はもう少し後のはずだったのだけど、新曲の披露をしないまま終わるわけにはいかないから曲順を繰り上げて次にやるらしい。それには同意だったので、透子はステージへと急ぎながら並走してこの後の流れを説明してくれているスタッフさんに無言で頷き返していた。急な曲目の変更がステージにいるメンバーたちへイヤモニを通じて一斉通達された。
なんだかそれっぽい。
透子はこみ上げてくる笑いを話が終わったのにまだ付いてくるスタッフさんに見られないように顔を右手で覆って下を向いた。自分が思い浮かべたことがもう本当に滑稽で顔面が歪んでしまう。これじゃあまるで彩雪やマリーみたいだ。
あっ、そうか。
こういうときにしっかりやらないとだめなのか。マリーや彩雪だったらこんな風に穿ったりしてないでちゃんとやるんだろうな。
グループに入って間もない頃。
集合時間よりずいぶん早めに到着したレッスンスタジオにはすでにマリーの姿があった。初期のマリーは杏子先生に「バレエとアイドルのダンスは違う」と何度も注意され、いわゆるアイドルダンスを習得するのに苦労していた。けれど、やっぱり持って生まれた常人離れした才能がそれまで邪魔していた経験を味方に変えてたちまち誰よりも上手く踊れるようになった。
センスと経験を併せ持つマリーはその頃から振りを覚えるのもグループで一番早かった。新しい振付けは教えられたその日のうちに完璧に覚えてしまっていた。
だから別にみんなより早くレッスンスタジオにやって来て練習する必要なんてなかったはずだった。それなのにその日マリーは誰よりも早くスタジオに着いていた。なぜ決められた時間よりもずいぶん前にそこにいたのか、理由は今でもわからない。
マリーは見たことのない知らないダンスを踊っていた。少なくとも透子たちのグループに与えられた曲を踊っているのではないことはわかったけど、体のどこをどう動かせばあんな風に踊れるのかはさっぱりわからなかった。でもその光景はむせ返りそうになる程、美しかった。わざとらしくちょうどいいくらいに開かれた扉の隙間からスタジオの中を覗いていると自分の語彙力がどんどん削られていってひたすら美しいという感想しか浮かばなくなってしまった。
マリーが透子より先にレッスン場にいたのは後にも先にもそのときだけだった。
あの時も一人踊るマリーの姿を透子は見ている側だった。それが神様に愛される者とそうじゃない者の違いなんだろう。
ノーコンの今のセンターは透子だ。でもそれは曲のポジションのことであって、グループとしてのセンターは変わらずずっと彩雪だ。
透子は今たまたまこの位置に置かれているに過ぎない。
正直、彩雪のセンターに最初から不服がなかったわけではないけど、今となって文句はない。なんとなく彩雪がそこに収まるのが自然な気がしてきてしまっていた。
彩雪は、いろんな場面でたまたまとしか思えないような出来事やきっかけでずっと選ばれ続けていた。
それは大事な仕事や大きなステージだけでなく、些細な場面でも同じだった。
ある日の収録現場。
朝早くから夜遅くまで続くテレビ番組の収録で現場はピリピリしていた。
カメラの前の透子たちももちろん疲れていたけど、その後ろで忙しそうに飛び回っていたスタッフさんは透子たちの比ではないくらいお疲れの様子だった。
その現場に、こう言っちゃ悪いけど見るからに仕事のできなさそうな新人スタッフがいた。その人が透子たちやほとんどのスタッフが集まる前で資料の書類を派手にぶちまけた。
何十枚もの書類が舞うなか、うんざりしていたり、呆れたり、もう何にも感じなくなった無の感情が充満していった。
「何やってんだよ……」
比較的地位の高いスタッフさんが呟いた言葉が完全にその場の空気を凍りつかせた。ヘラヘラしてあたふたするポーズだけ取ってなんとなくやり過ごそうとしていた透子たちも固まってしまった。
そんななか、彩雪一人だけが躊躇なく動き出していた。
「あっ! すみません。僕やりますから」
「大丈夫ですよ。はい」
「ありがとうございます」
彩雪が拾い上げた紙の束を受け取りながら新人スタッフは照れくさそうに笑っていた。
なぜかその場面を透子はずっと忘れることができなかった。
彩雪は、選ばれ続けていた。
――デビューシングルでも、
「私は昔からずっといじめられてきました」
「――」
――グループで初めてのソログラビアにも、
「こんな自分でも必要としてくれる人がいるのなら何でも精一杯全力で頑張ります」
「――」
――メンバーの数人が出演することになった舞台での主演をすることになったときにも、
「私は、舞台に立てるような素晴らしい人間ではないかもしれませんが選ばれたからには」
「――」
全てで彩雪が選ばれているから、私は選ばれなかったのか?
――私が初めて歌唱メンバー入りしたシングルでは、
「――」
「まさか選ばれると思ってなかったので」
――私が初めて一列目で歌うことになったときには、
「――」
「シンメがマリーなのは勘弁してって感じですけど」
――私がセンターに選ばれたとき、
「力不足で悔しいです」
「――」
ああ、そうか。
私は自分ではぐらかしてきたんだった。発言できるチャンスをもらっても、矢面に立ったときでも、なんか、ごまかしてきてしまったんだった。
ステージへと続く道の途中、急に肌にまとわりつく空気がとろとろの蜜の中みたいにふにゃりとした。それはすぐにステージの方から流れてきた生暖かい湿気だと気がついた。そんなわけあるはずないのになんとなく甘く感じたその空気に刺激された頭がチリチリと音をたてていつもは動かないところを動かしていた。
「大丈夫ですか?」
振り切ろうとしていた影みたいに透子の後ろを付いて来ていた人が少し先で心配そうにこっちを振り返っていた。透子は壁に寄りかかるようにして体を支えることで辛うじて立っていられた。
「いけますか? それともマネージャーさん呼びますか?」
「……きます」
「はい?」
「できます」
何度か壁に体を打ちつけながら体勢を立て直し、心配そうにこちらを見つめるスタッフをまた追い越した。すれ違い様にその人の顔を初めてよく見たら思ったよりも若くて、もしかしたら年もそう変わらないかもしれない。目尻の下のところにニキビがあって、それがもし黒子だったら泣きボクロだったのにと確実に今考える必要のないことが浮かんできた。
できます。
できるかできないかで答える質問をまさか自分がされるようになるとは思ってもみなかった。
その質問は彩雪がされているのを近くで何度も見てきた。いつでも彩雪の答えは決まっていた。
できます。
どんなにきついスケジュールでも
できます。
どんなに難しいことでも
できます。
たとえやりたくないことでも
それ以外の回答はないみたいに彩雪は反射的に「できます」と答えていた。
透子もさっきは何も考えてなかった。というかそう言うしかなかった。別にプロ意識とかそんなご立派なものじゃなくて、単純にそれ以外の答えが思い浮かばなかった。
私が選ばれなかったから、彩雪が選ばれたんじゃない。
彩雪が選ばれたから、私が選ばれなかったんじゃない。
彩雪はずっと選ばれていたんだろうな。それこそ、アイドルになるずっと前から。今は一時的に透子が選ばれた形になっているけど、それだって彩雪が外れること、そしてまた再び同じ場所に戻ることに選ばれるまでの準備期間くらいにしか思われてないこともわかっている。髪を切った分軽くなった頭は次々に思い浮かんできたことを深く考えることを拒絶した。
「はい、えっ? すみません、ちょっとよく聞き取れなくて……。はいっ?」
スタッフの彼が無線に向かってイライラした様子で応答を求めている。透子をステージまで送り届けるのが彼の仕事なのに、透子のことはほったらかしにして立ち止まってしまっていた。このまま進めばすぐにステージへの入口に着くから勝手に行ってしまってもいいのだけど透子は律儀に立ち止まり、背中を丸めて必死で指示を聞き取ろうとしている彼のことを待った。悪天候が電波状況にまで影響を及ぼすとは思えないけど、もしかしたら思いもよらぬところにまで作用しているのかもしれない。
「すみません。よくわかんないんですけど、今他のみなさんはセンターステージにいるとかで、そのまま新曲いくからイントロの間にセンターステージに行けだって」
「はい?」
最後の方タメ口だったけどそれは置いておく。
今日のライブのステージセットはメインステージがあって、そこから花道が伸びていてその先のアリーナ中央にセンターステージがあるという構成だ。
曲によってステージ間を移動することは大きな会場でライブをするときには必須だ。移動したとしてもメンバーを間近で見られる席というのは限られているのだけど大きいな会場でもファンの人にできるだけ孤独感を与えないためには必要不可欠になる。今日はトロッコを使ってアリーナだけじゃなくスタンドの客席内を回るという演出が用意されていたのだけど悪天候のせいでできなくなってしまった。
それが今は裏目に出てしまっていた。開演前に変更が加えられたセットリストではこの次にやる曲でセンターステージからメインステージに戻ってくる予定だった。メインステージで全員が集まったら満を持して透子が登場する、という筋書きが描かれていたけど再び変更されたセットリストは透子とグループの再会を遠ざけた。
「とりあえず! 出て!」
「ふぇっ!」めっちゃ馬鹿みたいな声が出た。
「張り切ってどうぞ!」
「張り切って」じゃないよ。本当に。
やっぱり私は愛されてもいないし、ましてや選ばれてもいない。だってこの場面で出鼻をくじかれるなんて全然締まらない。
皮肉にも今日一番のバタバタを透子自身が味わっているとストリングスが奏でる美しい旋律が聞こえてきた。
今、私は何に選ばれているのだろう。
まあ、もう何でもいいや。結果として選ばれているのだから、その間だけ思う存分やってやろう。
促されるままステージに出たけど、そこには予想通り他のメンバーは誰もいなかった。正面に伸びる花道を渡りきった先で水中を優雅に泳ぐみたいにみんなが踊っている。
天からのお迎えがきたようにピンスポットライトが差し、透子の姿を真っ暗なメインステージに浮かび上がらせた。




