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私の背中を押してください  作者: 箱々屋満平
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第十三話

 協議の結果、ライブでパフォーマンスできるのは一〇曲が限界ということになった。セットリストやその他諸々の変更点の説明を受ける。説明してくれた演出家はものすごく早口で熱っぽかった。その顔にはいい具合に登場人物としての自覚が生まれていた。

 メモを取って確認する時間はないので口頭で言われたことをその場で頭に叩き込んでいく。ここ一番の集中力を発揮するメンバーたちの姿は頼もしく、数年のアイドル人生が伊達ではないことを物語っていた。そのなかで後半の数曲しか出番のない透子はじっと周りの様子を、首を動かさずに眼球だけを活発に動かして観察していた。壁に掛けられている時計を見るとすでに開演時間を超えていた。

「というわけで、今でもギリギリの状態だし、始まってからもいろいろハプニングはあるかもしれないけど、ステージに上がったらあとはもうやるしかないのでとにかく楽しんで、頑張ろう!」

 マドカの発破に「はい!」と声を合わせて返事をした。隣にいる人と手を繋いでみんなで一つの輪を作った。輪の中心にいるカメラがみんなの表情を撮ろうとくるくる回るのが鬱陶しい。

 いつもは円陣の直前までなんとか加わることを回避しようとしていたけど、今日は透子から円が作られていった。

「じゃあ」

 そう言ってマドカは透子の方を見た。皆まで言わずともわかってる。今日の円陣を締められるのは一人しかいない。

「えーと、今更ですけど、皆さんお久しぶりです」

 つかみでちょっとスカしてみた。ステージに上がる直前の張り詰めた空気が少しだけ和らいで、みんなの肩に入っていた力がすとんと抜け落ちた。呼吸することを思い出したメンバーが「本当だよ」「久しぶりだけど」と口に出して軽い笑いと一緒に息を吐き出した。

「ご心配おかけしましたけど、もう大丈夫です」

 緩んだムードはここまででいい。透子以外のメンバーは一足先にステージに向かう。言い方が悪いかもしれないけど、みんなには透子が復活するための最高の舞台をお膳立てしてもらわないといけない。

「こんな大きな会場でライブをやれるなんて未だに信じられないですけど」

 この言葉でみんなに過去を振り返させる。今が一番高いところにいる人の思い出は辛く苦しかったことが先に立つ。破竹の勢いで遂に日産スタジアムでワンマンライブを開催するに至ったノーコンセプトガールのメンバーたちはきっと今、これまでの辛く苦しかった道のりを思い返しているだろう。

「ここまでやって来られたのはファンの方はもちろん、お世話になったスタッフの皆さんのおかげだし、そして何よりここにいるメンバーの誰か一人でも欠けたらたどり着けなかったと思います」

 肌の表面をさわさわしたものが駆け抜けて肩が上がってしまった。口の中に酸っぱいものが溢れそうになるけど強引に押さえ込む。

「今日久しぶりにみんなに会って思ったよ。このグループは、もっと、大きくなる」

 この辺からですます調ではなく普段の言葉遣いで話して自分自身の言葉であることを強調してメンバーたちとの距離をぐっと縮めた。透子は熱い言葉を言い終わってから少し間を空けて誇らしそうなメンバーたちの顔を順に眺めていく。汚れを知らない純真無垢な子供のような視線を送ってくれるみんながとても眩しかった。今も頭ではあれこれ邪悪なことを考えている自分はもう少女でも大人でもない。だからもう純粋な彼女たちに寄り添うことはできない。

「今までこんなこと言ったことないけど」

 繋いだ両手を離して肩に回す。それにみんなが倣って輪の直径が小さくなった。

「みんなで取るよ、天下」

「天下」の部分を印象付けたいので倒置法を使った。それを聞いて盛り上がったみんなは足を踏み鳴らす。そろそろ士気は十分に高まったので、最後の掛け声だけを残してマドカに発言権を返却する。

「行けます! 準備できました!」

 図ったかのようなタイミングで駆け込んできたスタッフの声を合図にマドカが最後の号令を発した。それぞれ胸に秘めた思いは違うかもしれないけどみんなの顔は一様に笑っていた。

 透子たちアイドルは簡単に自分の精神や抱えた闇を発散することができない。バンドマンみたいに自分で曲を作ってないし、誰かが想像で書いた歌詞を自分の言葉みたいに歌わなければならない。だからせめてもの自己主張としてどんなときも笑っているのかもしれない。笑い飛ばしでもしなければ、ほぼ丸腰の状態で万を超える人の前には出ていけない。


 遠い、別の銀河で彼女を待つ。


 大きく踏み鳴らした地面がまだ揺れている。いよいよ舞台に上がる時がきた。開演予定時刻は大幅に過ぎていた。円陣が解かれるとノーコンセプトガールのメンバーはこれから共に戦う仲間と手と手を合わせて発破を掛け合う。そこかしこでパチンパチンという手のひらと手のひらがぶつかる音と一緒に小さな星が現れた。

 今日は透子も恥ずかしがらずに手を上げる。ステージに向かうみんなが順番に透子の手にタッチしてから頼もしい一言を置いていった。

「また一緒に頑張ろうね!」「もっと上を目指そう」「今日から新しいノーコンだね」「髪短いの似合ってるよ」

 右の手のひらの感覚が無くなってきたところでこっちを見てニヤニヤしているマリーに気がついた。今日もすらっと伸びた手足は指先からつま先まで神経が行き届いている。質の良さそうでしなやかな筋肉は十分なストレッチを施されいつでも踊りだすことができそうだ。

 他のメンバーと同じように手を合わせようとしたら寸前のところでマリーが手を引っ込めた。衝突させて逃がすつもりだった勢いに上体が持って行かれてしまってつんのめる。二、三歩小さくよろけてから顔を上げるとマリーがケラケラと楽しそうな笑い声を上げていた。

「フラフラじゃん。あんま無理すんなよ、病み上がり」

「ははは……、もう大丈夫だから」

 透子が言い終わるのを待たずにマリーはくるりと半回転してステージに向かってしまった。その後ろをポニーテールがぽんぽんと揺れながらついて行った。体制を立て直しながらいつもの癖で首元に手を持っていく。そこにはもう払える髪はなかった。

 みんなを見送っていると、さっきまでライブ前の緊張とか高揚とかたくさんの人がバタバタと行き交う音に溢れていた世界が突然ミュートされた。

「待ってたよ、トーコ」

 倒置法だ。私の名前が後ろに持ってこられていた。

音のない世界で、その声だけには頭の中に直接話しかけられたみたいにくっきりとした輪郭があった。周りの景色は靄がかかったみたいにぼやけているのに、目の前に立つ彩雪だけははっきりとした存在感を放っていた。

 あ。

 久しぶりに彩雪と会って気がついた。今の自分は彩雪と同じくらいの髪の長さなんだ。

 大人数のグループに所属するアイドルにとって見た目のイメージやシルエットの特徴はとても大切だ。特に今日のような大きな会場でライブをするときは極めて少数の観客を除いてほぼ全ての人がステージ上にいるアイドルを小指の爪の先くらいの大きさにしか視認することができない。だから衣装の色などで違いを作るのだけど、今日のように揃いの衣装の場合は髪型くらいでしか見分けがつけられない。

 ノーコンでは「ポニーテールといったらマリー」の次くらいに「黒髪のロングはトーコ」というのが定着していたように思う。でも、透子はそれを自らの手で切り落としてしまった。

 今の透子の髪型は、彩雪の髪型とそっくりだった。前髪の分け目とか毛先の感じとか細かいところでの違いはあったけど、少なくともステージに上がってしまうと見分けることは難しいだろう。でも今日は確実にわかる透子と彩雪の違いがひとつあった。

 彩雪は右の耳の上に衣装に合わせて作られた髪飾りを付けていて、透子には何もなかった。パールや銀細工があしらわれた選ばれし者だけが身につけることを許されたバレッタは彩雪が少し動く度に蛍光灯の光をキラキラと反射させていた。こんなに弱い光でもこれだけ輝くということはステージを照らす照明やレーザー光線を受けるともっと強く輝くだろう。

 反射した光に目を逸した先には今日のライブで本来使われる予定だったセットリストが書かれた大きな模造紙が壁に貼り付けられていた。箇条書きされた曲名のほとんどは彩雪がセンターを務める曲だった。つい最近センターをやるようになった透子がいなくなったとしても、数曲を差し替えたり代理を立てたりするだけで事足りるけど彩雪がいなくなったら成立しなくなってしまいそうだった。

 彩雪は私を待っていてくれていたらしい。いなくてもいい私を。

「ファイナルに間に合って本当によかった。トーコがいなくてすごい不安だったよ」

 優しい言葉を掛けられている私は今、どんな顔をしているのだろう。

「今度は何かあったら話してくれると嬉しいかな。限界来る前に。たぶん、トーコの気持ちを一番わかるのは私だと思うから」

 そう言って彩雪は目と鼻と口が融合しちゃうんじゃないかと思うくらい顔のパーツを真ん中に集めてくしゃくしゃになって笑った。視界の中に両頬が入ってきて、透子は自分も笑っていることに気がついた。

 彩雪に笑ってもらえると嬉しかった。良い意味でも悪い意味でも飾らず取り繕わない彩雪が笑うと場の空気が明るくなる。よく彩雪は何も考えてないと言われるけど、何も考えていないように見えて実のところ本当に何も考えていない。もしかしたら空気を読むといった行為をこれまでの人生で一度もしたことがないのかもしれない。それは別に悪い意味ではなくて、彩雪自身が空気の発生源だから仕方がないことだった。

 ノーコンに入って間もない頃、同い年で同じ学校に編入したマリーしかまともに話せる人がいなかった。それまで親や教師しか大人の人と関わることがなかったから、透子はグループを管理する人たちにはわかりやすく壁を作っていた。活動が進んでいくとなんとなく誰が重宝されているのかがわかってきた。そして自分は特に大事にされていないことも気が付いた。

 その頃から今もずっと一番大切に扱われているのは彩雪だ。

 彩雪は透子のことが一番わかるのは自分だと言った。でも透子は彩雪のことはあんまりわからない。それは同じ位置に立っても変わらなかった。

 でも彩雪がなんであんなにみんなから宝物みたいに思われているのか今ならわかる気がする。

 みんなこの顔が見たいんだな。屈託のない、赤ちゃんみたいな、笑いかけられている方が逃げ出したくなるようなあの顔が見たいんだ。他のメンバーやスタッフがそうするように、私だって彩雪に笑って欲しくて楽屋でふざけたり馬鹿なことをしたりもした。

 今も押すと自分が死んでしまうボタンを相手に喜んで手渡すように彩雪は透子に向かって無防備に笑いかけている。本当にそんなボタンがこの手にあったら透子はどうするだろうか。

「彩雪! 出て! 早く!」

 三文字以内しか話すことが許されないゲームをやっているみたいな声が向こうから飛んできた。

「あー、緊張するー」

 けたたましく囃したてる声もどこ吹く風で彩雪はマイペースに鏡に顔を近づけた。彩雪の温度が体の左側から消えて、透子は自分の左腕に彩雪の腕が絡みついていたことに気がついた。メンバーや女性スタッフにはベタベタと激しめのスキンシップをする彩雪だったが、透子には気を使っていたのか今まではあまりくっついてきたりしなかったのに。

 彩雪の行動や言葉の意味を考えてみるけど、たぶん私が思いつくような意図なんかないんだろうな。だから神様に選ばれたんだろう。頭で考えてそれっぽく振舞っている時点で私が選ばれることはないんだろう。

「神様」

「えっ?」

「神様なんてどこにもいないんだろうね。こんな日に雨を降らすんだから」

 頭の中が漏れ出して声になってしまったかと焦った。だけど心の奥底で厳重に閉じ込めている思いがそんな簡単に外にでるわけはなかった。風は強いけど、雨は降ってないはずだった。

彩雪が消えてしばらくすると聞き覚えのある打ち込みで作られた激しい音楽が聞こえてきた。視界を無理やり広げていた糸がプチンという音をたてて切れた。ライブが始まるときと同じように透子は暗闇に包まれた。


 低いところから撮影されたであろうその映像は集まった観衆が振り上げた腕で埋め尽くされていた。その腕々をかき分けていった先に、歩を進める少女の姿が見えた。映像に収録されていたノイズ混じりの割れた音はとても美しかった。


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