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私の背中を押してください  作者: 箱々屋満平
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第十一話

 初めて握手会を欠席した透子はすぐに病院に連れて行かれた。目立った外傷もなかったし、高熱が出ていたりどこかが痛かったりしたわけじゃなかったので何科に連れて行かれるのか若干怖かったけど普通の総合病院の内科だった。

 風邪気味のときと同じような診察をされて、まあ予想通り「過労」という結果が出て、効果があるのかどうかもわからない点滴を打たれて一晩だけ入院した。

 予想通り「ちょっと疲れていただけ」という診察結果だったのだけど、透子はこの日から休業するようにと言い渡された。それから数日が経って八月の半ばを過ぎ、透子は今日まで消しゴムのカスを集めるような生活を送っていた。

 グループは今ツアー中で毎週末日本のどこかでライブをしていた。外部との交わりを完全にシャットアウトしていたので各公演で何が起こったのかを知る由もなかったけど、おそらく今のノーコンなら良いライブができているんじゃないかと思う。

 休養に入ってから見ていなかった携帯を久しぶりに見ると透子にしてはたくさんの不在着信やメッセージが届いていた。毎日届く迷惑メールの合間にメンバーからそれぞれのキャラクターを詰め込んだメールが届けられていた。彩雪からも着ていたけどたぶん内容は「信じられないかもしれないけど私、ノーコンの真中彩雪なんです。芸能界に友達がいなくて寂しい毎日を過ごしているのですが、よかったらお友達になってくれませんか」とかだろう。

 彩雪と透子は友達なのかと聞かれたら、友達ではない。よく歌番組のトークコーナーとかで「本当は仲悪いんでしょ?」と司会の人に聞かれたりする。透子たちは声を揃えて「そんなことないですよ」「仲良しです」なんて反論するけど、確かに友達ではない。別に仲が悪いわけでもないけど、同じグループのメンバーであってそれ以上でもそれ以下でもない。それは友達より上の存在でも下の存在でもない。そして友達の部分が家族に変わっても同じことが言える。

 そういえば休養している間に両親から連絡があった。とりあえず大丈夫ということとちょっとだけお休みをもらってからまた復帰することを伝えた。透子と家族の関係に特別な問題はない。他の家と比べると放任主義なところがあるくらいで至って普通の家族関係だ。成人もしているし、一応社会人として働いているから頻繁に連絡を取ることはなかった。だから透子はテレビ番組に出演するときのアンケートで必ずと言っていいほど質問される「何か家族とのエピソードがあれば書いてください」という項目には毎回困らされていて、いつもなんとか無理やりひねり出して空欄を埋めていた。そんな努力も虚しくこれまで一回も採用されたことはなかった。

 受信ボックスの中には一日一通マネージャーさんから次の日のスケジュールがメールで届けられていた。一斉送信されるメールはグループ全員が参加する仕事の予定が書かれていることもあれば、少人数や個人の仕事について書かれている場合もあった。わざわざ関係のないメンバーにまで同じメールを送るのは、「お前以外のメンバーはこんなにも働いているんだぞ」という意味が暗に行間に込められているようで自分の名前がないメールを見るのは辛かった。それも最近ではなくなっていたのだけど八月に入ってからのメールにはどこにも「小野」という文字はなかった。

 メールによると、ツアー中に関わらずライブのない日は毎日どこかでメンバーが働いていた。古いものから順に一通ずつ翌日のスケジュールを確認していくと、どこにもなかった自分の名前が見つかった。メールが送られた時間を見るとついさっき届いたものだった。明日は福岡でライブの予定だけど、そこにはライブの最中のはずの集合時間と都内の集合場所と「小野」という文字が書かれていた。


 約二週間ぶりに外に出たら夏の勢いが更に増していた。十分な食料の備蓄があったわけではなかったけど、飲み水さえ確保できれば人間はそれくらいの日数だったら特に不自由なく暮らしていけることがわかったのは収穫だった。でもそろそろ食べ物が尽きる頃だったのでちょうど良いタイミングで呼び出されてラッキーだった。

 昔から美容室が大嫌いだった。これまでずっと髪が伸びても自分で前髪だけ切ってなんとかぎりぎりまで凌いでいて、あのおしゃれ空間に飛び込むのはスタッフの人に再三言われてからやっと意を決して重い腰を上げるという有様だったけど、今日は流石に行かなきゃだめだと思って自発的にやって来た。

 長い年月をかけて体に染み付いた癖はなかなか抜けないようで、今でも胸の前の髪を払ってみたり前かがみになった時に髪が落ちないように抑えたりしてしまう。

 何人かいる女性マネージャーさんの中で一番おしゃれじゃない人に教えてもらったお店に着いた。あまり馴染みを作りたくないので今回も初めての店にした。そこは代官山や表参道にあるお店ではなく、個室もないようなサロンと言うよりは町の美容室みたいなところだった。

 あの後、メイクさんに応急処置をしてもらったので結婚を約束していた恋人に裏切られ精神が崩壊し自らの髪を毟り取ってしまった女、みたいなおぞましい見た目ではなくなっていたけど、それでも久しぶりに人前に出ることに緊張していた。

 心を決めてお店に入って「予約した者なんですけど」と告げる。二週間ぶりに聞いた自分の肉声のあまりの小ささに驚いていると、結構お年を召された奥様といった感じの上品な女性が「お待ちしていました」と優しい笑顔で出迎えてくれた。それほど広くはないシンプルな感じの店内には他にお客さんはいなく、その人と透子の二人きりだった。

「今日はどうなさいますか?」

「とりあえず髪の長さを整えてもらいたくて……」

 案内された椅子に座って正面を見ると鏡に映った自分と目が合った。久しぶりに見た自分の顔は、まあ思っていたほどひどくはなかった。腐ってもなんちゃら、というやつかもしれない。店内には小さくクラシックが流れている。

「今は重めですけど、軽くしますか?」

「あっ、えーと……」

 手櫛で透子の髪をすく女性はスタイリストというよりは美容師さんと呼んだ方がしっくりくる。もう長い間「毛先と前髪を揃えてください」としかオーダーしていなかったので髪型を決めるときに伝えなければならない必須項目も、こういうとき何て答えればいいのかもわからなかった。

「最近までずっと伸ばしてた?」

「あっ……、はい」

「やっぱりそっか。綺麗にしてたんだね」

 頭皮に這わされる指先が気持ちいい。回答に悩む透子を見かねたのかイエスかノーで答えられる簡単な質問に切り替えてくれた。お店の名前にオリタと入っているし、たぶんこの人がオリタさんなのだろう。オリタさんは透子の年を実年齢よりも低く設定したのか中学生くらいの子を相手にするみたいに話しかけてくれる。サロン初心者の透子にはそれくらいの扱いでちょうど良い。

「実はイメチェンしたくて自分で切ったんですけど失敗しちゃって」

「駄目よ。そんなことしたらせっかくの綺麗な髪が傷んじゃう」

 娘の友達に接するみたいなオリタさんに少しリラックスした透子はこれまでずっと髪が長かったことを話した。話しているうちに何故かお風呂上がりが面倒くさいなどの長髪あるあるを発表していた。

「こんなに短いのも今まで記憶にないからどういう風にすればわからなくて」

「そっか、そうだよね。どんな感じにしたい?」

「どんな?」

「可愛くとか、格好良くとか」

「可愛く、かな?」

「じゃあ、こんなのはどう?」

 オリタさんはヘアカタログでいろいろな髪型を提案してくれながらひとつひとつ丁寧に説明してくれた。さっきまで質問されたことになんて答えればいいかわからなかったのに、どんな感じにしたいかはすぐに決断することができた。

 透子は今まで頑なに黒髪のロングヘアーに拘ってきた。黒髪ロングはどちらかというと受けが悪い。黒過ぎる髪色とどこか人を寄せ付けないようなストレートの長髪はアイドルっぽくないとよく言われていた。透子はいわゆる真ん中の可愛いに反抗したくてその髪型にしていたところがあった。しかし本当のところは反抗と言うより王道の髪型で勝負するのが怖かったというのもあるし、やっぱり単純に人の好みの最大公約数みたいな髪型をするのが嫌だったということも大きかったかもしれない。だから自分でも可愛い感じにしたいと即答できたことが驚きだった。

 いくつかの写真を見ながらなんとなくイメージを固めていく。これまでの透子では考えられなかったような出来上がりに仕上がりそうだ。まあ、これまでずっと同じ髪型だったから当たり前なんだけど。

「じゃあ、始めていくけど、わからないこととか変に思ったところとかがあったら途中でも遠慮せず言ってね」

 オリタさんが慣れた手つきで透子の髪にハサミを入れていく。透子が切ろうとしたときはあれだけ反抗してきたくせに、今は喜んで刃を受け入れていた。

「前髪はどうする?」

 他のメンバーはいつもライブや撮影の前は前髪を作るのに一番時間をかける。カーラーで巻いて温風を当ててから冷風を当ててスプレーで固めてという作業を毎日せっせとやっていた。透子なんかもっと適当だった。特にライブのときなんかすぐに乱れてしまうのだからとブローするだけなんてこともあるくらいだった。

「ふわっとした感じでちょっと流したらどうですかね?」

 今思いついたんですけど、みたいな意味を声に込めた。私には合わないかもしれないけど、という表情も合わせて作る。

「いいと思うよ。こんな感じ?」

 オリタさんがコームを使って即席の前髪を作ってくれた。それはすごくアイドルっぽい可愛い前髪だった。透子は「あっ、じゃあそれで」と返事をした後に少々上からな物言いになってしまったかなと焦る。けれど、そんなことはまったく気に留める様子もなくオリタさんは前髪に取り掛かった。そういえば前髪はずっと切っていなかった。目にかかるようになっていた前髪がピンで上げられて視界が開けた。こんなに景色をはっきり見たのはいつ以来だろうか。

「どうかな?」

 絶対に褒められることがわかっている一〇〇点の答案用紙をママに見せる男の子みたいな顔でオリタさんが手に持った鏡をドレッサーの鏡と合わせる。鏡の中の世界にはいろんな角度の透子がいた。

「……良い感じです」

 あえて首を左右に振ってたっぷり間を開けてから感想を述べた。

「後ろとか大丈夫?」

 声を出さずに頷くと、かすかに後頭部に揺れる髪を感じた。その軽さは今まで感じたことがないものだった。透子は早くそれに触れてみたかったのだけど、カットクロスが邪魔していた。


 料金が驚くくらい安くてびっくりした。一歩一歩足を進めるごとに髪が揺れた。髪が長かったときはひとつの意思をもった生命体みたいに透子の動きに付いてきていたけど、今はいくつかのグループに分かれてそれぞれが好きなように跳ねていた。

「学校、頑張ってね」

 最後まで名前を聞くことはできなかった仮称オリタさんは別れ際に手を振りながらそう言った。ここまできたら最後までのってあげようと透子も夏休みの女子校生になった気持ちで手を振り返した。

 夏休みに生まれ変わった少女は、夏が終わるのを待ちわびて新しくなった自分がクラスのみんなを見返すことを夢に見る。頭を掻くふりをして髪を指の間に通してみる。ふわふわした手触りがなんだか浮かれているみたいだったので顔に出さずに苦笑いした。

 髪を切ることは魔法だ。女の子は誰でも新しい髪型になると心がウキウキしてどこかに出かけたくなる、みたいな頭の中お花畑な話ではなく、大きく見た目を変えると新鮮だしやっぱり注目度は上がる。特に透子たちみたいなアイドルはビジュアルの大幅な変化はイチかバチかのギャンブル的な側面があって、そう何度も使える手段ではない。時にはイメージが崩れてしまって逆効果になってしまうことだってある。

 短いアイドル生命の中で一度だけ使える魔法を透子は使った。使ってしまったと言うべきかもしれない。

 私は誰を見返したいのだろう。

少し歩いただけで汗が吹き出しティーシャツが肌にはりついて気持ち悪い。太陽は一番高いところにあるから日陰ができず、日焼け止めを塗っていない肌が紫外線で焦がされていく。それでも次の仕事まであまり時間がないので少し歩調を強める。首筋を流れる汗がいつもよりくすぐったかった。


 スタジオの中は冷房が効いているけど、火照った体は未だに汗を吹き出し続けていた。そもそも汗をかいたのも久しぶりだったから、今まで体の中に溜まっていた毒素を一気に吐き出そうとしているのかもしれない。そう思うとなんだか自分の汗がドロドロとしたとても汚らしいものに思えてきた。

 流れる汗もそのままに透子は耳に全神経を集中していた。初めて聞く曲を体に馴染ませていく。今は聴覚以外の感覚が稼働していることが煩わしかった。

 通常、新しい曲をレコーディングするときは事前に音源を渡されて十分に聞き込んでから収録に臨む。でも今回は、今聞いている曲をこの後すぐに歌わなければならない。リリースを重ねて、最近では音源をもらってから本番までの期間がどんどん短くなってきていたけど、とうとうその日のうちにということになってしまった。まあ自分が仕事を休んでしまったせいもあるだろうから、仕方がないことかもしれない。などと余計なことをうだうだ考えている暇はない。この少しの時間でできるだけ曲を覚えないといけない。

 新しい曲は今までのノーコンにはなかったような感じの曲だった。どちらかというとスローテンポで、ライブでもオイオイ言いながら盛り上がるような感じではなく、しっとりと歌いあげるような、でも決して暗いわけではなく切ないメロディーの中にもどこかキラキラとした印象を受けるような、難しいことはわからないけどとにかく透子はすごく好きな曲だった。

 透子たちは自分が歌う曲を選ぶことはできない。曲を作ったり詞を書いたりしているわけでもないし、楽器を演奏するわけでもない。誰かが作った曲に乗せて誰かが書いた歌詞をさも自分たちの言葉のように歌う。時にはこんなことあるわけないと思うようなことでも感情をいっぱいに込めないといけない。でも今回の曲の詞はすんなり頭に入ってきた。

 やっぱり知っている人が作った曲だからかな。

 今までは存在は知っていたけど会ったことがない人が作った曲ばっかりだったからあんまり感情移入できなかったのかもしれない。

「おはようございます」

 その声を聞いた透子は反射的に耳に入っているイヤホンを力いっぱい引き抜いてから立ち上がろうとしたけど「いや、そのままで」と制されてしまう。この仕事を始めてから初めての長い休みで緩んでいた体が瞬間的に硬直した。

「体調はどうですか?」

 大丈夫、問題はないと答えたいのだけど声が出ない。透子は無言でこくこくと小刻みに頷いた。

「次作もセンターでいくから」

 体調のことを気遣ってくれているのかと思ったけど、透子の返答はどうでもいいみたいにヒロサワさんは話を続けた。さっきまで透子の耳に繋がっていたイヤホンからシャカシャカと音が漏れている。

「少し悩みましたけど、協議の結果この曲なら小野の方がいいという結論になりました。頑張ってください」

 小野の「方が」ということは誰かと透子のどちらかで悩んだということだろうか。もし悩んだとしたらたぶん彩雪とだろうということは直感的にわかった。何にしてもそんな裏事情を透子に伝えると言うことの方が気になった。そこには物語が生まれてしまっているのでなないか。ノーコンセプトではなくなってしまっているのではないか。

「あと復帰の時期ですけど、とりあえずツアーのファイナルでと考えています。詳しいことは追って連絡させます」

 今日も透子以外のみんなは地方でライブを行っている。各地を巡る旅の果てにはグループ史上最大規模のライブが控えていた。

 アイドルグループはライブを行う毎にその会場を大きくしていく。それは観客動員というわかりやすい数字でグループの成長を示すことができる、また実感することができる絶好の機会になってくれるからだ。申し訳程度のダンスレッスンと気休めにしかならないボイストレーニングくらいしか訓練を受けることのない透子たちが「成長」するためにはどうしても目に見える結果が必要になる。だから大きな会場でたくさんの人を集めることができたなら、それだけの力があるということなのだから、私たちも「成長」したんだと自分と世間に言い聞かすことができる。

 今回のツアーのファイナルは初のスタジアムライブが予定されていた。会場が日産スタジアムと告知されたときは誰もが時期尚早と切り捨てた。正直、透子自身もその通りだと思った。でも待っていたとしても適切な時期なんか来てくれないこともわかっている。だから歌もダンスも未熟なアイドルはライブに来てもらうためにあの手この手で付加価値をつける。その最たるものが「物語」だ。自然発生のものが好ましいけど多くの場合は人工の挫折や壁を、自作自演でもいいから傷だらけになりながら乗り越えるというストーリーがやっぱり多くの人の琴線に触れる。

 それをやらない、と一応は掲げていたのが透子たちノーコンセプトガールだったはずだけど、最近はちょっとぶれてきていた。

 名前が呼ばれてレコーディングブースに入る。ヒロサワさんは透子の方をもう見ていなかったけど一礼してから席を立った。

 ブースに入ってマイクの前に立つ。やっぱり一人でここで歌うことはまだ慣れなかった。繰り返し聞いてメロディーを体に覚え込ませた曲が鳴り出した。オーケストラが演奏しているみたいな壮大なイントロはとても美しい。

「こんな曲も作れたんだな、ヒデヨシさんは」

 心の中でそう呟くと音の色彩が溢れ出し曲調が一気に明るくなる。透子は息を吸ってそのときを待つ。




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