表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の背中を押してください  作者: 箱々屋満平
1/16

第一話


 ピカピカに磨かれたスタジオの床を、トレーニングシューズのソールが噛むキュッキュッという音をさせながら体の動かし方が完璧にわかってるみたいに踊る。音程とかピッチはちゃんとしてるけど癖のない歌声しかまだ入っていない曲に合わせて新しい振り付けをやって見せてくれる。


 今、踊ってくれている先生たちはこんなに上手だけど透子たちの前でしか踊る事はない。実際にステージに立ってお客さんの前で踊るのは透子たちだ。だけどこれからどれだけ練習しても絶対に先生たちみたいに格好良くは踊れない。それでもたくさんの人たちがステージで透子たちが踊ることを楽しみにしてくれている。全然上手じゃないのにたくさんの声援と温かい拍手を送ってくれる。


 壁一面に張られた鏡にもたれ掛かると、ティーシャツ一枚を隔てた背中に鋭い冷気が伝わってきて小野透子は体を震わせた。

 先生たちはガムテームで作った名札を胸の辺りに貼ってくれている。その中の胸に「小野」と書かれている先生に携帯を向けて動画を撮る。この後のレッスンである程度振りを覚えて、家に帰ってからも動画を見て練習しないといけない。明日は朝から撮影があるけどしょうがない。

 胸に「小野」と書かれている先生は一番前の列の真ん中で踊っているから動画が撮りやすかった。

 通しで一曲踊り終わると思わず拍手をしてしまう。それは他のみんなも同じだったようでスタジオにはパチパチと手を叩く音が溢れた。

「格好良い」

「やばい」

「難しそう」

 先生のお手本を見たメンバーたちは感じたことを反射的に脳を通さず言葉にしていった。確かに今までの曲に比べると難易度が段違いに高そうなダンスだった。だけどみんなでしっかり揃えられたら凄い格好良いだろうし、ライブでも絶対盛り上がりそうだ。

 踊り終わった先生たちは軽く会釈をしたりして謙虚に振舞おうとしていたけど、これくらい余裕だよって顔をしているような気もした。

「じゃあ、しばらくそれぞれ個人で振り入れしてください」

「はい」

 スタジオの端っこで腕を組んで立っていた杏子先生が指示を出すと透子や他のメンバーたちは大きな声を揃えて返事をしてからそれぞれ自分の名前を付けた先生の元へと散らばっていく。

 プロのダンサーでもあり振付師でもある杏子先生にはオーディションのダンス審査のときからお世話になっていて、透子たちの楽曲全ての振付けやライブの演出を手掛けてくれている。他にもいくつかのグループとも仕事をしていて、今や日本だけでなく世界的に活動しているグループの振付けを担当していることで有名だ。透子はそのグループの大ファンだったので今でも先生を前にすると緊張してしまう。

 透子は「小野」の名札を付けた先生に曲の頭から細かい動きを教えてもらう。こういうとき、透子はいきなりカウントに合わせたり、ステップから先に覚えていったりみたいな器用なことはできない。最初に一つ一つの動きを順番通り体に覚え込ませて、それから音とリズムに合わせられるようにしてから、ダンスに見えるように加工していく。今年でもう三年目だけど一向にダンスの技術が上がる気配がない。だから振り入れのときはいつも本当に大変だ。

 それを知ってかゆっくりと丁寧にわかるまで何度も振りをやって見せてくれる透子のポジションに入ってくれた先生は、さっき踊ってくれた先生の中で一番上手だった。それくらいは三年もやってきたからなんとなくわかるようになった。

「おはようございまーす」

「…………」

 各々が個人練習をしているなかを元気に挨拶する声と、その後ろを着いて行く無言がスタジオに入って来た。別の仕事で遅れていたメンバーが到着したみたいだ。二人とも雑誌の撮影終わりだから顔には派手めなメイクが施されている。

 元気よく挨拶をしたマリーこと榛名万李歌は透子と目が合うとニヤリと笑いかけてきたので、透子は小さく手を振って応えた。いつもと違うメイクだからか全然アイドルっぽく見えない。その後ろを影のように付いて行く山田花、通称アイリーンは化粧で人間っぽさを極限までなくそうとしたみたいな顔をしていた。でも元々「お人形さんみたい」と日常的に言われているアイリーンにはよく似合っていた。

 透子を含めて、今日ここでダンスのレッスンを受けているのはアイドルグループに所属する女の子たちだ。下は中学生、上は二〇歳過ぎまでの女子が集まっていた。

「お疲れ様。じゃあ早速ストレッチして。他のみんなはとりあえずできたところまでで一回合わせてみよっか」

 杏子先生の声を聞いて散らばっていたメンバーがスタジオのちょうど真ん中に居た透子を基準にぞろぞろと集まってくる。それぞれが与えられた自分のポジションにつくとカウントのアタックが始まるのを静かに待つ。

 鏡の上に掛けられた時計を見ると午後七時過ぎ、レッスンが始まってから二時間が経過していた。三年前にダンスを始めたときは一曲の振りを通してできるようになるまで何日もかかっていたけれど、その時間はどんどん短くなっていって今では一曲あたりの振り入れの時間は数時間程度しかない。逆に言えばそれだけの時間しかとれなくなってしまった。今練習している新曲も今日中にある程度形にしなければならない。

 スタジオの隅っこで開脚をしているマリーに乗っかかるようにしてアイリーンが背中を押している。マリーの両足はほぼ一八〇度に広げられ胸はぺたんと床にくっついているのでアイリーンがその軽そうな体重をかけても何の負荷もかかっていなさそうだ。

 カッカッ。

 カウントのアタック音が始まった。三つ目のアタック音が鳴ると音楽が鳴り出してみんなはそれぞれに覚えた振りを踊りだす。イントロに合わせて透子の前で折り重なっていたメンバーが左右に広がっていくと鏡に透子の姿が映し出された。左右に移動するメンバーの中で透子だけが前へと歩き出す。すると透子を頂点に綺麗な扇形の隊列が完成した。まだ体に馴染んでいない振りを頭で考えながら次の動きの命令をいちいち手足に出してなんとか音楽に食らいついていく。広いスタジオでも一八人で踊るとやっぱり狭く感じる。まだフォーメーションの移動までは完璧にできないのでポジションが変わる度にあちこちで渋滞が起きてしまっていた。透子はあまり移動がないので自分の動きに集中して一つ一つの振りをじっくりと確認していく。被る位置に誰もいないので鏡に映る自分の姿がよく見えた。誰にも邪魔されずに鏡に映し出されながら踊る透子は人間になりたてみたいにぎこちなく動いている。他のメンバーもそんな感じだけど、透子の両脇で踊る二人だけ違う生き物みたいにぬるぬると動いている。胸に「榛名」と「真中」と書かれた名札を付けた二人に挟まれると透子の不細工な踊りが際立たされた。

 不細工なのは踊りだけじゃない。すっぴんで髪もぼさぼさ、着古したダサいティーシャツによれよれのジャージだから見た目も最悪だし、はっきり言って汚い。それは透子だけじゃなく他のメンバーだって似たようなものだ。でも透子たちはメイクをして髪をセットして可愛いらしい衣装を着るとアイドルになれる。先生たちみたいには踊れるようにはならないけど、そんなこと考えないでニコニコと笑顔で踊らないといけない。

 端っこで見ていたマリーは曲が二番に差し掛かるとストレッチを中断して自分のポジションで胸に「榛名」と付けて代わりに踊ってくれている先生に合わせて小さく体を動かし始めていた。

相変わらず覚えが早くて羨ましい。次からはみんなの中に入って踊れるだろうし何回か通すうちに一番上手になっちゃうんだろうな。

 踊りながら頭の中でそんなことを考える。

 バレエ経験者のマリーが言うにはダンスには流れみたいなものがあってそれに従うとなんとなくすぐに覚えられるらしい。

 もしマリーみたいに踊れるようになったのなら、自分も小さい頃からバレエとか習いたかったと透子は思っていた。けれど、バレエなんて極々普通の毎日を送っていた幼い透子の身近には存在しなかった。よく探せば小さなバレエ教室みたいなのは近所にもあったのかもしれないけど、少なくともマリーみたいに海外のコンクールを目指すようなレベルの高い本格的なバレエ教室なんか見たことも聞いたこともなかった。

 マリーはダンスが上手いと褒められると「昔から習ってたからね。小さい頃からやってたらこれくらい普通だよ」と言って謙遜するけど、それを抜きにしたとしてもマリーには才能があると思う。この曲の前まで二人はシンメトリーのポジションになることが多かったけど今回は隣同士だ。

 マリーの反対側では「真中」と胸に付けた先生が完璧に踊っている。今日はそのポジションに本来いるべき真中彩雪はいない。透子はこのダンスを「真中」を付けた先生みたいに完璧に踊れるようになるのは想像できないし、自分が真ん中にいて彩雪が隣にいるのも全然想像できなかった。

 その後、何度か合わせてから今日のレッスンは終了した。数日後にはミュージックビデオの収録なので、ここから先はそれまでに各自で仕上げてこなければならない。

「いやいや、様になってますな」

「まだまだ。帰ったら練習しなきゃ」

 鏡越しに透子の目を見ながらマリーが変なキャラを演じて声をかけてきた。疲れていた透子はそのノリに付き合わないで普通の返しをしながらポニーテールに結った髪をほどいた。マリーも同じような髪型をしてるけど、このグループではなんとなくポニーテールはマリーのイメージがあるから透子はちょっとだけ気を遣った。

 ダンス・リハーサルが終わってスタジオの雰囲気が一気に柔らかくなってからレッスン中の空気がピリついていたことに気がついた。いつもより練習時間が取れないことや振付けが過去最高の難易度だったこともあるかもしれないけど、いわゆるプロ意識ってやつかもしれない。写真の撮り合いを始めたり、鏡に向かってまだ振りの確認をしていたりするメンバーの中で先生たちに囲まれているリンリンとメイメイのグループ最年少コンビは相変わらず「らしさ」を存分に振り撒いていて流石って感じだ。もしかしたらあの二人が一番ぷろいしきがあるのかもしれない。

「トーコ、前言ってた月末の件、スケジュール大丈夫そう?」

「はい、大丈夫です。お手数おかけしますが、よろしくお願いします」

「了解了解。それにしてもあなたは相変わらず堅苦しいね」

 マリーと実のないことを喋っていると杏子先生から声をかけられてレッスン中と同じように緊張して体が自動的に防御姿勢を取ろうとしてしまった。

 この仕事をするようになって大人の人と接する機会が増えたけど、いつまで経っても上手く対応できない。ずいぶん年下のリンリンメイメイの方がよっぽどきちんとしている。

 大人は信用できない、なんて言うには透子自身が年を取りすぎていたけど、年齢の概念が希薄な世界で毎日過ごしているからか、そんな陳腐な考え方がまだ抜けてなかった。

 人は変わるとか大人になったらわかるとか言うけど、どのタイミングでそんな風になるのかわからなかった。他の人は何のきっかけで考え方が変わったりしたのだろう。

 先生たちに今日の総評をもらってからみんなで挨拶して、この後着替えてから送迎の車に乗り込んだら今日一日の仕事が終わる。

「ねー、トーコ写真撮ろっ」

 画像加工アプリがすでに起動しているスマホ片手に今宵が近づいてきた。スマホを持つ手を高く上げて、反対の手ですっぴんの顔を半分以上隠してポーズを決めている。たまたま立っているこの場所は光の加減もばっちりのようだ。透子も真似して手のひらを顔に当てて何枚か写真を撮った。

「はい、可愛い。これブログに載せていい?」

「いいよ。なんでもいいよ」

 今宵が撮れた写真を見せてくれようとするのを適当にあしらって更衣室へ向かう。おそらく今日中にアップされる今宵のブログにでも使ってくれるのだろう。今宵はメンバー一筆まめで一日に絶対に一つ、多い時には複数のブログを更新している。他にもSNSや登録制の有料メールサービスも頻繁に更新していた。

 そんなところをファンの人から支持されて今もこうして新曲の歌唱メンバーに選ばれているし、ポジションもどんどん上がってきていた。

 いち早く着替え終わった透子は外に出てバスの前まで来た。送迎のバスではそれぞれがなんとなく決まった座席に座る。透子は真ん中くらいの列でいつも隣にはマリーが座った。今はまだみんな着替えている最中だからバスの前には透子一人しかいない。透子はこのまま外に突っ立っているのも変だから誰もいない暗いバスの中に乗り込んだ。

 なんとなく、いつも座る席を通り越して一番後ろの席まで進んでシートに浅く腰掛けてみた。冷たいシートの座り心地は他の席と何にも変わらなかった。

 しばらくその席に座っていると地下駐車場のコンクリートに楽しそうな高い声が反響するのが聞こえ、透子はすぐに決められているわけではない自分の席に戻る。シートに少しだけ残っている透子のぬくもりは、すぐに冷えてしまうだろう。


「お疲れ様でした」

「でしたー」

 マリーは癖で語尾に長音符をつけるのでその分声が長く残った。まだバスに残る何人かのメンバーはバイバイと手を振ってくれたり寝てしまっていたりしていた。

「お腹空いたー」

 バスが走り出す前に歩き始めていたマリーに追いつくために数歩だけ駆け足になる。少し走ると大気中の冷気がむき出しの顔にぶつかってそこから体温をどんどん奪っていくみたいだった。

「明日朝から雪降るかもらしいよー」

「うぇ、私外ロケだよ」

「まじでー?」

「そう。しかも、海」

 やばいじゃん、と言ってマリーが笑うとマスク越しでも白い息が漏れた。ゆらゆらと舞い上がったそれはすぐに消えてしまった。マリーから出た白いもやもやが目指していた先を見上げると真っ黒な空があって星は見えなかった。

 高校を卒業してからしばらくして事務所が用意してくれた賃貸マンションに同い年のマリーと一緒のタイミングで引っ越した。マンションは大通りから細い道を少し入ったところにあるのでバスで送ってもらったときは少し歩かないといけない。街灯に照らされながら人通りの少ない帰り道をマリーとくだらない話をしながら帰るのは密かな楽しみでもあった。マリーはどれだけしんどい仕事の後でも疲れたって感じを前面に出してこないから気楽だった。

「そういや帰り一緒なの久しぶりだねー」

「だっけ? でもこれからプロモーション期間だから多くなるんじゃない?」

「かな? でもいきなり明日別だけどねー」

 前髪とマスクの間から覗くマリーの大きな瞳が細まると跳ね上げられた目尻が下がった。

いつからかマリーは毎日マスクをつけるようになった。「一応ね」なんて言いながらマリーはごまかしていたけど本当はマネージャーからつけろと指示されていた。そんなことを言われていたのはマリーと、あとは彩雪くらいだった。

 家のすぐ近くの路地に入ると今日習った新しい振付けを二人でふざけて踊った。頭の部分の透子がみんなの間から歩いて出てくるところをマリーは気に入ったらしく、その部分をしつこいくらいに再現させられた。もっと表情作ってと注文を付けられて何度も繰り返していくうちに最終的には下顎を突き出した変な顔でやらされるというところまでエスカレートしてしまった頃にはマンションの下までたどり着いていた。

 行き過ぎた悪ノリにエレベーターの中で二人してお腹を抱えて笑っているとマリーの部屋があるフロアに着いて扉が開いた。

「くっくっく……、あーお腹痛い。じゃあおやすみー」

 まだまだ笑い足りなくてマリーが降りて行っても閉まるボタンを押せないでいると、マスクを顎のところまで下ろしてぷっくりとした色っぽい唇を大きく横に広げて笑っていたマリーが顔だけ透子の方を振り返って言う。

「じゃあ明日がんばってねー」

 それだけ言い残してまた正面を向き直って歩き出した。マリーが一歩進む度にポニーテールがぽんぽんと揺れていた。透子はゆっくりと遠くなっていくマリーの背中を見ながら閉まるボタンを連打した。意地悪な扉がわざと焦らすみたいにゆっくりと閉じてエレベーターは一つ上の階をのろのろと目指しだした。

 透子は自分の降りる階に着くと扉が開ききる前に飛び出す。まだ十分な隙間が空いていなかったので半開きの扉に肩がぶつかってしまい鈍い音がした。

 早く帰らなきゃ。

 透子は突き当たりにある五○五号室を目指して廊下を走った。着替えや仕事の書類を入れたバックパックが足を上げるたびに背中で大きく跳ねた。

 部屋に戻って今日覚えた振りをすぐにでも体に染み込ませたかった。先にエレベーターを降りていったマリーよりも早く自分の部屋に戻りたかった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ