pescador ― 漁師 ―
彼女の言葉に反して、私は出て行かなかった。
時代の流れから置き去りにされたその寒村で、面白いことを一つ見つけたからだ。
腕時計の電子音で、夜明け前に目を覚ます。洗面所の蛇口を捻って顔と口を濯ぎ、そのまま喉も潤して灯台を後にする。
月明かりを頼りに丘を昇り切り、墓地と教会の前を素通り。広場を中心に肩を寄せ合う民家を傍目に、灯台の反対側に位置する船着き場まで一息に降りていく。
灯台守の弟は、この村で漁師をしている。
世も明け切らぬ船着き場。漁船を係留する金属柱の側に、煙草の灯りがポツリと浮かんでいる。彼はよくこんな小船で……と思うような漁船を器用に操り、リアス式海岸の間隙を縫って内海を離れる。
私は魅せられた。最初はその操船技術に、次に見慣れない投網技術に。
それはこの地方に独特のものらしく、中世から変わらず続けられてきた伝統的な漁法らしい。水平線を染める朝焼けを背景に、小柄な身体に不似合いな大網を一投で海面へ打ち広げる。
ただそれだけのことなのに、やってみるとこれが上手くいかない。意地になって通う内に、いつしかそれが私の日課となっていた。今朝も投げ網を相手に試行錯誤するうちに、水平線が飴色に染まる。
船体に備え付けられた生け簀がその日の獲物で満ちる頃、ようやく船上での朝食となる。持参した林檎とパンを、ナイフで削って黙々と口に運ぶ。保温ポットから珈琲をカップに注いで、黒い液体の温もりを体内に取り込む。
「中国の山岳部には、背の高い民族が住むと聞いたことがある」
「……え?」
「お前はそこ出身なんだろうと、村のみんなが言っている」
「そんな話、聞いたこともないよ」
苦笑を浮かべる私に「そうか」とだけ告げると、漁師はエンジンを始動させ、小舟を器用に操って船着き場へ帰り着く。
私には見えない海面下の細道が、この老人には見えているらしい。
――――――
船着き場の金属柱に私が船を係留し終えると、投網に視線を落としたまま漁師が口を開いた。
「まだ重心が高い。もっと低く構えろ。それから、腕は使うな。網は腰で打つもんだ」
いつも通り、生け簀から数匹の魚を受け取って、灯台守の家へと戻る。漁師に家族はいない。生け簀の残りの魚逹は、村の朝市に並ぶ。
途中、丘の頂で煙草を取り出して、一服する。
先客に珈琲を勧めてみるが、冷めているからと一蹴された。
「中国の山岳部って、背の高い民族がいるのかな」
「それ、何の話? 貴方の方が詳しいんじゃないの、隣の国なんだから」
「その民族出身だろうって言われたよ。長身だからって」
「みんな、アジア系の人が珍しいのよ。こんな村、観光客も通らないから」
「君は?」
「私は州都の病院で働いてたことがあるから」
今朝はいつも以上に風が鳴いている。カモメ逹も気流に乗って遊んだりせずに、真剣に海面を睨んでいた。明日は漁に出られないかも知れない。
「ねぇ、これを祖父に渡して」
「自分で渡せば良い」
「これでも色々と難しいのよ」
新聞紙を乱雑に折り畳んだ包みを受け取る。軽い。中身はいつも通り、灯台守の老人の常備薬だろう。
「そろそろ行くことにするよ」
「……え?」
「長く留まり過ぎた」
「そう。いつ?」
「あのスープをもう一度飲ませてくれたら」
「……卑怯者」
言い捨てた勢いで立ち上がると、ガブリエラは石段を使わずに斜面の細道を降っていく。墓地へと向かうのだろう。 それが彼女の日課だった。
海へと振り返った私の目の前に、カモメが一羽浮いていた。上昇気流を両翼に受けて、細かく身体を震わせながら中空に留まっている。
手を伸ばせば触れられそうな……
そんな私の衝動を嘲笑うかの様に、ついと一方に身体を傾けたカモメはそのまま斜面を舐めながら灯台の先へと滑り落ちていった。