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sopa de mariscos ―ソパ デ マリスコス ―

 枕元のテーブルでキンと硬質な音が鳴った。


 私が目蓋を開くのと同時に、ガッシリとした体型の老人がこちらを振り向く。皺だらけの相貌の中から、海色の視線が私を冷たく見下ろしている。既に日は高く、白く塗り込められた室内の壁が、窓から差し込む光に眩しい。



 ベッドの上に肘をついて上体を起こそうとして、また咳き込んだ。咳の合間に辛うじて空気を取り込むと、今度は喉に絡んだ胆がぜろぜろと邪魔をする。だが、先日までの止めどなく押し寄せる発作は、もうなかった。


 私が咳を収めるのを待って、老人のしわがれた声が掛けられる。



「食べろ」



 見上げると、銀色の髭に埋もれた顎でベッドサイドのテーブルを示された。そこには琺瑯のスープ皿が一つ、ぽつんと置かれている。所々、塗装が禿げて錆びの浮かんだ白い容器。それを満たすのは、血液を連想させる濃赤の液体。



「……赤い」


「トマトだ。お前の国にはないのか、chinoチーノ



 何日振りの食事なのだろう。自分でも食欲があるのかすら判断がつかなかったが、スープから立ち上る酸味を伴った湯気が鼻腔をくすぐると、途端に唾液が口内に満ちた。

 赤く染まったスープの表面に、オリーブオイルが斑紋を描き、細かく刻まれたバジルが浮いている。


 皿の横にガチリと置かれた銀色のスプーンを手に取るが、意外に重みがあって扱いにくい。重心がどこにあるのか探りながら慎重にスープの中へとそれを差し入れる。

 小振りだが肉厚な海老、続いて貝殻付きの二枚貝が姿を現した。日本のアサリに似た形をしている。



「これは、何という食べ物ですか」


「妙な事を訊くな。それは ソパ デ マリスコス(魚介類のスープ)。見たままだろうが」


「……いただきます」



 いったんスプーンを置いて手を合わせ、軽く頭を下げる。老人の視線を感じながら、銀色のスプーンに再び手を伸ばした。



――――――



 まずはスープの表面を一掬い。


 見た目の赤さに反して、トマトの酸味はそれほど感じられなかった。よく煮込まれているのだろう。散らされたバジルが爽やかに香り、オリーブオイルが舌上を滑らかに潤すのに続いて、魚介類の磯の風味が一気に口内を満たした。


 港町に育った自分の臓腑に、海の生き物が馴染む。


 慣れ親しんだ海の死肉の煮汁。喉と胃の粘膜が一気に歓喜して、覚醒する。


 堪らず、二口、三口と口許に運んだ。スプーンに撹拌されて、皿の底に沈んでいたパスタが表面に顔を出す。見たことのない奇妙な形に捻り上げられたそれを、貝の身とともに啜り込む。厚みのあるパスタと貝の身の弾力を奥歯で噛みしめると、再びスープが口内に満ちた。



 それはもはや、馬鹿げた美味さだった。どうにも止まらない。


 貝殻に張り付いた柔肉をスプーンで刮ぎ取り、海老の頭部に唇を当てて中身を吸い出す。私が一心不乱に赤い液体を啜り、そこに浮かぶ魚介の死肉を貪る間、老人は室内の木製の椅子に腰掛けて、ただ静かに窓から海面へと視線を向けていた。



「あの…… これ、まだありますか」


「いまはその一皿だけにしておけ。看護師がそう言っている」


「……そうですか」



 ずっと仏頂面だった老人の口許が、不意に緩んだ。その微笑の意味がわからずに戸惑う私。だが、数瞬の後にはまた唇を真一文字に引き結ぶと、貝と海老の殻しか残っていない皿を片付け始めた。



「換気しておく。しばらく経ったら窓を閉めろ」



 もう用は済んだとばかりに、扉の向こうへ消える老人の背中。波音だけの静寂が戻ってきた室内で、私はさっきの風味の残滓を名残惜しく求め、いつまでも回想していた。

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