tos ferina ― 百日咳 ―
大粒の雨が鎧戸を叩き、その振動が頭蓋に響く。脳漿に雨滴を直接振りかけられているかの様な不快感。
外は嵐なのか。鎧戸のどこかが壊れているのだろう。隙間風が吹き込んで、窓枠がカタカタと神経質に揺れている。
いまは夜なのか、昼なのか。目蓋を開こうとして、不意に咳き込んだ。これまでの記憶にない匂いが鼻腔に満ちる。香ばしさを伴った不穏な甘さ。子供用のベッドでさらに背中を丸め、ただ発作が過ぎてくれるのを為す術もなく耐え忍ぶ。
そういえば、さっき目を覚ました時も同じ様に耐えている内に意識を失った。そのことに思い当たり、不意に絶望感に襲われる。あれからどれくらい眠れたのだろうか。数時間、あるいは、ほんの数分のことなのかも知れない。
もう何十回も同じことを繰り返している気がする。いつか体力が尽きて、目覚めなくなるのではないか。惰性のままに旅を続けてきたが、これは初めて対峙する恐怖だった。脊椎にジワリと爪を立てながら、何かが這い上がってくる感覚。
四方を石壁に囲まれた異国の馴染みない空間。ベッドの中にいても床下から絶えず冷気が立ち上ってくる。ここが終着点なのか。せめてのもの救いは、波音が聞こえること。幼少時の記憶、その背景にはいつも波音が流れていた。
意識は曖昧だったが、自分がいまどこにいるのかは辛うじて思い出すことができる。耳を澄ますまでもない。海がすぐそこまで迫っている。ここで意識を手放せば、波に運ばれていつかは故郷の海までたどり着けるのかも知れない……
そう思と、微かな安らぎが心の奥底に生まれた気がした。堅くてカビ臭い毛布に身を包み、寄せては返す波の気配だけを胸に満たすことにした。
――――――
くぐもった声が、耳元で聞こえた。
汚い言葉だ。誰かが毒づいている。
目脂がこびりついた目蓋を、恐る恐る開く。マスクをした女が私を見下ろしていた。細かく波打つ黒髪を無造作に後ろで一つに束ね、こちらの様子を伺っている。鳶色の瞳だけが彼女の表情だった。
「……目が覚めたみたいね」
底冷えのするこの部屋の空気と同じ様に、冷ややかな口調だった。スペイン語。スッと立ち上がると顎を上に向けて、何かをじっと見つめている。彼女の視線を辿ると、透明な点滴バッグが見えた。それに手を伸ばして、何かを調整している。
「巡回医がね、診察してくれたのよ。それ、たぶん、tos ferina(百日咳)だろうって」
「……tos feri…na?」
「急性の呼吸器感染症よ。罹患者は発展途上国の子供がほとんど。成人が罹患するケースは珍しい。栄養状態が余程良くなかったんだろうって。日本人ってお金持ちじゃなかったの?」
静かに話す彼女の言葉には、明らかに私を皮肉る調子があった。それがいかなる感情によるものなのか判断がつかず、沈黙を返す。そもそも声を発することが酷く億劫だった。
「貴方は幸運だったわ。いえ、不運なのかしらね」
カチャカチャと何かが触れ合う音。彼女が持ってきた器具を片付けているらしい。そちらに視線を向けようとしたオレの前に、白い物体が突きつけられた。小振りな琺瑯容器。初めて見る形状だったが、病人用の水差しだとわかる。
口を開くと、腔内に少しずつ水が注がれた。
何日振りに口にするのかもわからないそれは、硬く冷え切った感触だった。
「何を考えていたのか知らないけど」
「……」
「貴方が死に損なったのは事実よ」
不意に突きつけられる強い眼差しに怯んで、思わず視線を外してしまった。
横顔に刺さる視線を感じること数秒。
石の床に硬い足音を残しながら、彼女はさっさと部屋を出て行った。