vieja ― 老婆 ―
ここで、私がたどり着いたこの「ガリシア地方」について、少し説明をしておきたい。
日本でスペインというと「光と陰、情熱の国、乾いた大地、闘牛、フラメンコ、パエーリャ」といったステレオタイプなキーワードで語られることが多い。
しかし、これらは主に南部の文化に端を発する要素であり、このガリシア地方は趣を大きく異にする。
地理的にはスペインの北西部に位置する。南はポルトガルとの国境、東はアストゥリアス州とカスティーリャ・イ・レオン州との州境にそれぞれ接していて、北と西はひたすら長大な海岸線が続く。大西洋とカンタブリア海を望むリアス式海岸だ。
気候は意外にも一年を通じて穏やかで、降雨量も豊富。鉄道の車窓から見える針葉樹林の山深い景色は、植相の違いにさえ目を瞑れば、日本の山間部のそれと見間違える程の濃緑色。スペイン中南部の荒野に疲れた眼を潤してくれる。
そして、最後に。
州都であり、聖地巡礼の終着点でもあるサンティアゴ・デ・コンポステーラは観光地としてそれなりの賑わいを見せ、他にもいくつか中規模都市があるにはあるが。
端的に言うと、やはりヨーロッパ最西の辺境の地。小さな町や村に足を踏み入れると、もはや僻地、秘境といった感がある。
建築、生活様式、住民達の服装。
自分がまるで中世ヨーロッパに迷い込んだかの様な錯覚を覚える。そんな場所だった。
――――――
初めて訪れる街で最初に取る行動は、人によって様々だろうけど。
私はまず、宗教施設を訪れることにしている。
スペインだとカトリックが主な宗教なので、教会や大聖堂がそれに該当する。
多くの場合、それは街の中心部に位置していて、周囲には主要な生活インフラが配置されている。文字通り、人々の生活の中心。
そこで数時間、出入りする住人達を観察しながら過ごせば、その街の雰囲気が何となくつかめるような気がする。
場合によっては、礼拝に訪れる住人、神父や修道士と言葉を交わして、街の歴史や主要施設の配置、お勧めの宿を教えてもらう。
しかし。この村の場合、歴史はともかくとして建築物の配置は一目瞭然だった。
教会、墓地、民家と船着場。それがすべて。商店街やレストラン、バルはおろか、宿泊施設もないことが一目で見て取れる。
ヒッチハイクした車に降ろされるまま、ここに辿り着いたが。
まだ日も高い。もう少し大きな街へ移動するか。
そんなことを考えながらも、私はとりあえず、教会の入り口に立った。
小ぢんまりとした教会に相応しい、木製の小さな扉。
吹きつける潮風が白い斑点状にこびりついたそれを、押したり引いたりしてみた。開かない。
神の家もシエスタ中なのか。さて……
――――――
どうしたものかと逡巡していると、背後で物音がした。
振り返ると、数件隣りの民家の玄関扉が開き、小柄な老婆が金属製のバケツを片手に立っていた。私に視線を止めて、固まっている。
「Hola.(こんにちは)」
笑顔で挨拶の言葉を掛けながら、ゆっくりと近付いていく。
老婆の表情には明らかな警戒の色が浮かんでいて、いまにも家の中へ引っ込んでしまいそうだったからだ。
数メートルの距離を挟んで、両手を広げて敵意がないことを示しながら、少し大きめの声で話し掛ける。
ここへ来る途中、何台かの都市間移動バスと擦れ違った。この村もきっと、経由地の一つだろう。次のバスは何時に来るのか、知りたかった。
だが、老婆の不明瞭な発音は聴き取りにくく、どうも要領を得ない。
それもそのはず。
彼女はこの地方特有の言語、ガリシア語を話していた。
荒っぽい言い方をすると、ガリシア語とはスペイン語とポルトガル語を6対4で混ぜ合わせた様な言葉である。
歯切れ良く言葉を言い捨てる印象のスペイン語にポルトガル語の叙情的な響きがブレンドされて、音が耳に優しく、イントネーションも詩的で美しい。
ただ、初めて耳にする者にとっては、やはり多少の慣れを要する。
この時、早々に会話を切り上げようとする老婆から、苦労の末にようやく得られた情報は
「次のバスは明後日まで来ない」
というものだった。
――――――
その後、民家の扉をいくつか叩いてみたが、住人達の反応は似たり寄ったりだった。
さて、どうしたものだろうな。
教会入口の石段に腰を下ろして、考え込む。
いや、今更、自分を偽っても仕方ない。
私は、考える振りをしている。
財布の中身はほとんど空だった。
旅の途中、レストランで皿洗いのバイトなんかをしながら食い繋いできたが。それもしばらく前から、やめた。
この村には、そんな風にして日銭を稼ぐ店もないだろう。むしろ私の行動は、都市部を徐々に離れてこういう場所を目指してきた、と言える。
無意識に、ではない。
つまり、旅の終わりが近い。
それを認識しながら、いまも他人事の様に自分を見ている。この乖離、この無責任が、躊躇いを凌駕して久しい。
バックパックを枕に身を横たえて、眼を閉じる。
冷えた石段が、あっという間に背中の体温を奪っていく。
潮風に乗せて、耳に届く波音。
生まれ育った街も、生活の基調音に波音がいつも横たわっていた。
こんな最果ての海ですら繋がっているのか、あの街に。
そう考えた途端、郷愁が思考を遮断した。
胸ポケットを探って、白地に真紅のツートンパッケージを取り出す。「Fortuna(幸運)」と言う名のスペインの紙巻煙草。
数週間前から妙な咳が止まらなくて、控えていた。だが、いままた、潮風に負けそうなライターを叱咤して残り少ない一本を燻らせる。
唇を離れる端から風にさらわれていく、白濁した吐息。
それを目で追うことすら放棄して、私は再び目蓋を降ろした。