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唯ちゃんと、シェアハウスの住人(15)

 あの初夏の日。菜園のベンチで唯さん、香子さんと俺の三人並んでお茶を飲んだあの日から、一年が過ぎた。


 無事最終選考を通過した俺は、航空会社の自社養成パイロットの試験に合格した。けれども夢だったパイロットとして空へ出る道のりは、まだまだ遠い。パイロット候補の新人は先ず一、二年ほど地上勤務をこなすことになっているからだ。早く飛行機の操縦桿を握りたいと気が急くけれども、これも修行の内と思って頑張っている。空港に到着してから旅客機に乗るまでの流れを知るのも、大事なことだ。戦力として物の数にもならない存在ながらも、本職のグラウンドスタッフに混じって日々奮闘している。何より憧れだった航空会社の職員として働けるのだ。業種は違えど見るもの聞くもの新鮮で、毎日がピカピカに充実していた。

 ただ仕事そのものは充実しているのだが―――それ以外の自分を取り巻く環境の変化には、やや戸惑っている。


 地味な容姿と人見知りな性質、なのに一たび口を開いたと思ったら歯に衣着せず物を言う言動で、学生時代の俺はその辺の女子から敬遠されがちな存在だった。

 なのに今、おかしいくらいにモテている。

 頭数を揃えると言って先輩から強制された合コンでは、女性の方から積極的に擦り寄って来る。それに地上勤務のグラウンドスタッフは、女性の園だ。仕事に真面目に取り組んでいる人が大半だが、中には強引に連絡先を渡してきたり、飲み会でグイグイアピールしてくる女性もいたりする。

 何でもパイロットと結婚するためにグラウンドスタッフになる人もいて、地上勤務の内にパイロットを落とそうと目の色を変えているらしい……と言うのは、同期の受け売りだ。

 パイロット候補として入社した同期のやつらの中には、ストイックな就活試験期間を漸く潜り抜け、本格的な訓練に入る前の今が遊び時だとそのモテ状態を謳歌する者もいるらしい。そう言うやつらを見ていると、そのギャップを素直に喜べない俺はひょっとすると融通の利かない面倒臭い奴なのかもしれない、などと思う瞬間もある。だけどやっぱり、納得が行かないのだ。


 何処から聞きつけたのか、この間俺を振った元カノから連絡があった。航空大学の受験に失敗した俺を振ったあの彼女だ。『夢を叶えたんだね、おめでとう!』とSNS経由で連絡が来たのだ。

 彼女は一体どういうつもりで、かつて捨てた男に連絡を入れて来たのだろうか?

 仲の良い同期についそう零すと「パイロットになるって聞いたから、惜しくなったんじゃない?」と、苦笑する。


「だって航空大の受験に落ちた後、振られたんでしょ? つまり青田買いしようとしたら見込み違いだったと思って、捨てられたんだよね。けど、パイロットに受かったとなりゃ一気に高給取り、専業主婦狙いの女子からしたら将来安泰だもんね」

「……」

「けど、そりゃあムシが好過ぎるよな?」


 俺と同じ、元地味メンで今モテ男になっている彼も、やや女性不信気味になっている男性の一人だ。

 彼も似たような経験をしていると言う。俺と違って元カノではないが、告白してこっぴどく振られた相手から、入社後に連絡があったそうだ。そんな掌返しにガッカリしてしまい、かつての自分は何でこんな浅はかな女に夢中になっていたのかと肩を落としたそうだ。


 あの時は、単に落ち込みから抜け出せない俺に愛想を尽かしたのだと思ってたが……彼が言うように、ただ単に将来が見えない男について行く気にはなれなかったのかもしれない。当てが外れたというヤツだ。つまり将来性の無くなった男から、将来性のある男に乗り換えただけ。そう言う見方をしていなかったが、言われればあり得ることなのだろう。

 そう言えばパイロットになりたいと言う夢を口にしてからだったな、妙に彼女が俺に関心を持って、キラキラした笑顔を俺に向けるようになったのは。あの時は自分の夢を笑わずに認めてくれて嬉しいと思っただけだったが……このタイミングで連絡してくると言うことは、やはり俺との付き合いに、打算があったと言うことなのだろう。楽しい想い出もあったのに……と、とても残念な気持ちになる。


 そう言えば元カノには性格や趣味を褒められたことは無いし、あの頃俺のファッションや生活スタイルはほとんど彼女好みに塗り替えられていた。思い出しながらそう語ると「ふむ。稼げる職業の男であれば、その他は自分好みにアレンジすれば良い、ということかな。高い物を価値がバレる前に安く買う……てか? 青田買いを考える女はある意味賢い女性なのかもしれないな」と、彼は何でもないように笑ったのだ。

 なるほど、と思いつつも、俺は当分彼のように達観できそうもないな……と溜息を吐く。


 そんな環境に疲れていた所為だろうか。パイロットの顔合わせのような飲み会で、唯さんの夫である本田さんの隣に座った時、思わずこう漏らしてしまった。


「ああ……何処かに唯さんみたいな素敵な女性(ひと)、いないっすかね?」


 隣で端正な顔でグラスを傾けるのは―――俺がかつて撃沈した航空大の試験に現役合格し、現在は新米副操縦士として旅客機のコクピットに乗り込んでいる先輩の本田さんだ。彼の奥さんである唯さん、そして彼の祖母である香子さんから、本田不動産に入所していた俺が同じ航空会社の自社養成パイロットとして採用された事を聞いていて、あちらから声をかけてくれたのだ。


 冗談みたいに、端正な美男子だ。背はパイロットとなれる上限ギリギリの百八十センチ代後半、おまけにあまり大っぴらにしていないそうだが、不動産会社の御曹司でもある。それこそパイロットになる前からモテまくって来たに違いない。

 けれどもグラウンドスタッフの女性陣が語る所によると、既婚者というのもあるが、ここまで美男子で完璧だと付け入る隙がないというか、気後れするというか、ガツガツ迫ると言うことはできずにウットリとその美しい顔に見入るか遠巻きに眺めるかしかできない女性が大半らしい。そんな所も男として格上の存在であるように思えて―――非常に羨ましい。いや、羨ましい理由は何よりも、あんな素敵な女性を妻にしているという事だが。

 俺の下らない愚痴を遮りもせずに聞いてくれる、落ち着いた佇まいも大人だ。いや、俺より六歳ほど年上なのだから、大人なのは当然なのだろうが。

 だからちょっとモテるようになったからと言って人妻に付け入ろうとか、そう言う野心を持つ余地もないのは幸いなことなのだろう。


 俺が、彼に追いつけるのは一体いつになるのだろう。

 これから俺は一、二年の地上勤務を経た後、更に二十四から三十カ月に渡る飛行訓練を受けることになる。そして漸く、初めてパイロットとして第一歩を踏み出せるのだ。ただし、これも順調に行けば、の話だが。

 道のりは長い。そして其処まで到達した時には、既にこの人はもっと上へ行っているのだろうと思うと……


「いないよ」


 グラスを口から離し、フッと目を細める。男の俺でもうっかり見惚れてしまいそうな、精悍な横顔だ。それからまるで夢を見るように、独り言のように彼はこう呟いたのだ。


「唯みたいな女性(ひと)は―――この世の何処にもいない」

「……」


 息を飲んだ俺の気配に、彼はハッと我に返る。それから照れたようにはにかんで、フォローの言葉を慌てて口にした。


「あー……つまり、その。『俺にとって』って意味だから! うん」

「ソウデスカ……」


 ガックリと肩を落とす俺を、取り成すようにこう続ける。


「いや、その。他に素敵な女性はいると思うよ、うん。俺にとっては彼女しかいないってだけで……」

「はいはい」


 俺は力なくハハハと笑って同意を示した。

 彼は知らないのだから、仕方がない。俺が彼女に恋していたという事を知っていたら、この優しそうな先輩がうっかり妻のノロケ話をするなんてあり得ないだろう。だからガックリ来ると共に、沈黙を守ってくれているであろう香子さんに感謝する。


 香子さんは―――そう、今では俺は本当に彼女の男友達(ボーイフレンド)の一人になってしまった。学生時代はそれこそご飯に連れて行って貰ったり、彼女の離れに三島君と一緒に招かれることもあった。引っ越して忙しくなった今も、偶にSNSで連絡を取り合う仲だ。かつて割とお祖母ちゃん子だった俺は、結構その遣り取りが楽しかったりする。


 唯さんは、香子さんのことを「おばあちゃん」と呼んでいる。小さい頃から家に通っていて、義祖母と言うより本当の祖母のような存在なのだそうだ。二人の関係に全くの違和感のない理由も、こうしてのちのち判明した。


 本田さんは自分の妻を―――つまり唯さんを最高に素敵な女性だと、アッサリ認めてしまった。謙遜して妻を落とすなんて隙も見せない盤石な関係に、改めて賞賛と言うか羨望と言うか、羨まし過ぎて嫉妬すると言うか……ああ、どうして唯さんの夫がこんな真っ当な人なのだろう! と叫びたくなる。

 尊敬できる先輩と言えばそれまでだが、これで普段高慢で偉そうだとか、妻の愚痴を笑い話に提供してしまうとか……何か欠点があれば、付け入ろうとする邪な考えも浮かびそうなものだが。そんな些細な欠点も全く見えないから、もう諦めるより仕方がない。


 ああ、唯さんの相手がこんな人じゃなけりゃあなぁ……!


「ホント、マジで本田さんが、羨ましいっす……」


 俺がもっと早く、本田さんより前に彼女と出会えてたら?

 いや、二人は小学生の頃から付き合っているんだったよな。だとしたら彼女が小五の時……幼稚園児の年中組の時に付き合うってことになるか? あ、あり得ねー……!


 例えば全ての前提を無かったことにしたとして。万が一、彼女が本田さんと出会わずに俺と先に出会って付き合えたとしても―――後から本田さんが登場して来たら、速攻で取られるな、きっと。


 アハハ……くそっ!

 負けた! 完全に負けてやがる!!


 グラスを持つ彼の長くて、骨ばった男らしい指に嵌っているのは彼女とお揃いのデザインのプラチナだ。

 恋愛とか結婚とかに疎すぎる俺は、結婚指輪という存在さえ知らなかった。その知識さえあれば、彼女が人妻だと最初に出会った日に気付くことが出来たのに……! シェアハウスで手袋を脱いだ彼女の指には、たぶん嵌っていた。だけど女性のアクセサリーに何の興味も無かったから……適齢期の、気になる女性の指をチェックするなんてこともしていなかったのだ。

 そう言えば指輪がどーのって話で元カノと揉めたことがあったな。何で怒っているか見当もつかなくて、そのままにしていた。いつもの我儘だ。ただ謝ればいいやって、そんなカンジで流してしまっていた。つまりあれは、結婚にまつわる話だったのだろうか。唯さんの結婚指輪について意識するようになってから、暫くしてそんな事を思い出して、それで怒っていたのかと腑に落ちた。今となってはどうでも良い話だ。彼女と結婚など、もうあり得ない話なのだし。勿論、唯さんとも―――。


 あれは今から約一年前、俺が唯さんが人妻だと気が付いたのは、あの初夏の菜園での出来事の直後のことだった。


 今ではあの時、衝動的に発してしまった告白が人違いで良かったのだと、心底ホッとしている。先輩パイロットの妻に懸想していた、だなんて知られたら仕事がやりにくくてしょうがない。確率は低いがひょっとすると……将来機長と副操縦士として、個室で何時間も隣合って座る関係になるかもしれないのだ。気まずすぎるだろう……!


 そう―――それは菜園での作業を終えた、その夜の話だ。

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[気になる点] >香子さんは―――そう、今では俺は本当に彼の男友達の一人になってしまった 香子さんは―――そう、今では俺は本当に彼女の男友達の一人になってしまった
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