唯ちゃんと、シェアハウスの住人(13)
「―――あの、これは人違いでっ……!」
ブワッと汗が噴き出した。
うっかり勢いで告白してしまい―――かと思ったら、人違いで!―――しかも、あまつさえ、その告白に頷かれてしまうなんて……!!
そこで不意に記憶が蘇る。本田さんは日除けの帽子と腕カバーを『祖母に貸して貰った』と言っていたではないか。つまりこの人はこの日除け帽の持ち主で、本田さんのお祖母ちゃん、と言うことになるのだろう。
何と言うことだ! 俺は本田さんのお祖母ちゃんに告白してしまったのか!!
俺の慌てっぷりに眉を上げた年配の女性―――おそらく本田さんのお祖母ちゃん―――は、如何にも楽しそうに口元を緩めた。
「ふふ」
「……」
これ以上何と言って良いか逡巡している俺の目の前で、ゆっくりと腕カバーを外し帽子を取る。
「分かっていますよ。ウチのユイに声を掛けたつもりだったんでしょ? この帽子も腕抜きも、私がユイに貸して上げたものですからね」
「……!……そうなんです……! いや、その! 違うんです!!」
本人に告白する前にその『お祖母ちゃん』に告白するなんて、やらかすにも程があるだろう!―――パニックになった俺は、慌てて否定の言葉を口にした。
だけどどう考えても、後の祭りだ。俺の気持ちは明らかにバレバレなのだろう。
ところで帽子を外すと、目の前の女性の印象がパッと変わった。確かに目尻に皺もあるし、かなり年上であることには違いない。少なくともこの人が本田さんのお祖母ちゃんであるならば、確実に俺の母親よりは年上な筈だ。
しかし『お祖母ちゃん』と呼ぶのは憚られるほど、洗練された女性に見える。なにより姿勢が良く、佇まいが綺麗だ。だからこそ、その立ち姿を本田さんと間違えてしまったのかもしれない。さきほど彼女を六十代から七十代などと俺は評したが、五十代と言っても差支えないように思えた。それとも、若く見えると言うことだろうか。いや、本田さんが俺と同じ二十歳だと仮定して、更に彼女の母親と祖母がそれぞれ二十歳までに子供を生んだとしたら―――そんな事もあり得るかもしれない。
「あの、貴女は本当に本田さんの……?」
お祖母ちゃんなんですか? と、率直に聞くのは憚られた。まだ五十代くらいであれば、孫でもない男にそんな風に呼ばれるのは嫌だろう、と考えたからだ。そのまま二の句を継げずに口籠っていると、彼女はフッと表情を和らげて頷いたのだった。
「申し遅れました」
彼女はスッと姿勢を正し、手を揃えて優雅にお辞儀をした。
「こちらを管理している本田不動産の、本田香子と申します。シェアハウスに入居されている方ですね。唯ともども、今後とも宜しくお願い致します」
そこで俺は、漸く気が付いたのだ。
やはり本田さんはこの不動産会社の娘さんだったんだ。そしておそらくこの人は、会社の経営者か、役員にあたる人で……。まさかそんな人が野良仕事みたいな雑務をやっていると思わないから、余計に動揺してしまう。
「あっ……はい、あの。その……ええと、本田さん……」
動揺のあまり目の前の女性を何と呼んで良いか、ますます迷って挙動不審になってしまう。完全に情報過多で処理しきれていない状態だ。すると彼女は笑顔で優しく、こう提案してくれた。
「香子です。香るに子と書いて『香子』。ちなみに唯は、唯一の『唯』と書きます」
その瞬間、そんな場合でないのに、一つ彼女の情報を手に入れたことで妙に浮かれてしまった。
へぇ、唯さん、『唯さん』かぁ……『唯一』の『唯』。
良い名前、だな……
なんてうっかり思考が横道にそれてしまったが、直ぐに意識を取り戻し、慌てて舵を切り直す。
そうだ、このままただ浮かれて終われるワケはないのだ。俺は気を引き締めて、改めて彼女に向き直った。
「こちらこそ、よろしくお願いします。ええと……香子さん」
「はい」
おそるおそる名前を呼ぶと、ニコリと彼女は応えてくれた。俺はゴクリと唾を飲み込んで本題に入る。
「あの、さっき俺がうっかり口走ったことは……本田さん―――その『唯さん』には、内緒にして貰えませんか?」
「あら」
香子さんはちょっと驚いたように、瞬きをした。
何をそんなに驚くのだろう。突然畑の真ん中で告白するようなヤツが、その告白を今更本人に秘密にしてくれと頼むことが、そんなにも意外だったのだろうか……?
するとその視線がスッと俺の背後に流れた。
ま、まさか……!
嫌な予感がして、首筋がヒヤリとする。
案の定、香子さんは手を上げ、ヒラヒラと軽やかに振った。おそらく―――俺の背後から来るであろう人物へ、と。
「おばあちゃん!」
いつもより親し気で、そして僅かに無邪気な響きが滲んでいる。きっと彼女は身内に対しては、いつもこんな風に呼びかけるのだろう、と思った。俺はまた一つ、彼女の一面を知る。
確かに、それはここ暫く俺が会いたくて会えなくて悶々としていた、ずっと待ち望んでいた―――聞きたかった、あの染み入るような柔らかい声だった。
ゆっくり振り向くと案の定、本田さん―――いや、『唯さん』が手を振りながら、こちらへ歩いて来るところだった。
万事休す!
口留めも済んでいないのに、彼女がこんなタイミングでここに現れるなんて……!!




