唯ちゃんと、シェアハウスの住人(2)
物理の講義が教授の都合で休講になったので、今日はいつもより早く帰宅することになった。
シェアハウスに戻ると、かつて公団住宅の庭だったという広い菜園の中で一人、蹲るように作業をしている、おばちゃんが目に入る。
あれが三島君が言っていた、菜園の世話をする作業員だろうか。
よく田舎の農家のおばちゃんが被っているような、顔が隠れるほどの大きなツバの付いた帽子を被っている。黒字に白い小花柄で、首を日焼けから守る為の日除けが帽子の内側から背中まで垂れ下がっていた。
既視感を感じたのは、テレビ番組を思い出したからだ。そう、ちょうどダーツが当たった田舎で『第一村人を発見!』したテレビスタッフのような気分になったのだ。
帽子の下はデニムの『つなぎ』だ。ああ、背中に白いプリントで『HONDA the real estate distribution industry』って書いてある。やっぱり本田不動産の人だ。それから白い長袖シャツに、帽子と同じ柄の腕カバー。つなぎが大きめに見えるのは、おそらくオバちゃんが小柄だからだろう。
途端に心配になった。
まだ初夏と言うには早いのに、歩くとじっとり汗ばむくらいの気温だ。小さな背中でこの照りつける日差しの中、おばちゃんは独りで草取りをしている。仕事とは言え、大変だろう。俺は部屋に戻って荷物を置き、冷蔵庫の中から麦茶のペットボトルを取り出した。田舎で暮らしている祖母を思い出したのだ。そんなに暑くない日に庭仕事をしていて、熱中症で倒れたことがあった。
「おばちゃん、手伝うよ!」
一人黙々と草取りをしているおばちゃんに、麦茶を差し出しながら俺は声を掛けた。
「それと水分補給! 忘れないでよ。俺のばーちゃんもこんな日に倒れ、て……」
おばちゃんが、振り返って俺を見た。
「ありがとうございます!」
「……」
俺は絶句した。
おばちゃんが、『おばちゃん』では無かったからだ!
立ち上がってこちらを向いた彼女の顔は、平均より少し高いくらいの身長の俺より頭一つ分下にある。予想通り、小柄だった。
だけど黒い花柄の帽子のつばの下に隠れていたのは、おばちゃんと呼べるはずもない、俺より年下に見えるくらい、若くて可愛らしい女の子だったのだ……!!
「っ……! ゴメン! おばちゃんとか言って……!!」
「あはは」
慌てて赤くなったり蒼くなったりする俺に向かって、女の子は笑って首を振った。それから居住まいを正すと、俺にまっすぐ向き合った。
「今度こちらの管理を担当させていただくことになった、本田です。ご挨拶が遅れてすみません」
ペコリと頭を下げて、本田さんはニッコリと微笑んだ。
その物怖じしない態度に、あれ? と思う。見た目は可愛らしい年下の女の子に見えるけれども、そうじゃないかもしれない。
いや、年が上か下かという問題じゃないか。何というか、しっかりとしている。学生の俺とは違う『社会人』って感じだった。そもそも『本田』って言うのだから、経営者の娘さんかもしれない。なら若いうちから家の手伝いをしていても、おかしくないし……やはり、しっかりした性格の年下の女の人、という可能性もある。
「いえ、こちらこそスミマセン。失礼なことを……」
「ふふ、大丈夫です! この帽子と腕カバー、祖母から貸して貰ったものなんですよ」
つまり、俺がその恰好を見て間違えるのは仕方がない、と言ってくれているのだろう。そのさり気ない気配りに、胸が温かくなった。俺を責めるのでもなく、かといって自分を下げるのでもない。
「あ、飲み物は持参しているので大丈夫です」
「そ、そうですか」
断られてしまった! すると右手に握ったままのペットボトルが、やけに居心地悪そうに見える。年の離れたおばちゃんになら気軽に渡せる筈の飲み物も、若い女の子に対して渡すとなれば意味合いが変わって来るような気がして、途端に恥ずかしくなった。
下心なんか、微塵も無かったのに。
でもこれが、三島君なら。……きっと断られても、スマートに受け取らせるような台詞を口に出来たのだろうな、と思う。そう考えてちょっと、苦い気持ちになった。
ところが俺の気まずさを察したように―――彼女はおずおずと、こう言ってくれたのだ。
「じゃあ有難く……作業の方を手伝っていただいても、良いですか?」
包み込むような、フワリとした微笑みだった。
「あ……勿論!」
「今草取りが終わった所なので、収穫の方をお願いします。あ、ペットボトル、こちらに入れちゃって下さい」
本田さんは、足元におかれた竹で編まれた籠を手に取って俺に示した。
「あ、はい! じゃあ俺、籠持ちます!」
「有難うございます」
それから本田さんの後に付いて、彼女が手で摘んだトマトやキュウリ、シソの葉を籠で受け取った。それから彼女の指導を受けつつ、俺も幾つかピーマンと摘んでみる。
それは俺にとって、初めての体験だった。いや、小学校時代には授業の一環として収穫体験があったような気もする。だけどほとんど記憶に残っていないから新鮮だったし、正直ちょっと感動した。
摘んだ傍から、ぷーんと嗅ぎ覚えのある青臭いピーマンの香りが漂って来る。もぎたてって、こんな匂いがするんだって初めて知ったのだ。
「うわぁ、匂いが濃い……!」
「新鮮なんだって、匂いで実感しますよね?」
本田さんは小柄だ。帽子を上から見下ろしつつ、華奢な肩だなぁって感心している。なのに同時に、逞しい感じもするのは何故だろう? 菜園と言う場所の所為なのか、それとも彼女の柔らかく透き通った声から滲み出る、落ち着きの所為なのか。
そこでハッと我に返る。
いやいやいや、何を考えているんだ俺は。
いつのまにか俺を囲い込んでいた、甘い靄を振り払うように話題を変えた。
「あの、もしかして石井さんはもうこちらの担当から外れたんですか?」
「いいえ。担当は変わらないんですけど、彼は他にも物件を担当しているので、私が補佐として入ることになったんです」
本田さんはそこでクルリと振り返り、俺をジッと見あげた。
ずっと柔らかだった表情が、僅かに強張りを見せる。
その真剣な眼差しにドキリとした。ヤバい、何だか落ち着かない。逃げ出したいような、それでいてずっとここに居たいような、不思議な気分だった。
「経験は浅いので頼りなく見えるかもしれませんが、精一杯務めます。何でもおっしゃってください! あと、石井も担当しておりますので、私で対応しきれないことも相談して対応しますので」
「いえ! 別に不安とか、そう言うのじゃないですから!」
なんだ。俺の聞き方が悪かったのか、彼女を誤解させてしまったようだ。妙な気分は霧散して、慌てて俺は彼女の懸念を否定する。それから勝手に感じてしまった気まずさを隠して、俺も彼女にシッカリと向き合った。
「こちらこそ……これから、よろしくお願いします」
頭を下げると、彼女は目を丸くして―――それからフッと、安心したように笑顔を見せたのだ。
「はい! よろしくお願いします!」
まるでそこに、花が咲いたみたいな。
その瞬間……胸の奥が、ジワリと温かくなった。




