ポンちゃんと、キャビンアテンダント(7)☆
※別サイトとは内容が異なります。
本田さんに抱き着いていた栗色の髪の女性が振り向いた。
キョトンと私を見る優しそうな印象の小柄な彼女は当然、同僚のCAでは無い。後ろ姿を見た時点でそれだけは分かっていたのだけれど―――
誰?
「……誰?」
私の心の中の台詞そのままを口にする彼女は、怯えたように傍らの本田さんに身を寄せた。
えっとこれ……私の方が不審者的な扱いになっている?もしかして。
彼女の肩に優しく手を置いている本田さんと目が合った。
不安気な私の視線を受け止めてくれたのだろう、彼は彼女に私を紹介した。
「今回のフライトで一緒になったCAの豊田さんだよ」
「CA……さん?」
彼女の表情から緊張が少し抜けたように見えた。私の素性が分かったからだろう。けれどもその表情からは完全に警戒が抜けきることはない。
「CAさんが、どうしてここに……?」
それはもっともな疑問と言える。本田さんが私の存在をまるで忘れていたのだから、彼女が驚くのは当たり前だろう。彼女が不安気に本田さんを見上げると、本田さんはバツが悪そうな顔をした。何と説明したものか、と答えあぐねているようだ。
あ、そっか!
彼の答えあぐねている理由に気が付いた私は、咄嗟に口を開いた。
「あの、トイレをお借りしていたんです!」
きっと本田さんは私がお腹を壊したって言う事を説明するのを躊躇っていたのだ。しかしこの場合いらない気遣いだろう。おそらく目の前の彼女の方が彼にとっては大事な、優先するべき存在なのだろうから。本来なら彼女の疑問をまず解消することを考えるべきなのに。
同僚であるCAが彼の部屋にいて、個室に二人きりだったと言う事実……そこから導き出される疑いを晴らす方が、本田さんにとって先決なのではないか。少なくとも同じ部屋にいることすら忘れてしまうくらいの、彼にとって軽い存在の私の羞恥心を考慮するのは違うだろう。
ひょっとして本田さんって―――天然?天然なの?
「本田さんの忘れ物を届けに来て、その時急にお腹に差し込みが……切羽詰まってしまって自分の部屋に戻る余裕がなくて」
必死に言い募ると彼女は漸くホッと眉を緩め、笑みを零してくれた。
その表情にドキリとする。
わぁ、なんかこの人……可愛らしいな。
美人と言うわけじゃない。そう言う意味ではきっと、美女ぞろいのCA業界では中くらいの私の見た目の方がその言葉に近いかもしれない。己惚れじゃ無くて、客観的に。
だけど彼女の微笑みはなんだかホッコリするような温かい気持ちを起こさせる。人柄が容姿に滲み出ているってこういうことを言うのかな?全く彼女のことを知らないのに、そう感じてしまうのだ。
「豊田さん、大丈夫ですか?」
本田さんがおずおずと尋ねてくる。本当に心配してくれるのだろう、だけど女性に対して尋ね辛い話題だからと口籠っているようだ。咄嗟に嘘を吐いた手前、罪悪感がチラリと胸を掠めてしまう。
「大丈夫です。あの、助かりました。本当に切羽詰まっていたので。その……」
チラリと小柄な彼女に視線を向けると、本田さんは漸く気が付いたようだ。彼女を私に紹介してくれた。
「あ、その……妻の唯です」
やっぱり。
何となく分かっていた。二人の間の雰囲気、距離感。長く一緒にいる気の置けない間柄が伝わって来た。ひょっとして浮気相手かも?と穿った考え方が抱き合っている彼等を目撃した瞬間浮かんだのだけれど―――私を見ても本田さんは悪びれずに彼女を気遣う素振りを見せていた。それはきっと、公言できる間柄だからこそだろう、と感じたのだ。
「奥様はご旅行で?」
「あ、ええと……」
今度は奥様―――唯さんが、頬を染めて口籠る。
漂う甘酸っぱい雰囲気に、さっきまで心の中に灯っていた熾火にジュッと水を掛けられたような気がした。完全なる部外者の私が、何聞いてんだって感じよね……と自嘲気味に反省する。
「あの、今日は夫の誕生日なんです。その……サプライズでお祝いをしようと……思い至りまして。すみません、豊田さんがいらっしゃるなんて思わなくて騒いでしまって」
「いえ、謝らないでください。そもそも私がトイレをお借りしたのがイレギュラーだったのですから」
『……そして貴女の夫を寝取る場面を詳細に、そのトイレに籠って妄想していました』
心の中でひっそり、そう付け足した。
謝られてしまうと、ひたすら見ないように目を背けて来た罪悪感が目の前にズイズイと顔を寄せて来る。私はその人の好さそうな彼女の双眸から視線を外して俯く。それから本田さんを見上げてニコリと笑顔を作ってみせた。
「えーとじゃあ、私戻りますね?お邪魔でしょうから……」
「え?!いや、その……」
……否定しないのね。
うん、そうだろうと思ったけど。
本田さんのこの返答が、地味に一番私を傷つけたのだった。
部屋に戻ってベッドにポスンと腰を下ろすと、テーブルの上に置き去りにされたペンが目に入る。
何だか忘れ去られた私みたい。
「はー……ばっかみたい」
溜息を吐いて背中からベッドに勢いを付けてダイブする。
本田さんは見た目通りの誠実な旦那様だった。にわか肉食女子と化した私を鼻にも引っ掛けないような。そうだよね、最初時間があるか聞いた時も即断りを入れて来たんだから、そもそも私の稚拙な誘いに乗る様な人じゃ無いわけで……。きっともっとグイグイ来るアプローチにも食い付かないんだろうな。
彼等と話している間、机の上に広げられた資料がチラッと目に入った。真面目に勉強していた様子がうかがえる、今回のフライトに使う機体と違う機種の航空機の資料だったもの。パイロットが航空機を操縦するには、まずその飛行機の機種の試験に合格しなければならないのだ。きっと彼にとっては仕事先でCAとプライベートな交流を深めるよりずっと、自分の能力を向上させる事のほうが大事なのだろう。そうだ、そう言う真面目な所を好ましく思ったんだ……と思い出す。
そして仕事一途なパイロットに操縦して貰えるからこそ、私達は安心してお客様へのサービスに専念できるのだ。私が好きになったのは、そんな仕事一途で誠実な彼で。実際彼は想像したとおり、奥様以外の女性に余所見をしない人だった。それが分かって、彼に失望せずに済んで本来なら良かったと思わなければならない所なのだろう……だけど。
だけど本当は……
本田さんに一途に思われる相手が……私だったら良かったのに。幸せそうに寄り添う二人を見て、更に強くそう思ってしまう。
体を少し起こしテーブルの上のペンを手に取って、再びベッドに沈み込み腕を伸ばす。照明に翳したペンをじっと見つめる。なんの変哲もない、黒いペン。擦ると摩擦熱で字を消せるタイプのもの。
溜息を吐いてそれをギュッと胸に抱き込んだ。
「これも失恋……なのかなぁ?」
そう呟いて切なくなる。失恋の記念に、このペンはいただいてしまおう。
だってあの部屋を去る時も、彼から忘れ物のペンの話は出なかったから―――きっと彼にとって無くても良いものなのに違いない。そう、私みたいに。
私は彼にとって数多いる仕事相手のCAの一人。このペンみたいに無くしても買い替えがきく存在、執着する必要も無いのだ。最初からそれは変わらないのだ。
私はそっとそのペンにキスをして、瞼を閉じたのだった。
次話で最終話となります。




