「 」
世界一短いホラー小説をご存知だろうか。
フレドリック・ブラウンというSF作家がいる。星新一や筒井康隆にも影響を与えた彼は、ショート・ショートの名手でもあった。『ノック』という作品の冒頭には、たった二文から構成されたスマートなホラーが載せられており、ショート・ショートの魅力を――必要最小限の要素で、最大限の効果を発揮する美しさを読者へ教えてくれる。
研ぎ澄まされたショート・ショートは芸術作品のようでもあり、一方で、無駄の削ぎ落とされた言葉と文章は、意思伝達のツールとしての完成形のようでもある。
ここに、ホラーを愛し、ショート・ショートを崇拝する一人の男がいた。
そんな男だから、当然のようにフレドリック・ブラウンの世界最短のホラーも知っていた。機知とユーモアに富んだ作品に魅了されて、数十年。恋心にも似た憧憬は、やがて創作の意欲に昇華された。
男は考える。
もっと恐ろしく、もっと短い作品が作れるのではないか。
小説家でもない、さえないサラリーマンである男は苦悩する。悪戦苦闘の日々が始まり、時間は狂おしいまでに早く過ぎ去った。頭髪も消え去るような晩年になって、遂に満足のいく作品が完成した。身の毛もよだつような世界最高のホラーであり、無駄な言葉を完璧に削ぎ落とした世界最短のショート・ショート。
それは以下のような作品だった。
「 」
夜半に完成した作品を前にして、男は感動のあまり身体をぶるぶると震わせた。興奮のあまり一睡もできず、ぎらぎらとした獣のような雰囲気で朝を迎えた。男は早速、朝食を準備する妻へ向かって、ご自慢の作品を語って聞かせる。
「 」
瞬間、妻はあまりの恐怖に失禁し、白目をむいて倒れた。口から泡を吹き出しながら、打ち上げられた魚のように痙攣する。男は慌てて妻を介抱しながら、作品の出来栄えの良さにびっくりしていた。
大事には至らなかった妻を落ち着かせて、男は出社する。
職場で朝礼が終わった後、手を挙げて云ってみた。
「 」
いつも怒鳴りつけてくる憎い部長が、恐怖のあまり椅子から吹き飛んでガラス窓を突き破った。若い女子社員がヒステリックな金切り声をあげながら、身悶えのあまり嘔吐した。阿鼻叫喚となる職場を見て、本日は休業であると判断し、男は会社を後にする。
遺産相続の時に争った兄に電話してみた。
「 」
コンビニの前でたむろしている不良へ叫ぶ。
「 」
いずれもこれ以上ない反応が返ってきた。
男は作品の出来映えに惚れ惚れした。
そこでようやく、この作品で金儲けができないか考えはじめた。残念ながら、小説の賞に応募することはできないだろう。こんなにもすばらしい作品なのに、規定の文字数に全然足りていないのだから。
男は作品を大々的に発表する場がないことに不満を覚え始め、長年の苦労が報われないことを、これまでの自分の人生に重ねるようになった。やがてむかむかとした怒りは大きくなり、この作品で絶対に金を稼いでやる、それも今まで自分を認めなかった世間に復讐してやるのだ――などと、犯罪的な方向に感情を爆発させた。
男は自宅にこもり、一ヶ月以上をかけて周到な計画を練った。完璧な作品と完璧な計画。誰も思いつかないだろう銀行強盗のやり方だ。まず失敗する理由が見つからない。男は自信満々に銀行へ出かけると、計画の第一歩目として、窓口の女性へ声かけた。
「 」
しかし、その女性は困ったように表情を曇らせるだけで、悲鳴のひとつあげなかった。
男は驚愕した。
どういうことだ――脂汗をだらだらかいていると、待合室に置かれたテレビから昼時の漫才番組が流れてきた。タイトルコールに芸人の紹介、拍手が鳴る。そうして、男は彼らのネタを耳にした。
それは、こんな漫才だった。
「 」
「 」
男は顎が外れるまで笑い続けた。胃が痙攣を起こし、肺から空気がなくなっても笑いは止まらない。救急車で病院へ運び込まれた後、男は知ることになる。引きこもっている間の一か月で、彼の作品は口コミやネットの噂で世の中に浸透し、様々な形でオマージュされていたのだ。
著作権を訴えることもできず、男は失意の内に余生を過ごすことになった。
さて。
その後。
人類は革新した。
人間は言葉を獲得して、猿から進化を遂げた。言葉という道具を得て、人間は知性を持つに至った。男の作品は、さながら太古に人類が得た言葉と同種のものである。それはまるで神様のギフト、停滞していた種としての進化を爆発的に推し進めることになったのだ。
言葉は役割を失い、言語は消失した。
人類から言葉の壁はなくなり、人々が意思と意思でつながる時代が到来した。
感情はダイレクトに伝わるため、誤解や差別が生まれることはない。戦争は次第に過去の歴史となり、やがて国家という枠組みすらも消失していく。スポンジに水が吸われるように、教育は大人から子供へ、知識を直接的に伝授するものとなった。科学は加速度的に発展し、またたく間に宇宙世紀、新たなるフロンティア時代が幕開けた。
そして、現在。
どこか遥か遠い星系で、子供が本の形に模されたデータベースに意識をリンクさせている。低重力の部屋でふわふわと浮きながら、少年の夢もまた、心の中で舞っている。統一教育使節団の授業だけでは得られない知識を学び、やがてさらなるフロンティアを開拓するスペースシップ乗りになることを夢見て。
少年が学ぶ膨大な地球史の片隅には、火や言語の獲得が進化の一ページとして記されていた。そしてまた、日本という島国から始まった人類の革新についても――。
宇宙世紀の幕開けにつながる偉大なる功績。ただし、その功労者については今もまだ謎のままであり、データベースに記録されている重要人物の名前も、ごくごく簡素な下記のようなもの――「 」、すなわち空白のままで語り継がれていく。