All part1:不思議な笑顔
担当:パパ
「龍兄、早く行こうよー」
満開の桜が並ぶ並木道に声が響く。
「そんなに大きな声で叫ばなくても聞こえるって、光。それにまだ間に合うだろう」
龍は、鳴神龍は冷静に答えた。
光は龍の言葉に、もう、とあきれながら叫んだ。
「入学式なんだから、早く行くってもんでしょ。初日からギリギリに登校してどうすんのよ」
光の言う通り、学生は登校しているようで、辺りには龍と光の二人しかいなかった。二人が話していないときは風のざわめきしか聞こえないほど静かだった。
龍は、わかったよ、と頷きながら走った。
繰り返し繰り返し迫ってきては寂しげに離れていく桜の木々。
走りながら龍は思う。きれいだ、と。
だが、一つ一つの桜を追いかけるように見ていた龍の視線の先、通り過ぎてようとしていた桜の幹の傍に、ふいに瑠璃色のセミロングの髪の少女が現れた。
「龍兄、何止まってんの、早く早く」
光はあしぶみをしており、いつでもスタートできる体勢だ。しかし、いつの間にか龍の足は止まっていた。おそらく同年代と思われるその少女が目を合わせた瞬間に微笑んだからだ。
龍は慌てて少女がいた方を指差し、
「あそこに、私服の女の子が……」
「どこにいるのよそんな子。それにこんなところに私服の女の子がいるはずないじゃない。龍兄、いくら女の子に飢えてるからってそんな、大丈夫?」
龍は光の言った後半部分は無視し、もう一度少女がいた方を見た。しかし、確かにそこには誰もいなかった。
よく考えてみれば、この並木道は学校へのみに続く一本道であり、使うのは学生か学校関係者、あとはせいぜい親か親戚くらい。花見という説も考えたが、桜を見るにしたって、ここ以上の桜など近隣にいくらでもある。わざわざこんなところでは、よほどの物好きでもない限り花見などしない。
つまり、私服の、しかも同年代の少女がそこにいることなど、まずありえなかった。
「でもさっき確かに……」
「だから……ってやば、もうこんな時間!ほら、こんなこと話してる場合じゃないって。早く行こうよ」
龍は不思議に思いながらも、怒りかけている光を無視することができず、急いで学校へと走り出した。
「光、いいかげん帰るぞ」
龍がそう言ったのは、もうこれで7回目。
「ちょっと待ってよ。あと少しで終わるんだから」
そして、光がこう答えたのももうすでに7回目だった。
さすがに龍もここまでくると、苛立ちなどというものはとうの昔に通り越して呆れに入る。だがしかし、これ以上光の暴走を許すわけにはいかなかった。
入学式が終わったのは正午少し前くらいであった。しかし、今はもう日が傾きかけていた。
光の好奇心旺盛さは、もはや異常などという枠には収まらない。
龍は中学生の入学式のとき、試しに光に何も口を挟まないとどれだけ学校を探索するのだろうかと実験してみたことがあった。結果は素晴らしくも酷い有り様で、なんと正午近くから午後9時ごろまで続いてしまった。それも、光は自分の意思ではなく、龍と学校に残っていた先生の必死の説得により、しぶしぶ言いながら漸く暴走を止めたのだ。
このとき龍は、呆れさえも通り過ぎて逆に感心していた。どうやったらここまで学校などという建物に、そこまでの興味を持つことができるのかと。
だが、今はそんなことに感心している余裕などなかった。
中学校のときは昼食を取ってから暴走が始まった。それに朝もきちんと食べていた。だが今日はどうだ。昼食などを食べる時間は光のせいで与えられない。朝食も食べる暇がなかった。つまり、龍は今日今現在まで何も食べていなかった。
龍は本気で思っていた。早く帰りたい、と。早く飯を食わないと空腹で倒れる、と。
龍は、もうしかたがない、こうするより他にないのだ、と心の中で思い、決心した。彼は自分の手をにゅっと前に伸ばし、目を輝かせながら学校を探索している光の襟首を掴み、ずるずると引っ張りだした。
もちろん光は抵抗した。だが、自分と先生の二人掛かりの説得でようやく帰ることを決めた光を、自分ひとりだけで説得できるなどとは考えていない。よって、龍はすべてを無視することにした。
後ろで「落ちる!落ちるって!」などと何者かが叫んでいるような気がしたが気にせず、その直後、すぐに落下音と手の解放感と痛いだのと呻く声が聞こえたような気もしたが、敢えてどちらも無視し、ずるずると引っ張っていった。
そして、龍は遂に学校を脱出することに成功した。
「別にあそこまでしなくてもよかったじゃん」
光は歩きながら頬を膨らませている。
桜の並木道には、また、と言うべきか、もう誰もいなかった。辺りには光の文句しか響いていない。
しばらく並木道を歩いていると、急に光が何かを見つけたように、あっ、と口を開き、
「ごめん、先帰ってて。たぶん、すぐ追いつくから」
そう言うと木々の中へと走っていってしまった。
「夕食は……」
と龍が口を開いたときにはもう誰もいなかった。
今日は両親の帰りも遅い。さらには飯は二人の内光しか作ることができない。
龍は絶望を感じ、一度大きく溜息をついた。
「とりあえず、帰るか」
龍はそう口にし、歩きだすために顔を上げた。
目の前に、今朝の少女が立っていた。
少女はその太陽の光に似た山吹色の澄んだ瞳で龍を見ていた。しかし、二人の目が合うと、少女の方は今朝と同じ微笑みを見せ、そしてこちらに背を向け、走り出した。
「ちょ、ちょっと待って」
龍はうろたえながら、しかし何故か、追いかけなくてはいけない、と思った。だから走りだした。以外とすばしっこく走る少女を必死で追いかけた。
気が付けばいつの間にか日は落ちていた。空では月が黄色い光を放っていた。
しばらくすると少女は龍の方を向き、立ち止まっていた。透けるような素敵な笑顔で。
「きっ君は?」
龍は、はっ、はっ、と息を切らしながら尋ねた。
少女は一度口を開いたが、そこから言葉を発する前に閉じ、一度悩むような顔をしてから再び口を開いた。
「私は三千風 水面。あなたは?」
「俺は鳴神、鳴神 龍」
俺が釣られて名乗ると、少女は、三千風水面はさらに笑みを深くした。
素敵な、しかしどこか不思議な笑みを。
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