二章-2
様子をうかがうような上目づかいをしながら丸椅子に座ったアネットを、ケヴィンはベンチに座ったまま見据えた。
「前々から思っていたのだが、君はもっと自分の身を守ることを考えたほうがいい」
「はぁ……」
アネットは気の抜けた返事をする。その態度にケヴィンのいらつきが増した。
「君はわかっていない。あいまいな態度は相手をつけ上がらせるだけだ。嫌なら嫌で、はっきり拒絶の言葉を口にしなければ、いつまで経っても相手は退いたりしないものだ」
下街の酒場に飲みに行っていることをとっくに家人に知られているのに、何故裏からこそこそと邸の中に入ることをやめられないでいるかというと、帰宅しようとするケヴィンにヘリオットがくっついてきて、アネットにちょっかいをかけるからだ。それをアネットがきっぱりとした態度で拒絶しようとしないから、ヘリオットは懲りずにアネットを誘う。
彼女はわかっているのだろうか。ヘリオットが女と見れば誰でも口説く女たらしだと。
酒場で一緒に飲むことが繰り返されるうちに、だんだんわかってきた。
ヘリオットは外見を裏切らない軟派な男だ。
下街のどこを歩いていても行き交う女に声をかけ、女から声をかけられることも多い。そして酒場から女と一緒に姿を消すこともしばしばだ。何故かそろそろお開きにしようかという頃には戻ってきているのだが。
今夜も女の化粧や香水の移り香をにおわせながら戻ってきて、邸の裏までついてきてしまった。
女を抱いたであろう直後に、別の女を口説く。
そんな不誠実な男に嫌がるそぶりもなく、それどころか気を引くかのように返事をはぐらかす。
それがどれだけ危険なことか、彼女はちっともわかってやしない。
案の定、アネットはケヴィンの気も知らず、にこにこと笑いながら答えた。
「ヘリオット様のあれは、冗談に決まってるじゃありませんか。あたしが真に受けたらヘリオット様も困られるだろうから、はぐらかしているだけです。挨拶みたいなものですから、ケヴィン様も気になさらないでくださいよ」
挨拶? あれが挨拶だと?
ヘリオットの行状を知らないから、そんな能天気なことを言っていられるのだ。
とはいえ、彼女を怖がらせるわけにも、このような不届きな話を聞かせるわけにもいかず、ケヴィンの言葉もあいまいになる。
「君が思っているほど世の男たちは紳士的ではない。もう少し警戒心を持つべきだ。君の言動が相手にどのような影響を与えるか、考えたことはあるか?」
困ったような顔をして、アネットは首をかしげる。
「えーと……まぁ、それなりに?」
アネットの返答を聞いて、ケヴィンは額を押さえた。
これは絶対にわかってない。
よくもこんなで、今まで無事に過ごせたものだ。
頭痛までしてくる。
「……だいたい、ロアルにまでここのことを教えて、もしものことがあったらどうするつもりだ?」
アネットは一瞬きょとんとし、それからけらけらと笑い出す。
「ロアル君に限ってそんなことありませんって」
「君はわかっていない」
ケヴィンはきつい口調で告げて、アネットの言葉をさえぎった。
「子供みたいに体が細くても、あれはれっきとした男だ。その気になれば、君一人くらいねじ伏せられるだけの力を持っている。そんな者と夜中に二人きりになってしまう機会をわざわざ作るなんて無防備にもほどがある」
言い切ってから、ケヴィンはふとこう思った。
……いや、彼女はどうもしないのかもしれない。
ケヴィンのときだってそうだった。酒に酔ってのこととはいえ、ケヴィンは確かにアネットをベッドに押し倒し、体に触れてキスまでした。自らの意思でそのようにしたとは言い難いが、その行為は間違いなく、ケヴィンがアネットに心配していることの前段階と言える。そのようなことをされたというのに、ケヴィンと違ってアネットには記憶がしっかりと残っているはずなのに、何故か彼女はたいした償いも求めずあっさりとケヴィンを許した。
それに、使用人頭に命じられたからといって、簡単に体を差し出そうとまでして。
そのようなことがあったせいか、ケヴィンはアネットを意識せずにはいられない。
酔って足元をふらつかせたケヴィンを支える、彼女の細い肩や小さな手、腕に感じる豊かな髪の柔らかさに、心臓が跳ねる。
しかしこれは、彼女をいとしいと思ってのことではない。
条件反射のようなものだ。一度は男女の仲になりかけた、その時のことを忘れられないがゆえの。
それに、いとしかろうと単なる欲望であろうと、彼女を己のものにするつもりはケヴィンにはない。
貴族の中には使用人に気まぐれに手を出して、あとは金などで解決して終わる者もいるが、ケヴィンはそんな無責任な行為を嫌っている。
──そのはずだったのに、いざ自らが過ちを犯した時、結局彼らと同じことをするしかなかった。恥ずかしいと心底思う。使用人はモノじゃない、人だ。主従関係はあっても、将来にかかわることを金などで安易に解決してそれで済ませていいはずがない。
けれどあのときは、それしか償う方法を考えつかなかった。
いくら身分や金を持っていても、償えないことがある。
だから彼女に対する時、ケヴィンは自分に言い聞かせていた。
彼女の未来を保証できるわけではないのだと。
このように、ケヴィンはアネットのことを思いやっているのに、当のアネットは自らのことに無頓着すぎる。
ケヴィンがどれだけ心を砕いたところで、最終的に彼女を守れるのは、彼女自身でしかありえないのに。
ここまで言ってようやくケヴィンの気持ちをわかってくれたのか、アネットは口をつぐんで黙り込んだ。
わかってくれれば、それでいい。
ほっとしてケヴィンが息をついたところに、アネットがぼそっと言った。
「それで言ったら、今の状況もかなりヤバくありません?」
は?
声も出せずにぽかんとすると、アネットは肩をすくめいたずらっぽく笑った。
「今のあたし、夜中に男の人と二人きりですよね?」
アネットの立てた人差し指が、彼女とケヴィンを交互に指し示す。ケヴィンは血が逆流する感覚を覚え、とっさに叫ぼうとした。
「わたしは……っ」
そのようなことは断じてしない──と続けようとして、ふと思い立った。
普通に言ったって、どうせ聞きやしない。ならば、いっそ。
ケヴィンはうっすらとくらい笑みを浮かべた。
「……では、わたしが今、その気になったと言ったらどうする?」
「え……」
アネットがわずかに目を見開く。
それを見て、ケヴィンは満足そうに笑みを深めた。
「今ここで、君にわたしの相手をするようにと言ったら……?」
彼女は、少しばかり怖い思いをしたほうがいい。
そう思って更に脅しをかけたつもりだったのに。
アネットはあっさりと即答した。
「だったらお相手しますよ?」
一瞬何を言われたのかわからず、ケヴィンは目をしばたたかせる。
アネットは念押しするようにゆっくりと言った。
「ですから、夜のお供にあたしをご所望でしたら、お相手しますって」
そう言ってにっこり笑うアネットに驚いて、ケヴィンは座っているベンチを大きく揺らしのけぞった。
「なっ……! 何を言ってるのか自分でわかっているのか!?」
同様に声が上ずる。
アネットは会話の内容に合わない朗らかな笑顔で言った。
「そりゃあもちろん。ケヴィン様みたいなかっこいー人の相手だったら、むしろらっきーかなって」
開いた口がふさがらないとはこのことだ。
予想外の返答に驚き。
脅しが効いていないことに腹が立ち。
女性の口からこのようなことを聞いて焦り。
いろんな感情が押し寄せてきて対処しきれず、硬直したままぐるぐる考える。
彼女を凝視したまま。
どのくらい経っただろう。
彼女の顔からいつの間にか表情が消え、じっとケヴィンを見つめ返していた。
「ケヴィン様」
「──何だ?」
つぶやくようにもらされた呼び声に、ケヴィンは平静を取り繕いながら答える。
アネットは淡々と言った。
「ここ、あたしの部屋なんです」
「──は?」
この物置きが?
細長く狭い部屋の半分に荷物が雑多に積み上げられ、どう見ても物置にしか見えない。
落ち着かなくなり腰を浮かせかけ、部屋のあちこちにちらちら視線だけ向けていると、アネットはケヴィンの脇を指差した。
「それでそのベンチ、あたしのベッドなんです」
「!!!!!」
ケヴィンは飛び上がるようにして、アネットがベッド代わりにしているベンチから立ち上がった。