二章-1
「今日もケヴィン様は外で“お食事”なんだって」
みんな、どんなお食事なのか知っていながら、お上品に“お食事”と言う。
別に隠すほどのことじゃないと思うのに、何故かそう言うように上の人から指示があって。「お貴族様のすることってたまにわかんないわ」とアネットは思う。
その日の深夜繕いものをしていると、外でブーツの底が土を蹴る人の足音が聞こえて、アネットは小さなランプと、あらかじめ用意していたコップを二つつかんで外に出た。
アネットの部屋は、邸の裏庭に面している。
月星の明かりにぼんやりと照らされた井戸の側に、人影が二つあった。そのうちの一つがアネットに近付いてくる。
「こんばんは~。アネットちゃん」
「こんばんはです。ヘリオット様」
小声であいさつをかわした。
近付いてランプをかかげれば、人好きのする柔和な顔立ちがぼんやりとだが確認できる。
ヘリオットは、甘えるような口調でアネットに言った。
「お水ちょーだい」
「はいはい。じゃあこれ持っててくださいね」
近付いてきたヘリオットにコップを二つとも渡すと、アネットはヘリオットの横をすり抜けて、井戸に桶を落として水をくみ上げる。
もうすっかりおなじみのやりとりだ。
滑車に通した縄を引いて持ち上げた桶を引き寄せて井戸の縁に置くと、隣に立ったヘリオットがそこからコップに水を汲み、もう一人にコップを押しつけた。
「ほらケヴィン」
「飲んだらさっさと帰れ」
「へいへい」
冷たい一言に、ヘリオットは軽口で答える。ケヴィンはいまいましげに片眉を上げるが、何を言うわけでもなく水を飲み始めた。
コップになみなみと汲んだ水をあおるように一気に飲み干したヘリオットは、もう一杯汲みながらアネットに声をかける。
「ねーアネットちゃん。今度ご飯一緒に食べに行こうよ。おごるよ?」
「やだなー、ヘリオット様ならお誘いできる人いっぱいいるでしょ? あたしは仕事が忙しくって、ごめんなさーい」
これもいつもの会話。
時と場合によるけど、こういう時の“ご飯”ってそれだけの意味じゃないわよね……。
何のつもりがあってこういう誘いをかけてくるのかわからないけど、もてあそばれるのも、そのつもりで出向いてからかわれるのもごめんだ。
それにヘリオット様のこれは、“社交辞令”っぽいのよね。“女とみたら誘うのが礼儀”みたいな……。
そういう相手は、仕事を楯に断るに限る。
これもまたいつも通りだけど、ヘリオットはあっさりと退いた。
二杯目もくーっと飲み干すと、アネットにコップを返す。アネットはそれを両手で受け取った。
「残念! 暇ができたら声かけてよ。じゃあこいつよろしく」
「はぁい。おやすみなさ~い」
「おやすみ~」
背を向けて軽く手を振り、ヘリオットは足取り確かに去っていく。
その姿が建物の影に見えなくなったところで振り返ると、ケヴィンはすでに戸口に向かって歩き出しているところだった。
アネットは桶に汲んだ水を近くの庭木にまくと、桶を元の場所に戻して音を立てないようにケヴィンに駆け寄る。
ふらつくケヴィンを横から支えた。
「ケヴィン様って、けっこうお酒に弱かったりしません?」
ケヴィンからの返事はない。
機嫌悪くさせちゃったかな?
男性はたいていの人が、お酒に限らず“弱い”と言われることを嫌うと聞いている。
ケヴィンを前にすると、どうもうっかりしてしまいやすい。
出会い方のせいだろうか。
一カ月と少し前、頭脳明晰、品行方正と言われてきたケヴィンの失態を、アネットは二度も目撃してしまった。そのせいか、ついつい馴れ馴れしくなってしまうのだ。
……こういう“お付き合い”が続くのも原因の一つだと思うけど。
アネットは胸の内でひとりごちる。
夜にお酒を飲んで帰ってくるのは邸の誰もが知ってるのに、何故かケヴィンはここから邸に入ろうとする。本来なら話をすることも近付くこともないはずだったのに、あの時のことがきっかけでいまだに縁が切れない。
主人の家族と使用人が親しくしてるのは、あまりよろしくない。ケヴィンの外聞もあるし、アネットもこのことばバレれば働きづらくなる。
でもそのことを強く言って、ケヴィンに近づかないようにしてもらおうというのもなかなかできない。
何だかんだ言っても、ケヴィン様とお近づきでいられて嬉しいのよね……。
出迎えて、水を汲んで、部屋を通す。そしてたまにこうして支えてあげる。
それだけのことだけど、アネットにとってひそかな楽しみの一つになっていた。
中に入ると、ケヴィンは壁に寄せて置かれたベンチにさっさと座り、コップをまたあおった。さっき飲み干した様子だったから、アネットが見ていないうちに桶からもう一杯汲んだのだろう。
左手でコップを持つケヴィンの小指に、金色の指輪がきらり光った。
貴族だと指輪だけでなく腕輪や首飾りといった、いくつもの装飾品を身に付けるものだというけど、ケヴィンがこの指輪以外に身に付けているところを見たことがない。もしかすると装飾品は嫌いなのかもしれない。それでも身に付ける指輪には、何か思い入れがあるとか。
つらつら考えていたところで、ふと思い出した。
「そういえば、ロアル君はどうしたんです?」
ロアルとは最近ケヴィンの従者になった少年だ。夜の外出が多くなったケヴィンを心配して、邸の主でありケヴィンの父であるクリフォード公爵が付けた。
ケヴィンより一つ年下で、男爵家の傍系に当たる彼は、あまり貴族らしくなく、快活で人当たりのいい少年だ。だけど従者のお勤めはこれが初めてだからか、ケヴィンに上手に仕えているとは言い難い。
ケヴィンは先程の不機嫌が続いているのか、むっすりと答えた。
「あいつは酒場で潰れて起きないから置いてきた」
「あらら」
思わず同情の声をもらしてしまう。
明け方、邸の扉を叩いて大騒ぎして、ビィチャムさんに大目玉をくらうロアルが目に浮かぶようだ。というか、見てはいないけど、何日か前にすでに大目玉をくらったと噂話で聞いている。
もうちょっとうまく立ちまわればいいのに。
空になったコップをケヴィンから受け取りながら、アネットはため息交じりに言った。
「ロアル君にも、あたしの部屋からこっそり入れるって教えてあげてくださいよ」
すると、顔を上げたケヴィンに何故かにらまれた。
「そこに座りなさい」
指し示されたのは、木でできた三本脚の丸椅子。さっきまでアネットは、そこに座って繕いものをしていた。
座るのはいいんだけど、何で説教モード?
内心首をかしげつつ、アネットはケヴィンと差し向いになるように椅子に座った。