一章-4
月明かりの下、ごみを庭にばらまいてしゃがみこむ少女は、ケヴィンが予測した通りベッドに落ちていた小袋を探していた。
記憶はあいまいだが、覚えている。
薄い色の長い長いおさげ髪。自分自身、何を思ってのことかまでは覚えていないが、指を差し入れほどこうとした。
ケヴィンが近付くと警戒して、小袋を見せてもなかなかうなずかなかった。
警戒されても仕方ないだろう。酒に酔っていたとはいえ、あのようなことをしてしまったのだから。
大事なものだろうそれをなかなか受け取ろうとしないほどの警戒ぶりに、謝罪の言葉も口にできなかった。
最低だったと思う。
世の貴族の中には使用人や領民を、彼らの意思を無視して好き放題に扱うというが、ケヴィンはそれを正しいとは思わない。彼らにだって心はある。傍若無人な態度に、傷つくことだってあるだろう。
どこでどのような生を受けたか。その違いのためだけに発生する理不尽。
シグルドも、王子という高貴な生まれでありながら、生母の出自が低いために軽んじられ、王家を守るべき近衛隊士にまでひどい扱いを受けている。
根強い階級意識と、それに振り回される人々。
シグルドを見ていて思う。理不尽な扱いを受ける者は、実力を十分に発揮することはできない。正当な評価を受けられないとあきらめれば、実力など発揮するのも確かに無駄というもので──。
「何、百面相してるんだ?」
声をかけられ、ケヴィンは我に返った。さきほどまで剣を使った模擬戦を行っていたシグルドが、正面に立ってケヴィンの顔を見上げている。
そのうしろからヘリオットが近付いてきた。
「百面相? ただ顔をしかめてただけじゃないのか?」
「違うよ。さっきからぼーっと何か思い出したり、落ち込んだり、難しいこと考えてたりしてた」
あいまいではあるが、考えていたことを言い当てられてどきっとする。
シグルドは満面の笑みを作り、ヘリオットを振り返った。
「な?」
ヘリオットは苦笑する。
「“な?”って言われても、俺にはケヴィンの顔色を読む芸当はできねーよ。てか次、おまえの番だ、ケヴィン」
そうだ。シグルドが終わったのなら、今度はケヴィンの番だ。
腰にさげていた練習用の剣を抜きながら、ケヴィンは広場の中央に出る。
ヘリオットは15歳だが、剣の腕前は他の仲間より抜きんでていて、指南を求める仲間は多い。ほとんどが下級貴族の出の者だが。
その“ほとんど”に当てはまらないのが、シグルドとケヴィンだ。
今ではすっかりヘリオットたち下級貴族の仲間とみなされ、そのおかげで上級貴族の隊士たちの執拗な嫌がらせは減った。
ラウシュリッツ王国の近衛隊への入隊基準は、上級貴族と下級貴族とで違う。
上級貴族は推薦のみによって入隊が決まるが、下級貴族は推薦だけでなく剣の腕が必要となる。
この国は200年近くに渡る戦いのない時代をへて、国を守り戦う軍人より、国王に代わって政治の一端を担う文官に重きが置かれるようになった。
そのため近衛隊士になることを望む上級貴族の子弟は減り、以前は入隊を許されなかった下級貴族の子弟の登用が始まった。
だが、この国の階級意識の壁は厚い。下級貴族登用にあたって、差別化が求められた。それが“剣の腕”だ。
近衛隊は王家を守るべき者たちの集まり。しかし、平和に慣れ特権意識から剣の腕を磨くことを忘れた近衛隊士たちは、お飾りとしての役割しか果たしていなかった。そこで差別化と同時に隊全体の剣術向上を目的とし、近衛隊に推薦された下級貴族は剣術の試験に合格することも必須と定められた。
このことに危機感を持った上級貴族の者たちが剣の腕を磨くようになったかというと、そこは思惑通りとはいかなかった。危機感だけは持った彼らは、下級貴族の隊士を虐げることで矜持を保ち、そんな上級の隊士たちを下級の隊士たちは軽蔑した。
剣の腕で登用された下級の隊士たちは、えりすぐられ集まった仲間たちの中でどんどん剣の腕を磨き、実力の差は広がる一方だった。権力をかさにきて下級の者を虐げてきた上級の者は、彼らの剣の腕に恐れを抱き次第に距離を置くようになる。
こうして近衛隊内部は分裂した。
そんな状況の中に放り込まれたシグルドは、上級の隊士たちのうさばらしの対象となった。
しかしそのシグルドが下級の者たちと親しくするようになったことで、上級の者たちは手が出しにくくなったらしい。下級の者たちと行動を共にするシグルドを、彼らが遠くからいまいましそうに見つめている姿を何度か目にしたことがある。
──奴ら、いい顔。
側にいた仲間が、彼らに聞こえない程度の声で言った。
それで理解した。上級の者たちへの嫌がらせのつもりで、シグルド、そしてケヴィンを自分たちの陣営に引き入れたのだと。
だが、彼らは試した。シグルドを気に入らなければ、仲間にするつもりはなかったのだろう。
シグルドはその試しに合格した。
だから仲間と認められ、守られている。
それにしても、何故シグルドは剣術で試され、ケヴィンは酒を飲まされたのか。
何を理由にそういうことになったのか、さっぱりわからない。
確かに、ケヴィンはシグルドより6歳も年上でありながら、シグルドのように試してもらえるような剣の腕はない。しかし試されるのならば、満身創痍になるまで立ち向かっていってもよかった。
広場の真ん中に立ったケヴィンに、ヘリオットはにやにやと笑った。
「愛しの王子様の試合を見ないで、何考えにふけってたんだか」
揶揄されてむっとする。たった今ケヴィンの顔色は読めないと言ったばかりなのに、ヘリオットは何かに気付いたらしくにっと口の端を上げる。
しゃくに障って、ケヴィンは開始の合図と同時に切りこんでいった。
「お! 今日はいつになく果敢だね!」
一つ年下だが、小憎たらしいことにヘリオットの剣の腕は本物だ。多少は策を練らないと簡単に負かされてしまう。
しかし今日は、無性に打ち込んでいきたくなった。
そうしたら面白がられて、あとに引けなくなって、……結果は散々だった。
疲れを押し隠し夕食をとっていると、共に食事を取るケヴィンの父トマスが手を止めて不思議そうにケヴィンを見た。
「どうした? いつに増して疲れている様子だが……」
「今日のケヴィンはすごかったんだ! 何度ヘリオットに負かされても攻めていって、疲れすぎて起き上がれなくなるまで頑張ったんだ!」
ケヴィンの代わりに、シグルドが無邪気に答える。
止められなかった。
自らの不名誉を誇らしげに話されて、ケヴィンは今すぐ食事を切り上げて食事室を出て行きたくなった。
トマスは目を丸くしてまじまじとケヴィンを見、それから面白がるようにくつくつと笑った。
「楽しそうにやっているようで何よりだ。昨日もわたしの留守中に隊の仲間が遊びに来ていたそうだね」
「……はい。申し訳ありません……」
「何を謝ることがある?」
トマスは本気で不思議そうな顔をする。
聞いていないのだろうか?
ケヴィンはわずかに眉をしかめる。
近衛隊士といっても、二十歳になるまでは見習いで、正規の隊士と比べ休みを取りやすい。
ヘリオットをはじめとする仲間全員が休みを取り、クリフォード公爵邸を訪れお茶の席に着いたが、貴族であるにもかかわらず彼らの作法はめちゃくちゃで、好き勝手に紅茶を淹れるわ、シグルドの紅茶に砂糖を入れて遊ぶわ、狭い部屋の中を走り回るわ、物こそ壊さなかったが邸中に響き渡るほどの大騒ぎだった。
正直、彼らと親しくなったことを後悔したほどだ。
答えられないケヴィンの代わりに、シグルドが答えた。
「すごく楽しかったって、みんな喜んでたよ。また来たいって言ってた」
それにトマスはにこにこと答える。
「そうですか。ではまた招かなくてはなりませんね。よい仲間に巡り合われたようで、よろしゅうございました、殿下」
「うん! みんな剣がすごくうまいんだ! いっぱい訓練しないとおいてかれちゃうんだ。それでね──」
楽しそうにヘリオットたちの話をするシグルドに、ケヴィンは内心ため息をついた。
彼らとどう付き合っていくべきか。
シグルドくらい幼少であれば、ケヴィンもこんなに悩まなくてすんだかもしれない。
悩んだものの解決策を見いだせずに訪れた、二度目の招待日。
ケヴィンは目をみはった。
みなソファにゆったりと座り、メイドの給仕でお茶を楽しんでいる。
何故? と聞けもしないケヴィンに、そろそろお開きにしようという頃、仲間の一人が言った。
「いやー前回は楽しかったよ! 俺らの大騒ぎを見て青くなったり焦ったりするおまえがさ!」
怒りのあまり、ケヴィンは卒倒するところだった。
その剣幕を見て、彼らはそそくさと辞去した。
玄関まで見送って戻ってきたシグルドが、心配そうにケヴィンをのぞきこんで言った。
「ケヴィンがあんまり無表情だから、みんな違う顔を見てみたいって思ったんだよ」
六歳も年下のシグルドになぐさめられてしまい、ケヴィンの気持ちはさらに落ち込む。
殿下にもわかっていたことを、わたし一人が気付いていなかったということか。
「気になさらないでください。──わたしの修業が足らなかっただけのことです」
つい八つ当たりのような言葉を口にしてしまった。悲しそうに顔を歪めるシグルドをメイドに任せ、ケヴィンは一人外へ出た。
頭を冷やそうと、夕暮れにさしかかった庭を散策する。
感情の抑制ができなかった。シグルドに当たってしまうなど、未熟にもほどがある。
ヘリオットたちに散々酒を飲まされた日から、何だかんだと失態続きだ。
彼らのからかいに気付けもしなかったし、負けるとわかっていながらヘリオットにがむしゃらに打ちかかってしまった。
あの問題も解決していない。
泥酔して、使用人に手を出してしまった。
こんなときどうすればいいか、ケヴィンにはわからない。
気付けば、裏庭に回っていた。
井戸があって、使用人が水を汲んでいる。
淡い色の長い長いおさげ髪の。
「ケヴィン様、どうかなさいましたか?」
物陰から彼女を見ていたケヴィンは、うしろから声をかけられぎくっとした。
振り向けば、そこには見知った使用人が立っていた。
「静かに」
と、声をかけ、もう一度少女を見る。
少女は使用人の声に気付かなかったのか、桶を持って近くの扉によたよたと歩いている。
そのうしろ姿を見送っていたケヴィンは、ふと思いついてつぶやくように言った。
「あの者に新しい衣服を用意してやってくれ」
忠実な使用人は、無駄なことを言わずにただ「かしこまりました」と返事した。