一章-3
アネットは朝から忙しい。
かまどに火を入れ、水を汲んできて大鍋ややかんで湯を沸かす。それから野菜を洗ったり皮をむいたりする。
そうしているうちに料理人や他の使用人たちが起き出してきて、料理がはじまり慌ただしくなる。
アネットを含めた5人の下働きの女の子はせっせと皮むき。
「皮むきまだ!?」
「はーい! 今すぐ!」
大きな声で返事して、皮をむき終わった野菜の入った桶を持っていく。
ご主人や上の使用人たちの食事用の野菜は、もう調理場に運んである。これは下の使用人たちの食事用だ。調理場も隣同士だけど分かれていて、アネットは下の使用人たち用──下用の調理場で、下用の料理人たちと一緒に野菜を切る。切り終わった野菜は湯の煮えた大鍋の中にどぼどぼと入れる。
それからアネットはふたたび皮むきに戻る。今度は上用の昼食だ。上用の料理人たちは自分たちが食事を終えたらすぐに昼食の準備にとりかかるので、今の内にむいておかなくてはならない。上の方々はじゃがいもやにんじん、玉葱などをそのままの形では食べないけど、すりつぶしてポタージュにしたり、スープを作る時に鳥ガラとかと一緒に煮込むのでたくさん必要になる。
アネットたちがせっせと野菜の皮むきをしていると、上用の調理場の向こうから声が聞こえた。
「お食事を一人分、別で用意してちょうだい」
「どなたのお食事だい?」
「ケヴィン様よ。いつの間にかお帰りになってらっしゃって、今朝は気分がすぐれないからお部屋でおとりになるって」
ご主人様の息子の名前にどきっとして、アネットの手がわずかに止まる。
たまねぎの皮をむきながら、しばらく耳をすました。
「それでケヴィン様が、今日の午後近衛隊の方たちを呼ぶそうだから、お茶の準備をしておくようにって」
「お茶の準備ってのは、菓子を作っておけってことか?」
「さあ? それでいいんじゃないかしら?」
「じゃあとっておきのを作らせてもらうかな」
「よろしくね」
話は終わったようだ。ケヴィンを誰が邸に入れたのかとか話題にならなくてほっとする。
バレて何だかんだ言われるのはめんどくさいもんね。
アネットはこっそり肩をすくめる。
「ケヴィン様っていえばさぁ」
野菜の桶を囲んで一緒に皮むきをしている女の子の一人が、ふとしゃべりだした。
「ゆうべ夜遊びに出てたってホントなんだ?」
「そーみたい。何か、近衛隊の仲間に誘われて断れなかったんだって」
他の子たちも口々に話し出す。
「何で殿下は一緒じゃなかったんだろ?」
「夜遊びってことはさ、お子様禁制のどっかへ行ったんじゃない?」
「いやー! お子様禁制ってどこよ!?」
一人が叫ぶと、料理人から叱責が飛ぶ。
「うるさいね! 黙って仕事しな!」
「はーい!」
返事はいいが、すぐさま声をひそめて話を続行する。
「ケヴィン様もやっぱり普通の男の人だったのね」
「真面目を絵に描いたような、あのストイックさがよかったんだけどなー」
「だよねー」
アネットも適当に話を合わせる。
正直、アネットもびっくりだった。あの泥酔っぷりも、そのあとのことも。
ケヴィンに真面目とかストイックであってほしいと特には思ったことはないけれど、今まで聞いていたイメージが180度ひっくり返ってしまったような気がする。
今まで遠目にしか見たことのなかったのに、急に接近してしまったせいだ。
背が高いとは知っていたけど、実際に並んでみて、本当に高かった。アネットの肩など、肘置きにしかならなかった。
見た目より重い腕。
厚い胸板。
どんなに抵抗してもびくともしなかった、力強さ。
「アネット、何赤くなってんの?」
隣の女の子に眉をひそめられ、アネットは慌てた。
「え、な、何でもないよ?」
ヤバいヤバい。ツッコミ入れられたらどうするよ、あたし。
考えを振り払い、皮むきに専念する。
朝食ができあがると、順番に食事が始まった。
食堂も上の使用人と下の使用人とに分かれていて、下の使用人は園丁や馬丁といった男の使用人から食事を始め、アネットたち女の下働きは最後になる。
食事の順番が来るころには昼の分の野菜をむき終え、食事の最中は次の仕事までの一息の時間だ。
アネットはいつもの癖でエプロンのポケットをさぐった。
「あれ? あれっ?」
「どうしたの? アネット」
ポケットをいくら探っても、あるはずのものに指が触れない。
「守り袋がない……」
「アネットの守り袋って“あれ”? すっごい汚れててほつれてて、ボロ切れみたいなヤツ」
そこまでひどくはないと思うんだけど……。
と、内心思いながら、アネットは答える。
「うん、それ。どっかで見なかった?」
見回した下働きの仲間たちは、ふるふると首を横に振った。
「見てない。てか、そんなん見付けたら即ゴミ行きだよ」
「なくしたんなら、いい加減捨てたら?」
苦笑いしながら言われて、アネットは同じような笑みを返す。
「あー……うん、そだね……」
「そーしなよ。でさ……」
さっそく次の話が始まる。
アネットも話に混ざりながら、心の片隅で失くしたもののことを考えていた。
あんなもの、持ってたってしょうがない。
そうはわかっていても、どうも捨てられない。
何てゆーか、もう習慣なんだよね。持ってないと気持ち悪いってゆーか。
スープにパンをひたして食べながら、アネットはもんもんと考える。
どこに落としたんだろう。
昨日の晩にはあったし、そもそもあれはポケットの裏に軽く縫い付けてあった。簡単に落ちるはずがない。
昨夜の行動を反芻し、思い至った。
あれだ。間違いない。
とすると、落とした場所はご主人様の息子のベッドの中。
「ちょっとアネット。あんた今度は顔色悪いよ?」
隣でご飯を食べる女の子に顔をのぞかれ、アネットは顔をひきつらせつつ取り繕った。
「う、ううん! 何でもない平気!」
ヤバい、ヤバいよ。もしそうだとしたら、何でそんなところに落ちてたんだって話になっちゃう!
──ま、腹をすえておけばいいか。
どうせバレたとしても、上の人にお叱りを受けて、女使用人のみんなにやっかみを受けるくらいのことだ。……それがコワかったりするのだけど。
ふと思い出す。
そういえばあれがアネットの物だと知っているのは、使用人たちの中でもごく一部だ。
なんだ。バレる心配もないんじゃない?
気が楽になったところで、どうやって探そうかと考えた。
アネットのような下働きは、邸内を好きに歩きまわることはできない。ご主人様方やお客様の目に触れてはならず、移動には使用人専用の階段や通路を使わなくてはならない。いわゆる“表”を歩こうものなら、格好ですぐバレる。
夜中なら何とかなるかもしれないけど、夜は部屋の主がお休みだ。昨夜はホントに特別で、今まであんなに遅くに帰ってきたことはなかった。
だからケヴィンの寝室に探しに行くのは無理。
落としたのはベッドの中。つまりはシーツの上。シーツは毎日替えるだろう。上手くすればシーツの中に紛れて洗濯室までくるかもしれない。
「……あんた、何やってんの?」
「え? えっと、その、洗濯の前にちょっとごみを払っておこうかと思って」
丸められ、ワゴンに乗って洗濯室に届いたシーツたち。いつもなら洗い場にぽんぽん置くのに、今日に限って一枚一枚広げるものだから、仲間に変な目で見られた。それでも馬鹿をよそおって全部確認。
なかった。
枚数からして、ケヴィン様のシーツも出てるはずなんだけどなぁ……。
残念に思いながら、アネットはせっけん水をかけられたシーツを踏んだ。
シーツに紛れてなかったということは、ベッドから落ちて掃除のときに捨てられたということになる。誰かが拾ったりしなければ。
……あんなもの、誰も拾わないか。
この日の午後は、調理室いっぱいに甘いにおいが広がった。
「んーいいにおい!」
「おいしそうなにおいよねー」
「一かけらでいいから恵んでくれないかしら?」
「ムリムリ。どーせ余ったお菓子は、上の使用人がきれーさっぱり食べちゃうわよ」
主人たちが食べ残したものは、使用人が食べてもいいことになっている。でもおいしいものほど上の使用人たちに食べられてしまい、下の使用人であるアネット達の口に入ることはない。
それにしても、甘いにおいは久しぶりだった。
この邸に住む人々は、甘いお菓子を好まない。それでも主人であるクリフォード公爵と子息のケヴィンの二人だった頃は、夕食後のデザートが作られていた。でも7年ほど前、甘いものを苦手とするシグルド王子がこの邸に引き取られてから、お菓子の類は一切作られなくなった。
久しぶりのにおいをかぎ、下働きの仲間たちとはしゃいだ声を上げていたアネットだったが、頭の片隅でずっと守り袋の行く先の心当たりを考えていた。
邸に住む人々が寝静まった夜更け、アネットはごみかごを外に引きずり出して地面の開けたところにぶちまけた。
明日の朝にはかまどにくべられて燃やされてしまうごみ。探すなら今晩しかない。
満月に近い夜でよかった。おかげでランプがなくとも何とか見える。
目を凝らし、ごみを一つひとつあたっていく。
正直、何でこんなことまでするのかと、アネット自身も思わないでもない。
それはあれよ。別になきゃないであきらめがつくんだけど、探さないでは諦めにくいってゆーか。
心の中で自分に言い訳する。
半分くらい探したところで、しゃがんだ体勢がちょっとつらくなって、休憩しようと立ち上がった。指先をスカートで払い、うーんと伸びをする。
すると視界の端に人の影が見えた。ぎくっとしてそろそろ振り返る。
アネットが気付いたからか、その人物は影から月明かりの中に出てきた。
んげっ! ケヴィン様!
アネットは顔をひきつらせる。
何でまたここに……今日も酔ってる? ──わけないか。本日はお父上、王子殿下とご一緒に夕食をお召し上がりになり、談話室でまったりおくつろぎになったとみんなが噂してた。
……もしかして、昨夜の相手があたしだとバレたとか?
いや、バレても困ることはないんだけどね。クビとか言われたら昨夜のことをバラすって脅せばいいだけだし。
それでも緊張に身構えていると、近付いてきていたケヴィンは腕を伸ばせば届く程度の距離で立ち止った。
アネットの瞳をまっすぐ見ながら、こぶしを持ちあげて手のひらを上にしながら開く。
「探しているのは、これか?」
手のひらの上には、汚れほつれた、小さな袋が載っていた。
アネットが探していた守り袋だ。
何でケヴィン様が持ってるの?
多分、ベッドの上でケヴィンがこれを拾ったからだ。
正解なら、昨夜の相手が自分だとバラしてしまうようなものだ。
目を上げて、様子をうかがった。
これをわざわざ見せるってことは、もしかして昨夜の相手を見付けようとしてる?
ケヴィンが何を考えているのか、表情からは読み取れない。
目の前には今日一日探し続けた守り袋。
悩んだ末、アネットはうなずいた。
さあ、どうくる?
するとケヴィンはこぶしを握り直し、ひっくり返してずいと差し出してきた。
え?
戸惑っていると、ケヴィンはアネットの手首をつかんで持ち上げ、手の中に守り袋を握らせた。そして背を向けて行ってしまう。
……ええと?
わけがわからない。
一体ケヴィンは何をしたかったんだろう。
まさかこれを返したかっただけ?
これがもっとましなものだったら理解もできた。
でも仲間ですらごみと言うこれを、お貴族様が一介の下働きに返しにくる?
……
……
……
「あ、そうだった」
守り袋が見つかったからには、足元のごみたちに用はない。
早く片付けて眠らないと、すぐに夜が明けてしまう。
アネットは返してもらったお守り袋をポケットの奥底にしっかり入れると、ぶちまけたごみを片付け始めた。