四章-7
まだ信じられない……。
昨日までは下街のボロアパートに住んでいたのに、今日は立派なお邸で、お邸の女主人手ずから淹れたお茶を目の前にしている。
「さあどうぞ、召し上がれ。朝から忙しくて疲れたでしょう?」
「は、はぁ……」
アネットは恐縮してしまい、まともな返事が返せない。
確かに疲れた。あのあと隣の部屋まで入り込んでいた近所の人たちに歓声で祝福され、引越しのあいさつをしながら夕方までにアパートを引き払い、大通りまで迎えにきていた箱馬車に乗り込み、クリフォード公爵邸ほどではないけど立派なお邸に連れてこられた。
乳母と名乗る人にエイミーを預けさせられて、公爵邸の客室と同じくらい豪勢な部屋に連れてこられて、この邸の女性使用人のみなさんに下街で着ていたエプロンやシャツや足首まであるスカートなどをはぎ取られてお風呂で全身丸洗いされて、浅黄色のきれいなドレスを着せられて、夕食の席で邸のご主人様方──アランデル侯爵夫妻と引き会わされた。
一応上級使用人になるための教育も受けてるから、食事のマナーは一通り心得てる。マナーを知らなければどんなふうにテーブルをセッティングしたらいいのかとか、どのタイミングでどういう給仕をしたらいいのかとかわからないから。でも知ってるのとやったことがあるのとでは全然違う。うろ覚えの部分もあったりするし。ケヴィンや侯爵夫妻はマナーなんて気にしなくていいと言ってくれたけど、お上品に食べている御三方を目の前にして下手な食べ方なんてできるわけがない。忘れかけていた知識を総動員しつつ、御三方を見よう見まねで、アネットは何とか大きな失態をせず食事を終えた。……小さな失態は数限りなく、初めて食べるごちそうだったのに食べた気がしなかったけど。
そのあとで再会したエイミーは、やっぱりお風呂に入れてもらったらしく、藍色の髪はつやつやでやわらかい上質な産着を着せられて気持ちいいのか、母親であるアネットにしかわからない程度だがご機嫌な様子で柵のついたベビーベッドの中で動き回っていた。エイミーのいた部屋はおもちゃやおしめなど、アネットが持ってきたもの以外にもたくさん用意されていて、侯爵夫人の乳母を務めたこともあるという年配の女性が「今日の昼ごろに連絡をいただいて慌てて用意したんですよ」と楽しげに教えてくれた。
その後しばらくケヴィンと一緒にエイミーと過ごして、そのあとまた乳母の女性にエイミーを預けて部屋を移動して……。
……。
……。
……結局昨日はアネットがケヴィンの申し入れを受けた以降ちゃんと話ができる時間が持てなくて、現在、そしてこれから自分とエイミーがどのようになるかわからないまま、ケヴィンと侯爵夫妻と朝食をとり、ケヴィンと侯爵が出掛けるのを見送ってすぐ、アネットが昨晩泊まった部屋に戻されて、何着ものドレスを着せられてそれらがサイズ直しに回されて、新しいドレスも作るからと言われて採寸もされた。
今ごろ別室で、たくさんのドレスを持ってきた商人が連れてきたお針子と、この邸の使用人たちが、ドレスの縫いなおしをしていることだろう。本来ならそちらに加わる立場にあった自分のためにせっせと針を動かしてくれているかと思うと、何やら不思議な気がして実感があまりわかない。
それに不安も募る。昨日の夕方エイミーを乳母に預けたあと、夕食後と今日の朝食前のわずかな時間に会ったきり。離乳食を食べられるから食事の心配はないが、こうしてめったに会えなかったり、ある日突然引き離されてしまいやしないかと怖れを抱いている。
お茶に手をつけるのをためらいながら、アネットはおずおずと尋ねた。
「あの……エイミーはどうしてますでしょうか?」
「そうね。──呼んできてちょうだい」
侯爵夫人──イリーナが使用人に声をかけて呼びに行かせると、あまり時間を置かず乳母に抱っこされたエイミーがやってくる。
朝食前以来の再会だ。こんなに頻繁に、しかも長時間エイミーと離れていたことがなかったので、エイミーの姿を見てひどくほっとする。アネットが席を立って両手を広げて出迎えると、エイミーは乳母の腕の中からアネットに向かって手を伸ばした。乳母から抱き取ると、エイミーはアネットの肩に短くて細い腕を回し、離されまいとするかのようにぎっちりとしがみつく。それを見た乳母がにこやかに笑った。
「あらあら。お泣きになられないからお寂しくないないのかと思ってましたが、やっぱりお母様が一番なんですね」
「エイミーはもともとあまり泣かない子なんです」
席を立って近寄ってきたイリーナがエイミーの頭に手を伸ばそうとすると、エイミーはわずかに身をこわばらせたが、おとなしく侯爵夫人に頭をなでられた。
「ふふ。ケヴィン様そっくり。二年前に来てくれていたら生まれたばかりのころから成長を見られたのに、残念だわ」
イリーナは実家も侯爵家であることから、三歳年下のケヴィンを小さいころから知っているのだという。そのためあんまり笑わないのでアパートの親しい人たちからは不気味とさえ言われていたエイミーを、イリーナは「ケヴィン様そっくり」とうれしそうに言ってくれた。
アネットがアランデル侯爵家に預けられることを、イリーナは二年前から知っていたのだという。こんなにもよろこんでくれるのなら、こちらにやっかいになっていればよかったと申し訳ない気分になる。
「す、すみません……」
エイミーを抱えたまま小さく頭を下げると、イリーナはすまなそうに苦笑した。
「責めるような言い方をしてしまったわね。ケヴィン様のお立場を考えるあまりの、苦渋の選択だったのでしょう? あなたをちゃんと預からなかったせいで苦労させてしまったことを思うと、わたくしのほうが申し訳なくてならないわ」
アネットはエイミーの背に添えていた手を離して小さく振った。
「そんな、気にしないでください! こんなによくしてくださって、どうお礼を申し上げたらいいかわからないです。でも、いいんですか? あたし」
言いかけたところでイリーナに人差し指を当てられた。アネットが言葉を引っ込めると、イリーナは使用人たちを振り返った。
「少しの間、席を外してちょうだい。──ごめんなさいね、エイミー。もうちょっとだけお母様を貸してもらうわね」
エイミーは乳母に渡されるのを少しだけ嫌がったが、おとなしく乳母に抱かれて部屋を出ていった。使用人たちも出ていき、イリーナと二人きりになる。
促されて椅子に座り直すと、まずお茶を飲むように勧められる。渇いた喉に一口通すと、アネットがカップを置くのを見計らってイリーナは困ったように目尻を下げて言った。
「自分の出自について、これからは人前で口にしてはダメよ」
アネットが何を言い出そうとしていたのか、イリーナにはお見通しだったようだ。
「すみません……」
しおしおと謝ると、イリーナはアネットの顔をのぞき込むようにして尋ねてきた。
「ケヴィン様からは何て聞いているの?」
「いえ、あまり……。こちらのお邸にごやっかいになるということだけです」
イリーナはあきれたため息をつく。
「ケヴィン様ったら、もう……それじゃずいぶんと不安だったでしょう。本当ならケヴィン様がすべきでしょうけど、わたくしから説明するわね。──ケヴィン様が何も考えてらっしゃらなかったからわたくしが手配したのだけど、あなたの出自は、これからはわたくしが懇意にしている子爵家の傍系にあたる商人の妹の娘ということになるわ。
商人の妹、つまりあなたの母親ということになる人は、結婚してレシュテンウィッツ王国に移り住んだ。そこで生まれたあなたは、レシュテンの内乱から一人逃れることができて、十年ほど前に伯父を頼ってこの国に住むようになった。わたくしはその商人の構える店舗に足を運ぶことが何度かあって、その際にわたくしに付き添ってくださったケヴィン様は対応に出てきたあなたと恋に落ちた。そして二年前、再び離れ離れになってしまうことに耐えられなくなって関係を持ってあなたは妊娠。でも身分差があって結婚を望めないと思ったあなたは身を隠し、戦場から戻ってきたケヴィン様はあなたを捜し出して、わたくしのところに保護させた、という話にしてあるの。──この程度の嘘ならつかなくてもいいような気がするかもしれないけど、ごめんなさいね。気を悪くしないでほしいのだけど、ケヴィン様のお子であっても、さすがに出自のわからない下働きだった女性に産ませたお子を跡取りにすると言ったら、親類縁者が大反対するから」
「え? 跡取り?」
なんのことかさっぱりわからず、アネットは目をしばたたかせる。
「そういう取引になっているの。あなたをわたくしたち夫婦が保護する代わりに、あなたが産んだケヴィン様のお子をわたくしたちの養子にして跡を継がせると」
「え──」
表情を凍らせるアネットに、イリーナはやさしくほほえみかける。
「名目上のことよ。あなたからエイミーを取り上げるわけじゃないから安心して?」
引き離されるわけじゃないと聞いてほっとした。けど。
「でも奥様のお子は……」
イリーナは悲しげな笑みを浮かべた。
「わたくし、子どもを産めない体なのよ」
アネットは絶句する。気にしないでというように苦笑すると、イリーナは自嘲気味に話し始めた。
「最初の妊娠のときにひどい流産を起こして、医者に“お子はもう望めないでしょう”って言われて、その通りになったわ。跡継ぎを産まなくてはならない立場にありながら、子どもを産めないのでは妻として失格よね。けれどハンフリーはどんなに周りの人から離婚しろと言われても、わたくしと離婚しようとしなかった。そのせいでアランデル侯爵というクリフォード公爵に次ぐ家格を持つ家の当主でありながら、親類から当主としての自覚なしと言われて肩身の狭い思いをしてきたの」
アネットはテーブルに顔を伏せるように大きく頭を下げた。
「すみません。そんなつらい話をさせてしまって」
イリーナは静かに首を横に振る。
「ケヴィン様からの申し入れは本当にありがたかった。ケヴィン様のお子を養子にするなら、少しは文句も減るでしょうから」
「で、ですが、それならあたしの産んだ子ではダメなんじゃないですか?」
「だから嘘をつくことになったのよ。あなたの母親ということになる人は、子爵家の傍系にあたる商人の妹だと言ったでしょう? つまりあなたは多少だけど子爵家の血を引いていることになるわけなの。わずかでも貴族の血が入っているということであれば、結婚は許されなくても子どもを跡取りにすることは何とかなるわ。これ以上いい身分を偽ることにすると、あなたの存在が妬まれて出自を暴かれかねないし、貴族の血を持っていても庶民ということなら、わざわざ戦火にまみれたレシュテンまで行く人もいないでしょう」
親が誰なのかわからないアネットが、子爵家の血をひいているとたばかってもいいんだろうか……。
それに気になることがある。
「あたしのお母さんということになる人は、実際に存在するんですか?」
「ええ。実際に結婚してレシュテンに移り住んで、あなたくらいの年齢の娘がいて、レシュテンの内乱に巻き込まれて一時期行方不明だったけれど、レシュテンを挟んでこの国と反対側の国に逃げて無事だったそうよ。向こうの国で運よく商売を再開できることになって、そこに腰を落ちつけたんですって。レシュテンは今通り抜けできるような状況にないし、戦乱が終息して通れるようになっても簡単に行き来できる距離じゃないし、その妹さんにも一応口裏を合わせるための手紙を送ってもらってあるし。だからバレる心配はないから安心してね」
「あ、ありがとうございます……」
万事ぬかりなしと言わんばかりのイリーナの満面の笑みを見て、アネットは恐縮して頭を上げられなくなる。
「それともう一つ、ケヴィン様と取引していることがあるの。──というか、こちらの条件のほうがわたくしたち側からしたらメリットなんだけど」
なにやらもったいぶった言い方に、アネットは首をかしげる。
「何ですか?」
うながすと、イリーナは肩をすくめて言った。
「ケヴィン様はクリフォード公爵位を、わたくしの夫にゆずってくださるそうなの」
「──! えええ!?」
驚きすぎて一瞬反応の遅れたアネットは、カップから紅茶がこぼれてしまうのも構わず、テーブルを大きく揺らして勢いよく立ち上がる。
「公爵位を継いでケヴィン様の血を引く子を公爵家の跡取りとして養子にする。これが実現すれば、夫はクリフォード公爵家の血族の頂点に立つことができ、直系の血を正式な夫婦の養子として次代につなぐ役目を果たして、うるさい親類縁者をかなり黙らせることができるだろうって話なの」
紅茶がテーブルの上にこぼれているのに気付いているのかいないのか、にこにこしながらイリーナは説明する。
アネットは呆然とした。
「あたしとエイミーを側に置くために、ケヴィン様は公爵位をお捨てになるっていうんですか……?」
そんなことさせたくなかった。だから身を退こうとしていたのに。
ついてきてしまったことを後悔する。
打ち沈みかけたアネットに、イリーナはけろりと言った。
「あなたが気にすることないわ。ケヴィン様はあなたとエイミーのことがあろうがなかろうが、公爵位を継ぐつもりはなかったそうなんですもの」