四章-6
庶民の薄いベストをまとった、厚くてあたたかい胸板に頭を押しつけられ、以前よりたくましくなった腕に背中を抱え込まれて、アネットは胸をつまらせ、しばし呼吸をするのも忘れた。
二度と得られないと思っていたぬくもりに包まれて、全身が歓喜に震える。
そのぬくもりにすがりついて、二度と離れたくなくなる。
だから嫌だったのよ……。
さっきから何度も拒んでいたのに、肝心な時にわかってくれない。
こぶしをにぎりしめ、ケヴィンの背に腕を回したくなる自分を押しとどめる。
「は……なしてください……」
アネットの声は、拒絶とは思えないほど情けなくかすれた。
ケヴィンからの返答は、しばらくたってからだった。
「このままで……わたしの話を聞いてほしい」
耳元に吹き込まれる、ため息のようなひそやかな声。
心臓が騒いで、どうにかなってしまいそうだ。
「……こんなふうにしてたら、話なんかできません」
かすれる声に、かすれ声が答える。
「離せば……君はまた、逃げるのだろう……?」
その通りだ。だが、離してもらえなくても、アネットは逃げるしかない。
「あたし、ここで結構楽しく暮らしてるんです。だから困るんですよ。ケヴィン様にここに来られるのは。みんなあたしがかわいそうだから親切にしてくれてるのに、お貴族様と知り合いだなんてバレたらここで暮らしにくく」
「アネット」
ケヴィンの呼ぶ声が、アネットの言葉をさえぎる。
「もういい」
簡単な言葉で終わりにされそうになって腹が立ち、アネットは力いっぱいケヴィンの胸を押す。
「あたしは困るって言ってるのに、何がいいんですか? ケヴィン様は邪魔なんです! 母子二人で生きていくのにこれほどいい場所はないんです! ここを出ていかなくちゃならなくなったって、ケヴィン様に頼ったりなんかしません。だからここで暮らしていけなくなるようなことされると、ホントに困るんです!」
アネットに押しのけられそうになったケヴィンは、一層強い力でアネットを抱き込んだ。
「先程の男はエイミーが金持ちの男の娘だと当たりをつけて、父親に金をせびるために君に近付いたのだろう? あんな男が現れる場所が暮らしやすいわけがない」
「お貴族様と庶民では、暮らしやすいの尺度が違うんです! あんな程度、どうってこと」
「どうってことないわけがあるか!」
耳元で怒鳴られて、アネットはケヴィンの腕の中でびくっと身を震わせる。
アネットの押す力が弱まったところで、ケヴィンは改めてアネットを抱きしめた。
「君があんな暴力をふるわれているのを見て、わたしが何も感じなかったと思っているのか? 怒りにどうにかなりそうだった。暴力をふるった男にも、そんな男のいる場所へ君を追いやってしまった自分にも」
「……ケヴィン様のせいじゃないって言ったじゃないですか」
アネットの声はまた弱々しくなる。
「あたしが考え無しだっただけです。いろいろと」
あの男に目をつけられないように、もっと下街になじむべきだった。
こそこそ隠れるような真似をしないで、最初から嘘の事情を話して回っておけばよかった。
三年前にもらった薬の効果を疑ってかかるべきだった。
そもそも薬があるからと思ってケヴィンに身を任せてはいけなかった。
もっとも、そのおかげでエイミーという生涯の宝物を手に入れたのだけど。
自責の念を念頭から振り払って、アネットはつとめて明るく話す。
「ホント、あたしのことは──あたしたちのことは、気にしないでください。ちゃんと生活できてますから。ケヴィン様はご自分のことを考えてください。そんな庶民の服を着て下街にいるなんて知られたら、ケヴィン様の品位が疑われちゃいますよ?」
「アネット」
咎めるような声が、頭上からアネットを呼ぶ。それに構わずアネットは話し続ける。
「やっぱり奥様をもらわないわけにはいかないですよ。結婚前から夫に愛人も子どももいるって知ったら、奥様が気を悪くされますから、だからあたしたちのことは」
「アネット!」
ケヴィンは乱暴にアネットの肩をつかむと、背をかがめてアネットと視線を合わせる。
暗い色の瞳に真剣なまなざしを送られて、アネットは思わず息を止める。
沈黙はわずかばかりの間。ケヴィンはアネットに言い聞かせるように、ゆっくりと口を開いた。
「もう、無理をしなくていい」
心臓さえも止まってしまったような気がした。
頑張れば頑張るほど、周りのみんなにほめてもらえた。
えらいね。よく頑張ってるね。
その言葉がうれしくて、もっともっと頑張った。
頑張って得た成果は誇らしくもあった。
でも、ほんとうはわかってほしかったの。
「ひたむきに頑張る君の姿勢は尊いと思う。しかしその半面、君がらっきーと言うたびに心配になった。そう言うことで、周囲の人間を安心させるのと同時に、君自身もごまかしているように見えて」
ケヴィンの親指が、アネットの濡れた頬をぬぐう。
「わたしは頑張る君が好きだ。だが君に、無理をしてほしいわけじゃない。──これまでよく頑張ってきた。あとはわたしに任せてくれないか?」
居場所をつくるためにアネットがひたかくしてしてきたものを、どうしてケヴィンは見つけ出してしまうのだろう。
ケヴィンの言うように、自分自身もごまかしてきた。このくらいどうってことない、むしろらっきーなんだと口にすることで、挫けそうになる心を励ましてきた。
だから、誰かにずっと言ってほしかった。
頑張りすぎなくても大丈夫。ちゃんと居場所はあるって。
返事を待ちわびるように、ケヴィンは泣きぬれてうつむいたアネットの顔をのぞきこんでくる。
ここで“はい”と答えられたら、どんなにしあわせだったろう。
ケヴィンはアネットに居場所を与えようとしてくれている。
けれどそれは、ケヴィンの不幸と引き換えだ。
とかくしきたりにうるさい貴族社会で、後継の子息が愛人を側に置くために結婚をしないなんて許されるわけがない。結婚は承諾することになったとしても、結婚前から愛人がいると知られれば、一夫一妻を重んじるこの国においてケヴィンは不道徳と謗られるだろうし、妻となる人は結婚前から夫に愛人を持たれたとして侮蔑されることになる。侮蔑された妻は不幸になり、妻の不幸はケヴィンに跳ね返ってくることだろう。
しあわせになりたい。でも不幸になってほしくない。
好きな人だからこそ、なおさらに。
アネットはしゃくりあげながら答える。
「あたしは、ケヴィン様に不幸になってほしくないんです」
思いを口にすると、涙があらたにあふれてくる。
好きな人と結ばれることが不幸を呼ぶなんて、そんなのってない。
どうして祝福されるわけのない立場に、それぞれ生まれてきてしまったんだろう。
出会ったことさえ恨みたくなってしまう。出会えただけでしあわせだと思えた時が、間違いなくあったにもかかわらず。
アネットの心配に、ケヴィンは真摯な目でアネットを見据えて答える。
「不幸になどなるつもりはない。もちろん君も不幸にするつもりはない」
「でも、ケヴィン様は公爵様の跡取で、然るべき令嬢を妻にして公爵家にふさわしい跡取をもうけなきゃならないのに……」
「その問題を解決する準備は整えてある」
アネットは信じがたい思いで顔を上げた。
「解決って……そんなこと、できるんですか?」
「何事にも抜け道というものはある」
「でもどうやって? 大変なんじゃないですか?」
「確かに多少の苦労は伴うが、君を守るためならそれくらいどうということはない」
はっきりと言い切られた言葉に、嬉しさがこみあげてくる。
だけど何で?
しゃくりあげてわななく唇から、アネットは残り少なくなった疑問をケヴィンに伝える。
「どうしてケヴィン様はそこまでしてくれようとするんですか? あたしたちが一緒にいたらしあわせになんかなれるわけない。ケヴィン様だって一度はそう思って離れていこうとしたんでしょ? なのに何で、急に考えを変えたんですか?」
もし償いたいからとか、無理をしているアネットを助けたいからという理由だったら、ケヴィンの申し出に応じるわけにはいかない。
それは同情であって愛情じゃない。
そんな気持ちだけでは、この先の人生を一緒に過ごせない。
アネットは愛しているのに、ケヴィンに愛されないのでは悲しすぎる。
今度こそこの話し合いに決着がつくかもしれない。そう覚悟して半ば悲愴な思いで問いかけたのに、ケヴィンは不思議そうに目をしばたたかせる。
「覚えていないのか?」
問い返されて、アネットは困惑する。
「何をですか?」
当時だって唐突過ぎて驚いたのに、覚えてないのかと問われても心当たりがあるわけがない。
眉間にしわを寄せて問えば、ケヴィンは意外そうに眉尻を上げた。
「君が言ったんじゃないか。後悔してほしくないと」
は?
疑問符は声にならず、アネットはただぽかんと口を開ける。
ケヴィンはアネットと視線をあわせるために屈めていた背を伸ばした。ケヴィンの顔を目で追うと、肩をつかまれているアネットは首をそらせて見上げることになる。間の抜けた顔をしたまま見つめるアネットを、ケヴィンは幾分あきれた様子で見下ろした。
「君はこうも言った。 ダメ元で試してみろと。このまま何の努力もせずに、みすみすあきらめてもいいのかと。その言葉を聞いて、わたしは君をあきらめない決心がついたんだ。──まさか、ほんとうに覚えていないのか?」
アネットは慌てて首を横に振る。
ちゃんと覚えてる。
あれは五年前、シグルドが初めて戦場に向かう時のこと。ケヴィンは公爵によって行くのを止められ、シグルドだけを戦場に向かわせることにケヴィンは苦しんでいた。
だからアネットは言ったのだ。「あたしはケヴィン様に後悔してほしくないんです」と。
「あ、あれは王子様のことを言ったんであって……」
今や国王となったシグルドを、つい昔のままに呼んでしまう。
「同じことだ。君のしあわせを願うなら、わたしは身を引くべきだった。そう思って距離を置いたのに、あの時自らの無力を呪い酒に逃げて、気付けば君の元を訪れていた。その時に思い知ったんだ。君への想いは、どんなに離れようとしても褪せないのだと」
喜びがわき上がってきて、新たな涙があふれそうになる。
アネットも何度も忘れようとしたのに、何年たってもケヴィンのことを忘れられなかった。
けれど喜ぶ一方で、アネットは焦ってしまう。
一緒にはいられないと思い続けていたために、こんな日が来るなんて思ってもみなくて。
「で、でもあたしなんかでいいんですか? とりえがあるわけでもないし、顔も」
そこまで言いかけたところではっとする。
端正な顔立ちをしたケヴィンが、部屋の中に差し込んだ光の反射を受けてよく見える。アネットからよく見えるということは、ケヴィンからもよく見えるということで。
アネットは慌ててうつむいた。
「は、鼻は低いし、おとなになったのにそばかすが浮いてて」
お世辞にも美人とは言えない。
急に恥ずかしくなった。こんな顔を見たらケヴィンの気持ちだってきっと冷める。
うつむいた顔を両腕で隠そうとするのに、ケヴィンはその腕に手をかけて下げさせようとする。
「見せて」
「嫌です……。こんなみっともない顔見たら、ケヴィン様も後悔します」
泣いたから、よけいひどい顔をしているはずだ。しっかり見られたとたん気まずい態度をとられたりなんかしたら、きっと立ち直れない。
ケヴィンが強く力を入れないのをいいことに、アネットは顔を隠し続ける。
業を煮やしたかのようにケヴィンはため息をついた。
「顔を見て後悔するくらいなら、君をあきらめることができていたはずだ」
「……それって何気に、あたしの顔をけなしてます?」
こういう時に“そんなことない”と言わないということは、肯定してるってことなんじゃないだろうか。
落ち込み気味にアネットがつぶやくと、ケヴィンは不機嫌そうに返してきた。
「今の言葉をどのように受け取ったら、けなしているように聞こえる?」
本気でわからないようだから、ケヴィンは不思議だ。アネットのことはよく理解してくれるのに、言葉の言い回しには妙に疎い。
にわかに込み上げてきた笑いをこらえながらアネットは言った。
「さっきのケヴィン様の言葉は、顔で選んだわけじゃないって意味ですよね? それって顔で選んでたらとっくにあきらめてたって意味にも取れる──って、ちょっと! やめてください!」
笑ってしまって腕の力がゆるんだ隙に、ケヴィンはアネットの腕を下ろさせてしまう。じっと顔をのぞきこまれて、アネットはいたたまれなくて目をそらした。
「ほんとうに緑色なんだな」
何のことを言われたのかわからなくて、つい視線をケヴィンに向けてしまう。
いとおしむように細められた目とかちあって、アネットは真っ赤になって硬直した。
「君の目は緑色だと人づてに聞いて、君に会ったらまっさきに確かめたかったんだ。ランプの明かりのもとでははっきりと色を確認できなかったから。──髪も、こんな色をしていたのだな。……以前よりかなり短いようだが、何かあったのか?」
そういえば、顔だけでなく髪もみっともないことになっていたんだった。
恥ずかしくなって、アネットは自分の髪をなでつける。
「……二年前に切ったんです。売ればお金になるって教えてもらって、できるだけ長く切ろうと思って襟足でばっさりと。これでもずいぶん伸びたんですが、みっともないですよね」
ケヴィンは痛ましそうに眉をひそめる。
「困ることがあったら指輪は売ってくれていいとわたしは言ったはずだが、何故売らなかった?」
「売れるわけがないです。売ったらケヴィン様にお返しできなくなるじゃないですか。ケヴィン様も形見の品を簡単に売れなんて言わないでください」
「襟足か……そんなに短くしてしまっては、外に出るのも恥ずかしい思いをしたのでは?」
「そんなの、頭を頭巾で隠して、頭巾の中に髪を隠してるんですってフリをすればどうってことありませんでしたよ」
いつもの癖で、強がってことさらに明るく話してしまう。
バレてしまったのだから、そんなことしても仕方ないのに。
ケヴィンはあきれたように小さくため息をついた。
「いい手だが、切る時にはやはりつらかったのだろう? ──すまなかった。君に断られても、いくらかの金を渡していけばよかった」
「あたしに渡されても、置いとける場所なんてなかったですよ。あたしの部屋は物置で、日中は誰だって出入りしてたんですから」
苦笑して言うと、ケヴィンは考え込むようにこぶしをあごに当てた。
「……だったら、ロアルに渡しておけばよかったな」
「ロアルさんといえば!」
思い出して、アネットは腹を立てる。
「この場所をケヴィン様に教えちゃったんですよね。あんなに約束したのに、もう信用できないわ……」
うなだれていると、ケヴィンがかばうように言う。
「いや、ロアルから聞いたわけじゃない」
「え……? じゃあどうやってここがわかったんですか?」
「ロアルのあとをつけてきたんだ。今日の午後ここに来ると聞いて」
「……それって、ロアルさんから聞いたんですよね? それじゃバラしてるのと変わらないじゃないですか。それにケヴィン様も、ロアルさんをかばう気があるなら、言葉は選んだほうがよかったですよ」
「そ、そうか……」
大の大人が素直に反省する様子に、アネットはつい笑ってしまう。
笑みにゆるんだアネットの顔を見て、ケヴィンは目を細めた。
ケヴィンは表情が薄いので、下手をするとすごんでいるようにしか見えないが、わずかずつの時間しか会えなくても十年もの間ケヴィン見てきたアネットには、それが嬉しそうな顔だとわかる。
「自然な笑顔だ」
ケヴィンには珍しい甘い顔で言い当てられ、アネットは真っ赤になって視線を下にそらした。
恥ずかしくて、ケヴィンの顔がまともに見られない。
視線をさけてそっぽを向こうとしたとき、ケヴィンが顔を近付けてきてアネットの心臓は大きく跳ねた。
「アネット」
名前を呼ばれて、さらに跳ねる。
「そろそろ返事を聞かせてくれないか?」
返事って……。
アネットはにわかに正気付く。
そうだった。まだ返事をしていない。
でも、ほんとうに受け入れてしまっていいの……?
「これだけ言っても、君はまだ迷うのだな」
まだ迷いを残しているアネットに、ケヴィンは小さくため息をもらす。
「だって、しょうがないじゃない。常識的に考えたら不幸になるだけだもの……」
アネットはぼそぼそと答える。するとケヴィンはまたため息をついて、アネットの手を取った。
そしていきなり、片膝をついてひざまずく。
「君には、こう言うべきだったな」
うろたえるアネットを、ケヴィンは見上げて告げた。
「わたしはしあわせになりたい。君も子どもも決して不幸にはしないと誓うから、どうかわたしがしあわせになるために協力してくれないか?」
ずるい。
そんな風に言われたら、断れるわけがないじゃない。
「返事を。──アネット」
じっと見つめ返しても、ケヴィンの表情は揺るがない。
これはわかっているという顔だ。
わかってもらえるのは嬉しいけど、これはこれで悔しい気分になる。
普通に返事をするのもしゃくにさわるので、アネットは無言のまま体をかがめ、ケヴィンの首に抱きついた。