四章-5
非情になれ。
ケヴィン様にも、あたし自身にも。
「怪我は?」
心配して尋ねてくれるケヴィンの顔を見られずに、アネットはうつむいたまま答える。
「ないです」
「遅くなってすまない」
視界の端に、ケヴィンが動くのが見えた。アネットはとっさに両腕を突き出す。
アネットの手はケヴィンの胸に押し当てられ、アネットを抱き込もうとしたケヴィンの動きをさえぎった。
「……ケヴィン様が謝ることなんてないですよ。ケヴィン様から離れたのはあたしなんですから」
ケヴィンはアネットを守ろうとしてくれていた。それを拒んだのはアネットのほうだ。
「子どもができたそうだな? 何故、アランネル侯爵の邸に行かなかった?」
背中に回すはずだった手でアネットの二の腕をつかんで、ケヴィンは言う。
胸が痛い。
今から嘘をつかなくてはならないと思うと。
けど、ためらったりしたら二年前と同じことを繰り返してしまう。
アネットは自分に刃を向けるような気持ちを押し隠して話し始める。
「何かあったら行くようにってケヴィン様はおっしゃってましたけど、それって“ケヴィン様に関することで”ですよね?」
顔を上げ、アネットの言葉に戸惑いを見せるケヴィンに、にっこりと笑う。
「ケヴィン様が戦場に行ってしまって、寂しくてたまらなくて、すぐに別の男の人になぐさめてもらって、できたのはその人の子です。相手が妻子持ちだってわかってながら、関係を持ったんですよ。おかげで身をかくさなきゃならない羽目になりました」
どうかだまされて。あたしを軽蔑してくれればいい。
「ロアルさんも人がよすぎますよね。ケヴィン様のお子か確かめもせず、あたしの世話なんかしてくれちゃうんだから」
ロアルがケヴィンにバラしたせいなんだから、これくらいのことは言わせてもらう。
「そーいう女なんです、あたしは。幻滅したでしょ? ご立派なお貴族様に、身持ちを崩した姿をこれ以上見られたくないんです。──帰ってください」
しゃべり続けるのがつらくて、アネットの声は自然に冷たくなった。
言ってたよね? 別の相手がいるならあきらめてたって。だからこれであきらめて。
アネットはそう願うのに、二の腕をつかむケヴィンの手には力がこもる。
「嘘はいい。本当のことを聞きたいんだ」
……何でこんなに、確信を持って断言できるんだろう。二年も会わなかったのよ? その間にあたしどうしていたか、何も知らないはずなのに。
「嘘なんかじゃありません。そりゃあ相手の名前を聞かれても、迷惑をかけたくないから言えませんけど」
「アネット」
また、名前を呼ばれてしまい、体がぴくり震えて切なさがこみあげてくる。
泣きそうになっている顔を、ケヴィンにのぞきこまれた。
「嘘でも君の口から別の男の話を聞きたくない。それに、君を見ていてわかった。──君と関係を持ったのはわたしただ一人。そうだな?」
見透かされている。頬がかっと熱くなった。
「な、何うぬぼれてるんですか! あたしにだって言い寄ってくれる男は他にいるんですよ」
ケヴィンの熱っぽい声にうろたえて体を退こうとするけれど、二の腕をつかんだ手がアネットを引き止めて距離を取らせてくれない。
「帰ってきたからには、君を誰にも譲ったりしない」
なんて傲慢な言葉。
そんな強いまなざしで見つめられたら、抗うための言葉も出てこない。
「ここを引き払おう。下で聞いてきたが、先程の男はこの界隈でも鼻つまみ者なのだそうだな。余罪を徹底的に追及して処罰するよう指示をしておくからしばらく現れることもないだろうが、同じ考えを持つ者がいつまた現れるかしれない。この先のことは心配いらない。君と子どもを迎え入れる準備は整えてある」
子どものことを口にされて、アネットは忘れていた抵抗を始めた。腕を振り体をよじって、ケヴィンの手から逃れようとする。
「馬鹿言わないでください! 下働きが産んだ子どもなんか引き取ってどうするつもり!? 犬猫じゃないんですよ!? 人として生まれたからには生い立ちがつきまとうし、立場が必要なんです! ふさわしくない立場に置けば、つらい思いをするのはエイミーなんですよ!?」
アネットが身を以って体験している。捨子だったのに、公爵家で上級使用人に育てられて、そのせいでやっかまれて、育ててくれた人に迷惑までかけてしまうところだった。ふさわしい立場──下働きになってもいじわるは続いて、信頼を得るまでにどれだけ苦労したことか。
ケヴィンはわずかに目を見開く。
「……エイミーというのか。わたしたちの子は」
感慨深げに言われて、あきれて、腹が立ってくる。
「今はそういう話をしてるんじゃないです! てか、さっきから言ってるじゃないですか! あの子はケヴィン様のお子じゃないって」
「どこにいるんだ?」
ケヴィンはアネットの話などそっちのけで、テーブル以外家具のない小さな部屋の中を見回す。そして奥の部屋に続く扉に目を止めると、アネットから手を離して歩き出した。
唐突ともいえるこの行動にしばし呆然としてしまったアネットは、数歩遅れでケヴィンを追いかける。隣の部屋に入った時には、ケヴィンはベッドの傍らに佇み、娘をじっと見下ろしていた。
アネットは立ちすくむ。違うと言い張っていたけど、ケヴィンに自分の子じゃないと言われるのが怖い。
しばらく動かなかったケヴィンは、不意に身をかがめると、エイミーの脇の下に手を入れて抱き上げた。エイミーは起きていたのか、少しもぐずることなく、初めて見る人を不思議そうな目で見つめ返す。
「泣きもしないし、笑いもしない……」
つぶやくように言われた言葉に、アネットは悲しくなる。
赤ん坊にしてはかわいげがない。それが親しくしてくれている人の間でも言われているエイミーの感想だ。
あなたに似たからこんな子になっちゃったんじゃない……。
実の父親にもかわいげがないと言われては、エイミーがかわいそうだ。
目尻がじわっと熱くなったとき、ケヴィンはアネットの様子に気付かずつらつらと話し始めた。
「わたしも、乳母に散々聞かされた。赤ん坊なのに泣きもしなければ笑いもしない、世話をするのに面倒はなかったが、愛想がなくて残念な思いをしたと。……先程の男の言葉を認めるようで気分が悪いが、髪の色といい、目元といい、確かに私に似ているな。──この子は間違いなくわたしの子だ」
さっきから、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
ケヴィンに認められてしまってはいけないのに、認められてすごく嬉しい。
おとなしくしていたエイミーがぐずりはじめた。アネットは感情を頭の隅に追いやって、ケヴィンに駆け寄りエイミーを抱き取る。股の間に腕を差し入れて体を自分のほうへもたれさせると、安心してアネットにぎゅっとしがみついた。
まだ少ししゃくりあげるエイミーの背中を叩いてあやしていると、ケヴィンはため息に似たつぶやきをもらす。
「母親になったのだな……」
何を当たり前なことをといぶかしみながらケヴィンを見ると、優しげに目を細めたケヴィンの視線とぶつかってアネットはどきっとする。
「わたしの子を産んで、育ててくれてありがとう」
ケヴィンはエイミーごと、アネットを抱きしめようとする。その手から、アネットは後退って逃れた。
「この子は! あたしが勝手に産んで、育ててるんです! ケヴィン様に責任を取ってもらう必要はありません!」
これ以上言わせないで。
自分を保っていられなくなる。
あきらめなきゃいけないのに、なりふり構わず求めてしまいそうになる。
「どうして」
うつむき、涙をこらえながらアネットは口を開く。
「どうして捜したりなんかしたんですか? 夜中にこっそり邸に入れてあげただけの、ただの下働きじゃないですか。エイミーのことだって、これから奥様を迎えるのに邪魔になると思わないんですか?」
「そのことだが」
ケヴィンはここで、思わせぶりに言葉を切った。アネットが思わず顔を上げると、ケヴィンはアネットの視線を捉えて続きを口にする。
「君が以前指摘した通り、わたしは結婚をするつもりはない」
「ダメです!」
アネットはすかさず叫んだ。
「結婚して子どもをもうけるのは、ケヴィン様の義務じゃないですか! ご自身が何のために大事に育てられてきたかわかってるんですか!? 結婚もせず下働きを愛人に囲うなんて聞いたら、ご主人様がお嘆きになります! あたしは! 拾ってくださったご主人様に、恩を仇で返したくありません!」
ケヴィンが息を飲む。
わかってくれたのだろう。アネットはケヴィンの父、クリフォード公爵に恩がある。ケヴィンの将来も大事だが、クリフォード公爵を裏切ることもできないのだ。
ほら。ケヴィン様とあたしの間には、こんな壁も存在するの。
他にもたくさんの壁があって、そのすべてを乗り越えることはきっとできない。
ここで断ち切らなくちゃ。
アネットは悲しさをこらえながらほほえむ。
「心配しないでください。ここの人たちはとっても親切なんです。お金を持たずに来たあたしが無事エイミーを産めたのもみなさんのおかげだし、何かあればみなさんが助けてくれます。だからあたしたちは大丈夫。ケヴィン様はご自分のことだけを考えてください」
うとうととしだしたエイミーを、アネットはベッドの上に寝かせる。
耳元であんなに叫べば普通の赤ん坊なら泣くだろうに、この子は物音が気にならないみたいだ。
この子さえいれば、あたしは平気。頑張れる。
自分に言い聞かせ、眠りに落ちたエイミーから顔を上げる。
「アネット」
ケヴィンがまた、名前を呼んだ。アネットの心臓も、また跳ねる。
いちいち反応してどうするの、あたし!
心の中で自分を叱咤しながら、ケヴィンに文句を言ってやろうとアネットは振り返る。
そのとたん、抱きすくめられた。