四章-3
荷馬車一台通せない細い路地に面した四階建ての集合住宅。その三階にある一室で、アネットは背中に午後のうららかな陽ざしを浴びながらドレスの破れ目を繕っていた。
このドレスの持ち主は仲良くしてくれている娼婦の一人で、お客さんの中にドレスを破るのが趣味の人がいるのだという。……いや、他人の趣味にとやかく言うまい。そのお客さんのおかげで彼女はアネットの上得意になってくれているのだから。
他の娼婦たちや近所の人たちも、破れた服の繕いだけでなく、膝や肘のつぎ当てや、上着の裏打ちなどの針仕事を頼んでくれる。貴族のお邸でつちかった裁縫の腕は丁寧と評判だそうで、おかげで仕事が途切れることがない。
さまざまな縁が、今のアネットを支えてくれている。
もうこのお邸にはいられない……。
覚悟を決めてクリフォード公爵邸をあとにしたものの、アネットには行くあてがなかった。使用人頭のビィチャムが管理している給金を引きだせば、オルタンヌに邸を出ていこうとしていることがバレてしまう。頼るつてがなく、お金も持たない。正直途方に暮れていたけど、危機感はあまり持っていなかった。これでもうケヴィンとは二度と会えなくなる、そのことが胸を押しつぶして。
下街に行けば仕事にありつけるかな……。
思い付きで下街のほうへ歩き出したところを、ケヴィンの元従者ロアルにみつかってしまった。
今は真夜中で、ロアルはケヴィンの従者の任を解かれて少し離れたお邸で働いている。偶然というには怪しすぎて警戒して後退ると、ロアルは肩をすくめて苦笑した。
「アネットさんが妊娠したらしいといううわさは、僕の勤めてる邸にまで届いてますよ。親戚同士のお邸なので使用人の間にも交流があるんですよね。今日の夕方になってそのうわさがほんとうだったみたいだという話になったので、アネットさんが邸から抜け出すとしたら今日しかないと思ったんです。──大正解でしたね」
ランプを掲げて互いの顔を照らしだし、ロアルは得意げに口の端を上げる。
「それで、ロアルさんはあたしに何のご用ですか?」
結論をわざと先延ばしにしているようなロアルの態度に焦れて、アネットのほうから聞いてみた。するとロアルは話を聞いてくれるんだと言わんばかりに、意外そうに目を見開く。
「そうですね、まずは説得させてください。邸に戻りませんか? クリフォード公爵はご子息のお子を宿したあなたを粗略に扱ったりはしないと思いますよ。そりゃあ、あまりよくは思われないでしょうが、然るべき生活環境を与えてくださり、無事にお子を産ませてくださると思います。それに、戻ってきてあなたがいなくなったと知れば、ケヴィン様は悲しまれます」
簡単に想像がつく。深夜の邸。戦場から帰ってきたケヴィンは洗濯室隣の物置をのぞいて、そこから人が住んでいる形跡があとかたもなくなっているのを見てがくぜんとする。頼るようにと言ったアランネル侯爵の邸にもいないと知ると、懸命に捜し始める。きっと後悔する。アネットの気持ちを無視してでも、アランネル侯爵にアネットを預けていかなかったことを。
「……でも、それでも、あたしはお邸にいちゃいけないんです。あたしなんかを囲ったりしたら、ケヴィン様はきっと一生結婚なさらない。公爵家の跡取りであるケヴィン様に、不幸な道を選んでほしくないんです」
アネットは苦しい思いをしながら告げるのに、ロアルは少しあきれたような、困ったような顔をして言った。
「ケヴィン様のしあわせについて僕が語るわけにはいかないのでアレですけど、アネットさんを愛人にしたらケヴィン様は結婚しなくなるだろうってことには同意見ですね。──じゃあ行きましょうか」
「──え?」
邸には戻らないとアネットは言っているのに、ロアルはどこに行こうというのだろう。
「どんなに説得しても、アネットさんは邸に戻ってくれないんでしょう? だったら邸以外の住処を確保しなくちゃ」
「でも……」
甘えてしまっていいんだろうか? ロアルに頼れば居場所がケヴィンに筒抜けになって、邸を出る意味がなくなってしまうのでは?
ためらって動けないでいるアネットに、ロアルはため息をついた。
「放っておけるわけがないじゃないですか。僕に世話させてくれないと言うなら、強制的に邸に連れて帰ります」
正直、ロアルの申し出はありがたかった。だからアネットも条件を出した。
「あたしの居場所を誰にも教えないでください。もし教えたりしたら、ロアルさんが世話してくれる場所からも逃げます」
ロアルは少しためらってから言った。
「わかりました。絶対に教えないと約束しますから行きましょう。妊婦が深夜に歩きまわるのは体に毒です」
道すがら、ロアルはいろいろ話した。
「アネットさんの相手は誰だって、ちょっとした騒ぎになってますよ。三年もたつと、ケヴィン様との噂も忘れられてしまうものなんですね。まぁ、思い出して口にする人もいないではないですが、三年も会えなかったのにあんな短期間の帰郷で深い仲になるなんてほとんどの人が思わないらしくて、一笑に伏されてます。みんな好き勝手にうわさし合いますが、そのうわさのほんとうのところまでは知らないんですよね。──って、僕もすべてを知ってるわけじゃないですけど」
そう言ってロアルは、深夜をはばかって声をひそめて笑う。
連れていかれたのは下街にある酒場だった。
「すみません。ほんとはかっこよく別邸とかでも用意して生活資金も出してあげたかったんですが」
行きつけの酒場だという。お金までロアルに頼るつもりはないから、信用のできる人に紹介してくれるだけでもありがたかった。
「住むところと仕事か。急に言われても心当たりは……」
「追々探してもいいんで、ともかく今晩彼女を泊めてほしいんです」
「だが、何があっても責任はとれないぞ?」
カウンター越しに、ロアルは店主と交渉する。その隣に立っていたアネットは、酒と食べ物、どこかからただよってくるすえたにおいに気持ち悪くなって外に飛び出した。
建物の壁に向かって体を折り曲げるアネットの背中を、追いかけてきたロアルがさすってくれる。
「もしかしてにおいが駄目でしたか? つわりがひどいんでしたよね。となるとここは無理かなぁ」
ぼやくロアルに甲高い声がかかった。
「ロアルちゃんお久しぶり! その子、ロアルちゃんの彼女?」
派手なドレスを着た女性が、興味深げにアネットをのぞきこんでくる。
ロアルの名誉のために、アネットは急いで息を整えて答えた。
「ち、違います。ただの知り合いで……」
「何? 具合悪いの?」
「あ、いや。彼女、妊娠中で……」
「やだ! ロアルちゃん、彼女を孕ませちゃったの? ロアルちゃんのくせしてやっるー!」
けたたましい笑い声が、さきほどまで嘔吐いていたアネットの体にこたえる。
声を聞き付けてか、どこからか娼婦たちが集まってきて、ちょっとした騒ぎになってきた。
「ち、違いますよ! 僕じゃないです!」
「そうよねー。ロアルちゃんにそんな甲斐性あるわけないわよねー」
「じゃあこの子の腹ん中の子の父親は誰よ?」
「まさかヘリオット様っていうんじゃないでしょうね?」
ドスの効いた女の声に、陽気だった雰囲気が一変する。
「へ?」
この、ロアルの間抜けたつぶやきもいけなかった。
「ちょっと! ヘリオット様ってありえなくない!?」
「そんなことないわよ! 戦場から一時的に帰ってたの、ちょうど三カ月くらい前のことだわ!」
「ヘリオット様ってば、いつの間に特定の女をつかまえてたのよ!」
「いえ、それも違」
殺気立ってくる女たちに、ロアルのおっかなびっくりな否定はかきけされてしまう。
彼女たちはヘリオットの知り合いか。それもマズいなぁと思いながら、ともかくこの場を収拾しないといけないと、壁から手を離して振り返ろうとしたところで、凛と張った女の声が響き渡った。
「静かにおし! 道端で何騒いでるんだい!」
いっせいに口をつぐんだ女たちをかき分け、彼女たちと同じく派手めなドレスをまとった女性がアネットの隣にやってくる。
「レミナ姉さん、もしかするとその子ヘリオット様の」
「ちょっと黙っておいで」
気遣わしげに声をかけた女を、レミナと呼ばれたきつい顔立ちをした美女はぴしゃっとはねのける。
レミナはアネットをじろじろとながめまわし、それから耳元に口を寄せてささやいた。
「もしかしてあんた、ヘリオット様から避妊薬をもらったことがあったりするんじゃないかい?」
思わぬことを聞かれびっくりしてうなずくと、レミナは納得したような顔をして女たちを振り返った。
「この子の相手はヘリオット様じゃないよ。間違いない」
「えー? ホントですかぁ?」
「この子のことはちょっとだけ聞いたことがあるよ。ヘリオット様はこの子には絶対手を出さない」
レミナはそれだけ言うと、アネットのほうに向きなおった。
「それであんたは逃げてきたわけだ」
ヘリオットからどれだけのことを聞いているのだろう。バラされると困るから黙っていると、レミナはあきれたようにため息をついた。
「無理に答えろとは言わないけど、あんた、お腹の子を無事出産して、母子二人暮らせる場所が欲しいんじゃないかい? ──って、ちょっとあんた?」
アネットが驚いた顔をしたので、レミナも慌てたらしい。
子どもを産んで、一緒に暮らす。
一番に考えてもいいことのはずなのに、全然頭になかった。体調が悪くて妊娠を指摘されたけど、ほんとうに子どもができてるとは限らなかったし、けどもしほんとうに子どもがいるのなら邸に居続けることはできない。そのことで頭がいっぱいで、他に何も考えられなかったのだ。
アネットは自分の腹にそっと手を当てる。
ここに宿っているかもしれない命。宿っていなかったとしても、ケヴィンとのことを公爵に知られてしまう以上、もう邸には戻れない。
ケヴィンと二度と会えなくなると思うと、この子は決して手放せないと思った。
「もしかしてあんた、堕胎の相談にきたのかい?」
眉をひそめるレミナに、アネットはしっかりと首を横に振った。
「いいえ、産みたいです。そのために住む場所と仕事を探しています。いいところを知っていたら教えてくれませんか?」
初対面なのにずうずうしいと思った。でも子どもを産んで育てようと思ったら、なりふりなんてかまっていられない。
急に必死になりはじめたアネットに、挑むような笑みを見せた。
「そうは言われても先立つもんがなくちゃねぇ。……金は持ってるのかい?」
「……いいえ」
ためらいながら答えると、レミナはアネットを試そうとするように瞳の奥をのぞき込んできた。
「ならあんたは、自分の大事なものを手放す勇気はあるかい?」
その時、服の下に隠してある指輪に気付かれたのかと思ってどきっとしたけど、そうではないことはすぐにレミナの口から聞くことができた。
レミナが言った“大事なもの”は今アネットの手元にはない。
だがあれから二年、首の付け根のところからばっさり切った髪は、今では胸元あたりまで伸びている。そして手に入れたお金で部屋を借りることができ、当座の生活を支えてくれた。
切った当初は言い出したレミナですら、成人した女性がすることのないみすぼらしい長さに言葉を失ったが、指輪を手放せと言われるより髪を切ったほうが、アネットにはよっぽどかましだった。
どうしても置いてくることができなかった指輪。ケヴィンの母の形見であるこの指輪は、娘がもう少し大きくなったら、お守り代わりに持たせてやろうと思う。
アネットはほんとうに妊娠していて、生まれてきたのは女の子だった。
ブルネットの髪に藍色の瞳をした娘は、あまり泣いたりしなくて助かるけど、笑うこともなくて心配になる。でも、あやしてやれば機嫌よさそうに手足を動かすところをみると、感情に乏しいわけでもないらしい。
きっとケヴィン様に似て、表情を作れないのね……。
女の子なのにそんなところを似てしまってどうしようかと考えたこともあるけれど、ケヴィンに似てくれたということが嬉しくてたまらない。
産むと決意した当初はケヴィンとのきずなを手放せないと思っただけだったが、今はこの子自身がいとしくてならなかった。
自分はつくづくらっきーだと思う。いろんな人に助けられて危険をともなう出産を無事に終え、子どもの側にずっといられる仕事を得ることができた。ロアルが資金援助をしてくれると言ってくれたが、出産費用をちょっと借りただけで、そのお金も返し終えている。
エイミーと名づけた娘は、今はベッドの上でお昼寝中だ。その安らかな寝顔に、アネットの顔は自然ほころんでくる。
笑わないエイミーは生まれてすぐのころ、仲良くしてくれるご近所さんたちに気味悪がられていたが、泣いて面倒をかけることがないことから気に入られて、遊び相手になってもらえたり、ちょっとした外出の際、子守りを引きうけてもらえて助かっている。
最初に約束をかわしたロアルはもちろん、事情を知っていたレミナも、アネットのことは内緒にしてくれた。
そういえば、ヘリオットが融通してくれた避妊薬は、レミナがヘリオットに頼まれて分けたものだったという。レミナはただ、ヘリオットが友人のために避妊薬を欲しがっているとしか知らず、それを飲んだ時のことをアネットが話すと、あきれたようにこう言った。
──三年も前の薬を飲んだの? ばかね。そんなの効くわけないじゃない。お腹、壊さなかった?
お腹は壊さなかったが、病気知らずなアネットが薬には効果が期待できる期限があることなど知るわけがない。ヘリオットもそのことについて何も言わなかった。
ヘリオット様って、親切なのか不親切なのかわかんない……。
ただ、思いがけずに子どもができてしまったことも、長い目で見ればこれでよかったように思う。
ケヴィンが戦場から帰ってきて再会できても、いずれはケヴィンが結婚するためにアネットは身を引かなければならなかった。ケヴィンが結婚して妻となる人が邸に迎え入れられることになったとき、アネットに耐えられたかどうかわからない。ケヴィンには悪いことをするけれど、子どもというよすがを手に入れて離れざるを得なくなったことは、アネットにとってらっきーなことだったのだ。
この子のために生きていく。
その思いが、アネットに日々の活力を与えてくれる。
まだまだ短い髪を首の後ろで一つに束ね、時折娘を見遣りながら針仕事に専念していると、廊下から騒がしい足音が聞こえてきて、アネットたち親子の部屋の扉が乱暴に叩かれた。
アネットは思わず身をすくめる。
針を動かす手も止めて息をひそめていると、「開けないとドアをぶちこわすぞ」という野太いだみ声が、扉越しに聞こえてきた。