三章-2
「ねえ、聞いた聞いたぁ? ケヴィン様、また戦場に行かなくちゃならないんだって」
午後の仕事に遅れてやって来た使用人が、まっさきに言ったのがこれだった。
アネットは動揺して、思わずむきかけのじゃがいもを落としてしまいそうになる。
この三年間、その繰り返しだった。
“戦いに勝ったそうだ。”“戦略的退却だってさ。普通の退却とどう違うんだ?”“どうやらヤバいらしいぞ。防戦一方だそうだ”──王都にもたらされ、邸に広まるうわさに一喜一憂する。必ず帰ると約束してもらったって、何の気休めにもならない。不安なものは不安なのだ。戦場に行くことをすすめたのは自分なのに。
だからケヴィンが帰邸したときには心の底から安堵し、胸が熱くなった。
よかった。よかった。よかった。
踊りだしたくなる気持ちを抑え仕事をしている最中も、アネットは夜が待ち遠しかった。来てくれるとは限らないのに。あれからもう三年だ。ケヴィンはもうアネットのことを忘れているかもしれない。そんな想いを抱きつつも期待をぬぐうこともできないから、深夜ランプを細く灯して繕い物をしている最中も、耳をすまして何度も立ち上がっては小窓から外をのぞいた。
姿が見えた時、どんなに嬉しかったか。
けど、急に怖くなって、アネットは椅子に座り体を低めた。
三年前のことを思い出した。ただ重なっただけの長い長い口づけ。離れたのを合図にまぶたを上げれば、目の前のケヴィンの熱い瞳とかち会った。
──君にも約束しよう。必ず生きて帰ってくると。
すごく嬉しくて、思わずうなずいていた。でも、あとになって気付く。
その言葉は、この先に進むという意味にも取れなかった?
真っ赤になりながら、体の芯が冷えていく。口づけのその先を望む気持ちと、ケヴィンを苦しめたくないと拒絶する気持ち。相反する想いが全身を駆け巡る。
ケヴィンだって思ったはずだ。この関係には先がないと。
一度は離れようとしてくれたはずなのに、どうしちゃったの?
あのケヴィンから判断力が欠落したとしか思えない。
幸福は一瞬。苦悩は一生。
いっときの幸福に浸る誘惑を振り切って、アネットは立ち上がった。ランプを手に小窓に近寄り、ケヴィンの姿を再度確認して扉を開ける。口にしたのは以前と同じ言葉だった。その言葉にがっかりしたケヴィンに気付きながら、アネットはケヴィンにペースを持ってかれまいとしゃべり続けた。
幸福を我慢すれば、苦悩は長引いても一生は続かない。
そう、自分に言い聞かせて。
でも、本当に苦悩を忘れられる日が来るの? ここ三年、ううん、それよりも前からあきらめようとしてあきらめきれずにいたのに?
洗い場で皮むきをしていた下働きだけでなく、隣の調理場からも料理人たちが顔を出して、ちょっとした騒ぎとなっていた。
「ええ!? もう行かなくてよくなったんじゃないの?」
「それがさぁ、エラいお貴族様たちの間で何かあったらしいよ。今度は国王様が戦場に行くことになったんだって」
「じゃあさ、シグルド様はどうなるの? 総指揮官って軍で一番エラい人よねぇ? 国王様が行くんなら、国王様が総指揮官になるってことにならない?」
「だからシグルド様は大隊長に格下げになるのよ。で、格下げになったシグルド様にケヴィン様が書記官としてついていくってこと」
「それってひどくない? この二年間軍を率いてきたのはシグルド様よ? 軍が勝利できるようになったのもシグルド様のおかげでしょうに」
「馬丁のクリフもそこがお貴族様たちのおかしいところだって言ってたわ。シグルド様でも軍を勝利に導けるようになるまで一年以上かかったのに、いくら国王様でも一度も戦場に行ったことのない人がすぐに軍を指揮できるわけがない。時間と兵力のムダだって」
「それは、あれだ。シグルド様に軍の指揮をさせて、国王様は総指揮官の地位におさまることで、シグルド様の立てた手柄を国王様がせしめるって寸法じゃねえのか? 最近国王様のご威光は落ち目だからな。今まで虐げてきた息子を戦場で活躍させて、自分はのうのうと王都でふんぞり返ってるってさ」
「どちらにしてもひどい話じゃない。シグルド様はたった十八歳なのよ。それを戦場に追いやったり、格下げして自分のための手柄を立てさせたり、ひどすぎるわ」
「あんたやけにシグルド様のことをかばうようになったわよね。“ケヴィン様~”はどうしちゃったの?」
「ケヴィン様のことは今でも好きよ。でも成長して戦場から戻って来られたシグルド様もずいぶんとかっこよくなられたことない?」
「あたしもそれ思った! 無邪気なお子様だったシグルド様があんな風に成長するなんてびっくりよねぇ」
「いつも思うんだが、おまえら何で急に話が変わっても平気でしゃべり続けられるんだ?」
「内容ごとに切ってたら会話が弾まないじゃない。慣れよ慣れ。料理長もしゃべり続けてたらコツがつかめるようになるわよ」
「……そんなコツ、つかみたくもねーな」
笑い声が響く。
いつもの光景。ケヴィンのこともシグルドのことも、大きな話題として取り上げられても、所詮自分たちとは関わりのないこと。話が済めば忘れ去られてしまう。
でもアネットはそういうわけにもいかない。
ケヴィンが再び戦場に行くと聞いて不安になったのと同時に、一つの確信が胸の中に浮かび上がっていた。
戦場から帰ったその日の夜、ケヴィンはあきらめた様子で去っていって、それ以来アネットのもとを訪れることはなかった。
けれども今夜、きっとまた訪れるだろう。あの夜アネットが言わせなかった言葉をもう一度携えて。
人々が寝静まった夜、邸の中にかすかな足音が聞こえる。その音は次第に近づいてきて、アネットの部屋の前で止まり、わずかなためらいの後、小さく二度叩かれた。