二章-7
ケヴィンは家々の戸口にかけられた明かりをたよりに、夜道を急いだ。
ヘリオットの思い通りになるのはしゃくにさわるが、今すぐ彼女に会って確かめたくて。
──あの子は好きな男以外には自分を許さない女だ。
そうなのか? 本当にそうなのか?
なら、彼女が言った言葉の意味は──。
気が逸って、半ば走るように邸に戻ったはいいが、そこでケヴィンは途方に暮れた。
どのように尋ねたらいい?
“ヘリオットがこのようなことを言っていたが、君に心当たりはあるか?”とでも聞くのか?
何から何までヘリオットのおぜん立てに乗って、恥ずかしくないのか?
そもそも知ってどうする? 彼女が自分を好きだとしても、何がどうなるわけでもない。
ケヴィンには役目がある。然るべき家から妻を迎え、跡継ぎをもうけて、国のために働く。
彼女は次期公爵の妻にふさわしいとはとても言えない。かといって彼女を愛人の立場に置くつもりは毛頭ない。愛人を持つのは妻に対して不誠実だし、彼女を日蔭の身に置いて不幸になどしたくない。
彼女の気持ちを知ろうが知るまいが、結局は何も変わらないのだ。
なのに知りたいという思いが止まらない。
迷い悩んでいるうちに、ケヴィンは知らず裏庭の井戸の側まで来ていた。
彼女の部屋の前に立つこともできず、ただただじっと真っ暗な井戸の穴を見つめ続ける。
どのくらいそのようにしていたのか。
そんなに経っていなかったようにも思う。
静けさの中にかたんという音が聞こえた。
はっとして音がしたほうを見れば、扉がそっと開かれるところだった。
「ケヴィン様?」
かすかだけれど、はっきりとケヴィンの耳に届く声。
小さな、手元しか照らさないほど小さなランプを持って、彼女が暗がりの中に出てくる。
本当に警戒心のない。ここにいるのが、ケヴィンではなく危険人物だったとしたらどうするつもりなのか。
しかし彼女は、迷うことのない足取りで、ケヴィンの側までやってきた。
「どうしたんです? 声かけてくださいって言ったじゃないですか」
屈託なく話しかけてくる。
今ここで、ケヴィンの抱えている葛藤を打ち明けたら、彼女はどんな反応をするだろうか。
「今日は酔ってないみたいですね」
ケヴィンがそんなことを考えているとも知らず、アネットはいつものようにできるだけ音を立てないように井戸から水を汲んだ。持ってきていたコップで汲んだばかりの水をすくい、ケヴィンに差し出す。
「早く中に入ってくださいよ」
他の者に見られたくないと常々言っているのは覚えている。だが簡単に男を部屋に誘う彼女に心配は尽きない。
──誘うのはケヴィンだからか?
部屋に戻りかけたアネットは、数歩行ったところでケヴィンがついてこないことに気付いて戻ってきた。
手元のランプに、彼女の顔が浮かび上がる。困ったようなあきれたような顔をしているが、そこに警戒の表情は一切ない。
たったそれだけのことに胸が震え、引き寄せられるようにケヴィンの体は前に傾いだ。
「え? ケヴィン様?」
彼女は肩と空いている方の腕を使って、慌ててケヴィンを支える。
ケヴィンが受け取ったコップの中身が跳ねて、ぱたぱたと地面に散った。
「あれ? やっぱり酔ってるんですか?」
ケヴィンは彼女の肩に顔をうずめるようにしながら思った。
酔っている……。そうかもしれない。
頭がくらくらして思考が定まらない。たがの外れかけた心に、不埒な思いがよぎる。
このまま酔った振りをして、彼女を抱きしめてしまえたら──。
背中に手を回したくなる衝動に耐えて動けずにいると、彼女のランプを持つのとは逆の腕がそっとケヴィンの背中に回される。
自分でも滑稽だと思えるくらいに、背中が大きく揺れた。
それに気付かなかったわけがないだろうに。
彼女はまるで気にした様子なく、そばにあるケヴィンの耳元にささやいた。
「気分が悪いんですか? あたしの部屋で休んでいきますか?」
ケヴィンはかっと火照り、全身を硬直させる。
どのようなつもりで、そんなことを言うのか。
──だったらお相手しますよ?
二年ほど前に彼女が口にした言葉が、脳裏に巡る。
あのときは冗談だと思った。小うるさいケヴィンを黙らせようとして、思ってもないことを口にしただけだと。
だが、違うのか?
先程のヘリオットの言葉が、アネットの言葉に混じって渦を巻く。
──あの子は好きな男以外には自分を許さない女だ。
酒場を出る前から繰り返される自問が、再びわき上がってくる。
そうなのか? 本当にそうなのか?
だから彼女は、こんなにも無防備にわたしを受け入れるのか?
渇望する。
知りたいと。
知ったところでどうにもならないとわかっていながら、どうしようもないくらいに身の内が騒ぐ。
乾いた喉が水を欲するように。
肺が空気なしではいられないように。
何故これほどまでに望むのか、理由を考えられないほどに切羽詰まりながら、かろうじてたった一言紡ぎ出す。
「君は、わたしが好きなのか……?」
どのように尋ねたらいいのかとさんざん悩んだ甲斐のない、唐突で単純極まりない言葉だった。
肩口でケヴィンの頭を支える彼女が、ほんのわずか息を飲んだような気がした。
「……好き、ですよ?」
少しの間を置いて返ってきた答えに、ケヴィンは片手にコップを持っていたことを忘れ、彼女の両肩をつかんで自分から引き離した。
木のコップが地面に落ち、コップを満たしていた水が足元にぶちまけられる。
互いに、そのことに気をとられることはなかった。
ランプのかすかな光を頼りに、二人の視線がからみあう。
驚きに目を見開くケヴィンに対して、アネットの無表情にも近い顔からは感情の色がうかがえなかった。
何を思ってそのように言うのか。
その言葉は本当なのか、嘘なのか。
言葉の意味とちぐはぐな反応にケヴィンが戸惑っていると、アネットはもう一度口を開く。
「好きにならないわけがないです」
そう言って、彼女はにっこりと笑う。
「小汚い落し物を拾ってくれるし、お菓子は食べさせてくれるし、これで好きにならないわけがないです」
ケヴィンは少なからぬ落胆と、猛烈な自嘲を覚えた。
自分一人動揺している。他人の言葉に惑わされて、気分を高揚させ落とされる。何とも滑稽ではないか。
冷静になって考えれば、わかりきっていたことだ。
このような返事しか返って来ないと。
彼女はなれなれしいようでいて、実のところケヴィンには一定の距離を置いている。ケヴィンは貴族で、アネットは平民で使用人。そのことを彼女は自覚しすぎている。
だからもし彼女がケヴィンに想いを寄せていたとしても、それを口にすることはない。
──ですから、夜のお供にあたしをご所望でしたら、お相手しますって。
二年前、何を思ってこのように言ったのか、ケヴィンにはわからない。
だが、問い質したところで彼女が心の内を語ることは決してないのだろうということだけは察せられた。
そして、彼女が胸におさめた想いを、ケヴィンに問い質す資格はないのだ。
腕を伸ばしてさらに彼女を引き離し、ケヴィンは顔をそむけた。
「──そうか」
彼女を抱きしめたい衝動はいつの間にか消え失せ、ケヴィンはのろのろと歩き出す。
アネットの部屋から離れていくケヴィンに、彼女は小さく声をかけた。
「どちらに行かれるんですか?」
「……殿下を、酒場に置いてきてしまっているんだ」
顔を合わせづらいからといって、仕えるべき方を置いてきていい理由にはならない。
いや、それを言い訳にしていたのだ。彼女に早く確かめたくて、──会いたくて仕方なくて。
「今夜はこちらからは戻らない。早く休むといい」
「そうですか。──おやすみなさい」
背を向け顔を見ないまま言えば、さびしげな彼女の返事に呼びとめられたような気さえする。
──呼びとめられてなんかいない。そう思いたいだけだ。
「……おやすみ」
振り切るように一言言うと、ケヴィンは大股に歩き出した。
邸の表に回り、通用門をくぐって通りに出る。
ふと、空を見上げた。
空いっぱいにちりばめられた星と、ぼんやりと浮かぶ欠けた月。
見つめればそれなりにまぶしいのに、降ってくる光は地上をほとんど照らさない。
届きそうで、届かない。
彼女の心と同じように。
どんなに望んだところで、手に入れることはできない。
──……ああ、そうか。
ケヴィンは見上げた目を手のひらで覆った。
欲しいんだ、彼女の心が。つまりは、わたしは彼女を──。
芽生えたばかりの想いを、ケヴィンはうつむき、頭を振って打ち消そうとする。
望んではならない。
想いが結ばれたとしても、幸せな未来はないのだから。
不幸になるのは自分じゃない。彼女だ。
だから。
彼女が大事なら、これ以上踏み込んではいけない。
彼女が作ったこの距離を自分も守ろうと言い聞かせ、ケヴィンは下を向いた顔から手のひらを外した。
守り通せないのなら、二度と彼女に近付いてはならない。
街路を照らす家々の明かりが乏しくなりつつある夜道を、決心を胸に刻みつけるかのように踏みしめながら、ケヴィンは下街の酒場へと急いだ。
シグルドはその夜を境に、次第に落ち着いていった。何かをふっ切ったように以前の快活で人を惹き付けずにはいられない明るさを取り戻していく。
しかし、すべてが元通りというわけではなかった。
シグルドの面差はどことなく大人び、子どもらしい無邪気さが消えた。
時が否応なく流れていくのと同じで、人も立ち止ってはいられないのだと思う。
子どもは大人にならなくてはならず、人は常に未来を選び取って先に進まなくてはならない。
彼女との未来が選べないのなら、そろそろ潮時なのかもしれない。
彼女と偶然交わった道を元通りに分かつ。
そうすべき時が近付いている。
シグルドの酒場通いは落ち着いてからも続き、お目付役であるケヴィンは酒を控えるようになって、わざわざ裏庭に回って邸に入ることはしなくなった。
その頃より、今までなかなか仕事を回されなかった下級貴族出身の近衛隊士たちにも、王家の人々や彼らの住まう王城内の館の警護を任されるようになる。見習い身分であるケヴィンたちも忙しくなり、全員が一度に余暇を取れなくなっていった。
そのため仲間たちをクリフォード邸に招く機会も減っていき、同時に菓子を使用人に配る習慣も、深夜彼女に菓子を持っていくこともなくなった。
今は胸に痛みを抱えていても、会わずにいればやがて彼女とのことを過去の出来事にできるだろう。
そう思っていた。
──・──・──
それから二年が過ぎ、シグルドがもうすぐ15歳になるという頃。
隣国の内乱は、さまざまな思惑を持って介入する他国によって、戦況が激化していく一方だった。
参戦するラウシュリッツ王国軍は、思うような戦果を上げられず、敗退に次ぐ敗退を余儀なくされていた。
このまま行けば何の利も得られないまま隣国から軍を引き揚げなくてはならない。
そこでラダム公爵は、戦況の打開策としてシグルドを国軍総指揮官にすることを提案した。戦場に王族が赴けば士気が上がる。その役目は武術に秀でたシグルドこそが適任であろうと。
これにはクリフォード公爵も反対したが、状況的にそれが妥当であったために議会の承認を受けて国王が決定を下してしまった。
そこにもう一つの問題が持ち上がる。
「おまえは駄目だ」
「何故です!? わたしの武術の腕が劣るからですか!?」
クリフォード邸、公爵の執務室で、ケヴィンは必死に食い下がる。
執務机に腰を落ちつけた父トマスは、手元の書簡を脇によけて机の上で両手を組んだ。
「それだけではない。もし殿下と共におまえにもしものことがあったら、貴族の均衡の崩れを抑えられない」
もしもの時──それは戦死するということだ。戦況から見てその危険性が高いからこそ、なおさら共に在って守りたいと思うのに。
シグルドの出征が決まる直前、クリフォード公爵トマスは息子の意思確認もせずに、ケヴィンの近衛隊除隊届けを出してしまっていた。
近衛隊の中でも下級貴族の一派は、シグルドの護衛として戦地に赴くことになった。その中にケヴィンが含まれるのを回避する狙いがあったのだろう。
常日頃はおだやかな笑みを浮かべているトマスが、今は表情を引き締め厳しい視線で目の前に立つケヴィンを見上げる。
「国王陛下と王妃陛下、王太子殿下とその婚約者までもがラダム公爵とつながりが深い。その上王位継承権第二位のシグルド殿下と第三位のおまえまでが失われれば、ラダム公爵の孫の継承権が繰り上がり、もはや誰もラダム公爵の思惑を止めることはできない。……わたしがふがいないばかりに、殿下をみすみす危険にさらすことになってしまった。だが、だからこそ、おまえは守り通さなくてはならないのだ。おまえならば近衛隊を除隊してわたしの後継になるための勉強に専念するということにすれば出征を免れる。これ以上ラダム公爵の暴走を許すわけにはいかん」
そのことは理解している。だが、納得できるものではない。それでケヴィンは父を追って邸に戻り、執務室にまで乗り込んで抗議しているのに。
「トマスの言う通りだ」
ケヴィンについてきていたシグルドが、背後から声をかけてきた。
振り向けば、ここ数年でずいぶんと背が伸び男らしい顔つきになってきたシグルドが、真剣なまなざしでシグルドを見据えている。
「おまえまで戦場に赴けば、ますますラダム公爵の思うつぼだ。それは絶対に阻止したい。俺からも頼む。ここに残ってくれ」
二人の言っていることはわかる。本来ならそうすべきだ。
ラウシュリッツ王国を建国当初から支えてきた三公爵は、最年長であるラダム公爵の策略によってその均衡を崩しつつあった。ペレス公爵の血縁には現時点で王位継承権を持つ者が一人もおらず、現国王に血縁のある他国の王女を嫁がせ自身の姪を王太子妃候補に推したラダム公爵が、議会、ひいては国王自身にも大きな発言力を持ち、国を私物化せんとしている。
それを阻止する側に回っているのが、クリフォード公爵の後見を持ったシグルドと、公爵の跡取りであり王位継承権を持つケヴィンの存在なのだ。
二人がいるから、クリフォード公爵は多少の発言力を保つことができ、ラダム公爵の専横抑止のために動くことができる。
今の状況でも国はほとんどラダム公爵の言いなりに動いているのに、その上シグルドと、ケヴィンまでもが失われたら、誰もラダム公爵を止めることはできなくなる。
わかってはいるが、それでいいのか?
幼い頃からずっと守ってきた王子。それを今になって見捨てろと?
「このことはクリフォード公爵派の主だった者たちとの話し合いで決まったことだ。貴族である以上、個人の感情のみで動けない時があることも知っているだろう。おまえが殿下をどれだけ大事に思っているかわかっている。だが、ここは耐えてくれ」
父に苦渋をにじませた表情で言われてしまうと、ケヴィンにこれ以上の抗議はできなかった。
父も派閥の者たちも、この決断を好ましいと思っているわけではない。
そうせざるを得ない。やむを得ないだけなのだ。
シグルドが戦地に向けて出発するのは、十五歳の誕生日を迎える日と決まった。
残り少ないわずかな日々を今のうちに楽しもうと、シグルドや共に行く近衛隊士たちは下街に繰り出す。
ケヴィンも誘われたが、行けるはずもなかった。
自分一人、置かれた立場ゆえに戦場に赴くのを免れる。
それでいてのうのうと顔を出せるような神経を、ケヴィンは持ち合せていなかった。
その夜、早々に自室に引き上げ、戸棚に置かれていた酒を片っ端から空けた。
酔いつぶれてしまいたかった。
けれど酔いが回ってくる様子は一向になかった。
飲めば飲むほど頭が冴えるようで、昼間のやりとりが鮮明に思い出される。
どうしようもない。だが割りきることもできない。
ケヴィンは部屋の外に出た。
酔えなかったけれど、心のたがは外れかけていたのかもしれない。
気付けば洗濯室の前、彼女の部屋のすぐ近くにまで足を運んでいた。