二章-4
アネットに感想を聞きに行ったのは、料理人から聞かれただけでなく、ケヴィンも知りたいと思ったからだ。
料理人は自信作だと言った。近衛仲間たちにも好評だった。
だから彼女がどういう感想を持ったか、興味があった。
しかし彼女の口から聞かれたのは、どこか言い淀んだ感じのするあいまいな言葉ばかりだった。
その上、半ば強引に話を終えようとした。
彼女らしくない、どこか逃げ腰な態度。
思わず追究したくなったが、寸でのところで思いとどまった。
少しも顔を上げず話し続ける彼女の様子に、問い詰めれば傷つけてしまいそうな雰囲気を感じ取って。
これも彼女らしくない。ケヴィンが警戒心を持たせようとして脅しをかけたときだって平然としていて、むしろケヴィンのほうが焦って慌てさせられたというのに。
問いかけの言葉を口にするのを止めると、他の言葉も出てこなくなった。
彼女との間に生じた初めての沈黙に耐えきれなくなって、ケヴィンは早々に彼女のもとを辞した。
聞かないと決めたのなら、忘れてしまうのがいい。
気持ちを切り替えようと夜の庭を散策した。けれど疑問が強くなるばかり。ベッドに入ってもなかなか寝付けず、疑問を翌日まで持ち越した。
「おいおい、どうしたよ。気ぃ入ってねーな」
近衛仲間があきれ声で言う。
訓練用の剣を不意に打たれて取り落としてしまったケヴィンは、恥入りながら剣を拾った。
今は型の訓練だ。二列に並んで向きあい、決められた型通りに剣を振っていく。ただ、それだけだと緊張感を持続させにくいので、向きあった相手に打ちかかっていってもいいことになっていた。
型を間違えないように剣を振り、相手からの攻撃に注意し、逆に打ち込む機会をうかがう。
そんな訓練のさなかにぼんやりしてしまい、ちょっと剣を叩かれただけで落としてしまった。
何をやっているんだ、わたしは。今は集中すべき時ではないのか。
剣を拾って身を起こすと、型を続けている周囲の仲間たちに合わせて、ケヴィンは剣を振りはじめる。
「すまなかった。また頼む」
相手は軽く肩をすくめ、それからすぐに打ち込んでくる。振り下ろされた剣を、ケヴィンは型の流れを利用して打ち返した。
その後は何とか集中を保つことができたが、それで疑問が消えたわけではなかった。集中するために抑え込んでいた分、戒めを解いた途端考えが占められてしまう。
どうしてこんなにも気になるのか。
彼女らしくない。そう思ったのが疑問の始まりだったが、らしくないと言えるほど彼女のことを知っているわけじゃない。
なのに忘れられないのだ。引っかかりを覚えてしまった彼女の言動を。
このままでいては、翌日には更に集中力を欠いていることだろうと想像がついた。
疑問を解消しなければ。
だが、彼女に問うのはやはり気が引けた。
かといって、使用人頭のビィチャムや他の使用人に聞くわけにはいかない。問えば以前のように誤解されるだろう。あのときは誤解を解くのに苦労した。ぼろぼろの服を見かねて指示を出しただけと言っても変に勘繰られて。何とか解けたからよかったものの、そうでなければ彼女に迷惑をかけるところだった。あの時以降、彼女とたまに会っていると知られれば、今度こそ何を言っても通じないだろう。
ならばどうしたらいいか。
悩んだ末、夜、シグルドが家庭教師に勉強を教わっている最中に、私室に戻ってロアルに言った。
「内密に調べてほしいことがある。絶対に他言無用だ。守れるか?」
書斎机の肘掛椅子に座り、机の上に肘を突いて顔を上げる。
そしてケヴィンはぎょっとした。
「……何て顔をしている?」
目をきらきらさせ喜色満面な表情をしながら、胸の前で両手を握り合せていたロアルは、ケヴィンが気味悪そうに目をすがめたにもかかわらず、諸手を上げて叫んだ。
「主人から内緒話!」
「声が大きい!」
騒いだら内緒話も内緒でなくなる。
ロアルは夜の外出が多くなったケヴィンに父公爵がつけた従者だが、人に仕えるのは初めてだといい、今はただケヴィンのあとをついてくるだけだ。ケヴィンも従者をつけて歩くのはこれが初めてなので、ロアルの扱いに迷っている部分も多い。
今回初めてついてくること以外の仕事をロアルに頼もうとしたのだが、ケヴィンはすでにその判断を後悔し始めていた。
「それで何を内密に調べればいいんですか?」
「……」
声をひそめながらわくわくと聞いてくるロアルにげんなりしながらも、彼にしか頼めないことを思い出して、ケヴィンはしぶしぶ切り出した。
「先日邸の者たちに菓子が配られた時、使用人全員に菓子が行きわたったかどうかを調べてもらいたい。できそうか?」
ロアルはあごにこぶしを当てて首をひねった。
「聞いて回れれば簡単ですけど、内密にってことになると難しいです。そもそも何で内緒にしなくちゃいけないんですか?」
近衛隊士たちに飲まされて酔いつぶれたり、明け方直前に正面玄関の扉を叩いて大騒ぎをしたりと頭を抱えてしまう行動の多いロアルだが、頭の回転は悪くないらしい。するどいところを突かれて、ケヴィンは喉をつまらせる。
ロアルの言う通り、使用人全員に確認するなら内緒にする必要はない。ケヴィンが指示したことなのだから、それがきちんと行われているか調べるだけのこと。
しかし、ケヴィンが知りたいのは特定の一人に配られているかどうかだけだった。もし配られてなかったとしても、彼女が隠したがっているからには表ざたにするわけにはいかない。
ケヴィンが返答に悩んでいると、ロアルは「んー」とうなりながら考え込んで、それから口を開いた。
「もしかして、知りたいのはアネットさんに関してだけだったりしませんか?」
「──! 何故彼女のことを知っている!?」
ケヴィンは誰にも、アネットのことを話していない。
まさか彼女とのことを、使用人たちに知られているのか!?
焦って腰を浮かせかけたその時、ロアルはあっさりと答えた。
「ヘリオット様から聞いたんです」
ケヴィンは椅子に座り直し、額を押さえた。
そうだった。ヘリオットだけは知っていたか……。
もちろんヘリオットにも話したことがない。だが、夜中邸に帰る時、いつの間にかついてきていて知られてしまった。
隊内で言いふらす様子がなかったから、油断していた……。
うなだれるケヴィンに、ロアルはすねたように言う。
「そういう話は事前に教えておいてくださいよ。そうすれば普段から関係ありそうな噂を集めておきますから。もちろん秘密厳守もわかっています。それでアネットさんのことなんですが、多分食べてないと思いますよ」
何でもないことのように続けられた言葉に、ケヴィンは表情を引き締めて顔を上げる。
ロアルは気にした様子もなく続けた。
「彼女、この邸の中で立場がめちゃくちゃ弱いんですよ。拾われて育ててもらった恩義もあってせっせと働くんだけど、他の人たちがそれにつけこんでいろんな仕事を押しつけてるみたいで。お菓子も、誰かに欲しがられてあげちゃったんじゃないでしょうか」
「拾、われた……?」
「そうです。この邸の前に捨てられていたのを公爵様が拾われて、使用人に育てるようおっしゃったんだそうです。公爵様はそれっきりアネットさんに関わらなかったそうですけど、オルタンヌさん──今の女使用人頭さんは、亡くした娘さんの名前をつけて大事に育てたんだそうですよ。ですがやっかむ人はどこにでもいるんですね。オルタンヌさんの娘として扱われるアネットさんが成長してくるにつれて、オルタンヌさんの後釜を狙う人たちがアネットさんを邪険にするようになって、そのうちみなしごが自分たちと同じ扱いなのはおかしいと抗議を始めたっていいます。そうしたらアネットさんは自分から下働きになると言い出して、それまで住んでいたオルタンヌさんの部屋からも出たんだそうです。ですが、アネットさんが公爵様に拾われてオルタンヌさんに育てられたっていう事実は変りませんからね。いつ上の使用人になってもおかしくない立場を妬んで厳しく当たる人とか、妬む人がいるせいでアネットさんが強気に出られないのをいいことに利用してる人とかいるみたいです」
話を聞いていくうちに、憤りがこみあげてくる。
「生まれや生い立ちは彼女のせいではないだろう? そうした者たちは、罰せられてもおとなしくならないのか?」
ロアルに向ける視線がついきつくなった。ケヴィンににらまれて、ロアルは少しびくびくしながら答える。
「ば、罰せられてはいません。ホントにささいなものなんです。他の人より八つ当たりされやすいだけだったり、仕事を押しつけられるといっても、一人じゃとてもできないような量を押しつけられてるわけでもなくて。最初の頃はもう少しひどかったらしいですけど、彼女が下働きとしてなじもうと頑張ったからでしょうね。今では他の下働きと大差ない扱われ方をしてます。まあ、その“他の下働き”たちが図に乗ってアネットさんに仕事を押し付けるんですけど。──ここで下手に罰したりしたら、アネットさんを特別扱いしたことになって、せっかくのアネットさんの努力が水の泡になってしまいます」
彼女の努力。
その言葉に、怒りがすうっと引いた。
──ホントにささいなものなんです。
そうしたものに、ささいも何もない。悪意は悪意だ。彼女を貶め傷つけようという意図に変わりない。
彼女の努力で減っているというが、本当に放置しておいていいのか?
彼女を拾ったという父はこのことを知っているのか? オルタンヌは自分の養い子がそういう目に遭っているのに何もしないのか?
視線を落とし悩み始めたケヴィンに、ロアルは励ますように言った。
「アネットさんなら大丈夫ですよ。そういうイジワルをする人たちを、周りの人間はちゃんと見てます。イジワルをする人は嫌われやすいですからね。今では彼女たちのほうが、肩身の狭い思いをしているかもしれません」
「どうしてそう言い切れる?」
疑いの目をして質問を投げかければ、ロアルは胸を張って答えた。
「それはこの噂を聞けたからです。僕の考えも多少挟みましたけど、ほとんど聞いたまんまですよ。アネットさんが今でもよく思われてなかったら、こんな好意的な噂にはならないでしょう?」
確かにその通りだ。
ロアルはケヴィンが思っていたより、頭の回転がいいらしい。
彼女が前回の菓子を食べていないかもしれないことはわかった。
それと同時に、生い立ちや置かれた立場も。
彼女とは数えるほどしか会っていない。だが、ロアルから聞く彼女の話は、ケヴィンが想像もしなかったものばかりだった。
彼女の立場が弱くて、八つ当たりされたり仕事を押しつけられたりしている?
ケヴィンが見ていた彼女からは、そうしたことは一切感じられなかった。明るくて能天気で、ケヴィンが心配するほどに無頓着で。
しかしそうした印象のすべてが、彼女の努力の成果だとしたら……?
それからケヴィンは、使用人たちの声を注意して聞くようになった。
ケヴィンの遠くで、あるいは近くでケヴィンに聞こえないようにとささやかれる会話から、さまざまな人間関係が感じ取れるようになる。役目だけではわからなかった使用人たちの上下関係や交友関係、誰が好かれていて誰が嫌われているかなど。
散策の折り、裏庭に回って使用人たちに見られないところから話を盗み聞いた。
「今日、やたらと洗濯物に破れがみつかることない? あたし、裁縫嫌いなんだよね。あーめんどくさ!」
「あの子にやらせればいいよ。よろこんで引き受けるから」
「アネットって仕事を押しつけられても嬉しそうに引き受けるよね。押しつけられてるってわかってないんじゃない?」
明るい笑い声が響く。悪気の自覚がないからか、一層醜悪に聞こえる。
彼女たちは知らない。アネットが毎夜遅くまで繕い物をしていることを。そうして懸命に、自分の居場所を守っているということを。
どうして彼女が使用人全員に菓子を配るよう言ったのか、本当の理由がわかったような気がした。
男でも甘い物好きは多いものだ。
世間では男が菓子などを口にするのがはばかられる中、ここなら人目を気にせず食べられるということあって、クリフォード公爵邸に招かれるのを楽しみにしている近衛隊士も多い。
出した菓子を、彼らは遠慮なく平らげていく。帰る頃にはひとかけらも残らない。
取っておきたいなら今しかない。
彼らが一つの話題に盛り上がっている隙を見て、ケヴィンは持っていたハンカチにこっそり菓子を包もうとした。
それをシグルドに見られてしまう。
「何やってるんだ?」
ソファの背もたれのほうから手元をのぞきこまれて、ケヴィンはしくじったと思った。理由の説明をできるわけがないから、気付かれないようにしたかったのに。
「ケヴィンは菓子がそんなに好きじゃないだろ? 誰にやるんだ?」
最近ヘリオットたち近衛仲間の口を真似て、シグルドの言葉遣いはあまりよろしくない。かといって彼らの前であまり丁寧な言葉を使うと嫌な顔をされたりからかわれたりするので、言葉遣いを正すようにとはなかなか言えない。
返答があると信じて疑わない目で見つめられ、どう答えたものかと迷っていると、ヘリオットがシグルドのうしろにやってきてシグルドの肩をぽんと叩いた。
「そーいうことを聞くのは野暮ってもんだよ、殿下」
ヘリオットが口にした下世話な言葉に、ケヴィンは口に何も入れていないのにむせ返りそうになった。
「“野暮”って何だ?」
無邪気に尋ねるシグルドに、ヘリオットはにこにこ笑いながら答える。
「聞いたりしないで、想像して楽しめってこと」
……野暮とは無粋。人の機微、特に男女間の情のやりとりにうといということだ。
ヘリオットの説明は正しくない。でも何故か、間違っているという気もしない。
訂正すべきと思いながらも、聞かれたくない話を抱える自分に話が向くのは困る。
ぐるぐると考えているうちに、シグルドとヘリオットの間で話が進んでいた。
「わからないことをどうやって想像するんだよ? そんなことして楽しいのか?」
「楽しーよ、とぉっても。たとえば、こういうお菓子が好きなのはどんな人だと思う?」
「おまえらとか?」
「はははっ確かに。そーじゃなくて、世間一般にお菓子が大好きだって言われてる人たちがいるだろ?」
「うーん……」
背もたれから離れ、シグルドは腕を組んで考え込み始める。
シグルドと接する女性と言えば世話係をはじめとする使用人ばかりなので、思い付かないのだろう。
ヘリオットも察したのか、すぐに答えを出した。
「女性や子どもがこーいうのを喜ぶんだよ。殿下は甘いものが大嫌いだから、例外だけどね」
「そういうものなのか? ……俺もちょっともらっていこうかな」
その言葉にぎょっとして、ケヴィンはソファから立ち上がった。
「殿下! もしやどなたか親しい方がいらっしゃるのですか!? どこのどなたなんです!?」
するとシグルドは、目元を赤らめてふいと視線をそらした。
「誰だっていいだろ?」
その反応に、ケヴィンは青ざめる。
シグルドがわざわざ菓子を持っていきたくなるような相手に、ケヴィンは心当たりがない。子ども──同世代以下の同性の友人相手に、このような表情はしないだろう。
それに何より、シグルドがケヴィンに隠し事をするなんて、今までになかったこと。
ケヴィンは思わず声を荒げていた。
「よくはありません! 殿下は我が家でお預かりさせていただいているとはいえ、れっきとした王家の血を引く王子であらせられます! わたしは」
「おいおい、そんなとこまで口出すのかよ。いいじゃないか、誰と親しくしたって」
ヘリオットのあきれた声が、ケヴィンの言葉をさえぎる。
ケヴィンはヘリオットをにらみ付けた。
「いいわけがないだろう! 殿下がどのような相手と親しくなさっているか知っておかなければ、何かあったあとでは手遅れになる場合だってあるのだぞ!?」
“そこまで”親しくしている相手を、ケヴィンが知らなかったことが大問題だ。シグルドは王城でたまに姿を消すが、その時に会っている相手に違いない。それ以外の行動は把握できているのだから。父は子どものすることだから問い質さないようにと言っていたが、特定の相手と親しくしているのを見過ごしていいとは思えない。
「そんなに過保護にしてどーすんの」
ヘリオットは小馬鹿にするように口の端を上げる。その態度にケヴィンは苛立った。
「過保護になどしていない! わたしは交友関係にまで口を出すつもりはない! ただ、把握しておきたいだけで」
「それが過保護だって言ってんの」
言い合いを始めたケヴィンとヘリオットに、他の近衛隊士たちは何事かと興味津々に集まってくる。
そしてケヴィンが過保護かどうかの議論が始まってしまい、シグルドの交友関係についての言及を忘れ、同時にケヴィンが答えられずにいた話もうやむやになった。