常識と非常識と気づかぬ幸運 ③
かすむ意識を何とか保ちながら“彼女”に“契約”の返礼をしたあと、精神的にひどい疲労感に見舞われていたイリキは、“彼女”が勧めるままに、用意された天幕で早々に休むことにした。
柔らかな寝具は、すぐにでもイリキを眠りの世界へと誘おうとするが、イリキは閉じてしまいそうなまぶたをどうにか押し上げて、同じように眠ろうしているコマのほうをみる。
どうしても、コマに聞いておきたいことがある。
視線を感じたのか、大きく息をついていたコマがこちらを向いた。
その大きな黒い瞳が驚いたように、くるり、と動く。
ふ、と意識が飛んだ。
「あのね、イリキ。確かに、彼らにとって、“真名”はとても大切なものだよ。だけどね」
コマはまっすぐにイリキを見つめたまま、にっこりとどこか無邪気に笑った。
「彼らには、もっともっと、大切なものがあるんだよ」
「・・・大切なもの?」
突然の話に、意識を覚醒させる。
瞬きを繰り返して前後の記憶の一致させようとしていると、コマはいたずらを思いついた悪ガキそのものの表情をチラリと浮かべ、イリキに向かってとっておきの内緒ばなしをするように身を寄せて来た。
「“彼”はどうしてそんなに必死で“彼女”を助けたかったんだと思う?」
イリキは眉を寄せて、少し考えたあとに慎重に口を開いた。
「“彼女”が“彼”の“直系眷属”だからだろう?」
人の身から“人ならざるもの”への転身は、これまでの長い歴史のなかでも片手で足りる程しか確認されていない。ましてや、“彼”ほどの存在の“直系眷属”。言ってみれば、我が子のようなもの。その存在を守るためなら必死にもなるだろう。
それこそ、コマの言葉を借りれば、藁にもすがる思いで強制一蓮托生、とばかりに“水玉”をコマ託した“彼”の行動が意味するところは、それだけ“彼女”のことを気にかけているということで。
そう答えれば、コマはわかっていないなぁ、と生意気な顔で頭を振る。
小さな声で、防音のための“場”を構築したのを感じ取って、すぐに新たな “場”を上にかぶせるように展開した。
今日一日で、コマが“場”を構築するときは、爆弾発言を警戒しなければならないということは身に染みてわかっている。
警戒の強さがそのまま“場”の強固さとなって現れているが、コマに関して言えば、警戒してしすぎることはないだろう。
どこか呆れたようにイリキが作り出した“場”を眺めていたコマは、気を取り直して、イリキのほうに少し体を寄せてきた。
「『水守の御子人』はね、今の修行が終わったら、」
強調するためか、わざと言葉を区切って、にやり、と何かをたくらむような笑みを浮かべて見せる。
ものすごく嫌な予感に身を引こうとして、
「『水守の命』になるんだよ」
固まった。
“命”。
“水守の命”。
“直系眷属”としてでもなく、我が子の様な存在としてでもなく。
己の“命”となる者。
『我が命』。
“真名”に込められた強烈なまでの意思に、ぞくり、と背筋を震わせた。
相変わらずイリキの精神状態に全く気づかないコマは、楽しそうに言葉を続ける。
「“彼”はね。わざと“彼女”に自分の名に連なる名前をつけたんだよ。名が繋がっていれば、修行中でもある程度“彼女”の状態がわかるから。この修行が終わったらミコトは“守護精霊”として完全な存在になる。そしたらね、彼女は、『水守の命』が“真名”になるんだ」
“真名”が変わるなんて、珍しいでしょ、とのんきに言うコマにイリキは、自分の意識が再び遠くに行ってしまいそうな気がした。
わかってない。
本当に、この子供は、肝心な部分がわかってない。
「・・・なぁ、コマ。それは、ものすごい執着心、って言うんじゃないのか?」
その名は、他者に対して宣言するためだけでなく。
その名を持つもの自身にこそ、刻むためのもの。
奪うことも、逃げることも許さず。
存在そのものを、命を、繋ぎ束縛する意思。
それをなぜそんなに楽しそう話せるのかが、わからない。
自らの命とすることを定めた相手が遠く離れて長い時をかけて修行しているとして。
そんな相手の名を軽々しく呼び、修行を妨げるものが居るとしたら。
それは全力でもって排除する対象になり得る。
イリキは小さく身震いして、改めてこの二つでありながら一つである“真名”をなにがなんでも記憶の奥深くに封印することに決めた。
「うん、そうだね。人よりも長い時を生きる“彼ら”の執着は、“想い”は、もしかしたら人よりもずっとずっと強いのかもしれない」
イリキの緊張感などかけらも気づかないコマは、少し眠たげな声で、でもね、とどこか期待に満ちた表情で続ける。
「だからこそ、“奇跡”が起きる」
その声は確信に満ちていて。
一瞬、呼吸を忘れてコマを凝視する。
「“奇跡”を、見たことが?」
「うん、あるよ」
慎重に問えば、コマはなんでもないことのようにあっさりと答えた。
イリキは、一度目を閉じてから、気を静めてコマを見つめる。
「コマ」
「なに?」
「私は“彼ら”の“真名”を呼ぶつもりはない」
コマの真っ黒な瞳が、まっすぐにイリキを見つめている。
「私が“彼ら”の“真名”を呼ばずにすむように祈っている」
“彼ら”の“真名”を呼ばざるを得ない状況にならないことを。
そう意思を込めて真剣につげれば、コマは深い感謝を示して、小さく頭を下げた。
「ありがとう、イリキ」
イリキはそんなコマを見つめ、そして、思う。
コマならば。
もしかしたら。
勝手に沸きあがってくる期待を押さえきれず、イリキはコマから視線をはずす。
枕の下に入れていた左腕を顔にあてて表情を隠し、仰向けになった。
「今日はいろいろありすぎて、疲れた」
コマに聞きたいことや、確認しなければならないことはたくさんある。
“穢れ”の正体についても、考えなければならないし、今後の旅程についても話し合わなければならない。
だが、今日はもう、限界だ。
「そうだね、僕ももう眠いや。おやすみ、イリキ」
「ああ、おやすみ。“夜の静けさと安息に眠る喜びを”」
疑問も、旅程も、期待も。
すべて丸投げして、今は眠ろう。
コマの同意を得たことを言い訳にして、イリキは全て明日に持ち越すことにして、目を閉じた。
―――
イリキはのちにこの日の事を思い出して深く深くため息をつく。
あり得ない事の連続で、イリキの通常の感覚は麻痺してしまっていたのだろう。
そうでなければ、気づいて当然のはずだった。
“彼”が助けを求めたその声を拾うことは、“口”や“言術士”では不可能だということを。
“耳”の能力を持つものであっても、その声を聞きとれるのはどれほどの“奇跡”か。
“彼ら”と信頼関係を築くことがどれほど困難か。
この時のイリキは気づかない。
そして、その“気づかなかった”ことこそが、イリキの人生で最大の幸運であったことを、この時のイリキはまだ知らない。