常識と非常識と気づかぬ幸運 ②
突然頭を抱えてしゃがみこんでしまったイリキは、しばらくするとなんだか悟りきったような目でミコトとコマを交互に眺めると、自力で立ち上がって、丁寧にミコトにお礼を言っていた。
なんだか、ふらふらしてたけど。
ミコトの勧めもあって、今夜はミコトが用意してくれた天幕で休むことになった。
暖かな天幕の中には、ふかふかの敷物と、二人分の寝具が用意されていて、それぞれ無言で寝具の中にもぐりこむ。
ああ、今日は疲れた。
そういえば、昨日は馬車の中で寝ていたから、いつもよりも睡眠が足りてないんだっけ。
馬車に乗っていたのが、ものすごく昔のことのように思えるほど、今日は密度の高い一日だった。イリキは馬車でほとんど眠れなかったみたいだし、だいぶ疲れがたまっているみたいだったから、もう寝たかな、と思ってちらり、と隣を見ると、左腕を枕の下に入れた横向きの状態でイリキがこっちをみていた。
青い瞳が、小さな明かりを反射して輝いて見えた。
「なぜ“彼”の手助けを?」
落ち着いた、静かな声。
小さくを潜めているのに、はっきりと聞こえてくる独特の美声に、目がくるり、と回る。
さっきも取っ組み合いになりながら話をしたけれど、その声の響きに含まれている質問の意図が変わっていることを感じ取って、コマはイリキと同じように右腕を枕の下に入れて横向きになった。
「聞こえたから。助けたいって、助けてあげたいって」
さっきまでみたいに、怒りに満ちた声ではなく、どこまでも静かな声だったから、答えるコマの声も小さくささやくようなものになる。
あの山で迷子になったとき。
コマは聞いた。
狂おしいほどに、切望する声。
そして、コマはいつだってこの声を無視することは出来ない。
「食料が尽きていた僕が、人の手を必要としていた“彼”と出会ったのは、本当にただの偶然で、お互いの幸運が重なったんだよね、きっと」
“彼”と出会ったおかげで、コマは空腹で倒れることなく、山で遭難することもなく、無事に旅を続けられて、“彼女”とも友達になれた。
“彼”は、水不足の状態が続いて弱り始めていた“彼女”へ、掟に背かずに手助けする術を得た。
「偶然と、幸運、か」
どこまでも静かなイリキの声は、何かを考え込むようなささやきをこぼした。
「そうだよ。それにね、前にも言ったけど、イリキと出会わなかったら僕は間に合わなかった」
イリキと一緒に来たから、間に合った。
これも出会いの偶然と、幸運に違いない。
「イリキはさ、ミコトの“真名”を教えたことを怒っていたでしょ? でももしあの時、ミコトを見つけられなかったら、取り返しのつかないことになってしまっていたかもしれない」
呼んでも、呼んでも、返事がなくて。
湖はすっかり干上がってしまっていて、泉も湧き出ていなくて。
“水玉”を渡したくても、それさえできなくて。
「僕は“彼”と約束したんだ。ミコトに“水玉”を渡すって」
あの“水玉”に、どれだけの想いが込められているか、知っていたのに。
ミコトに触れることでしか“水玉”を割れないようにしてもらったのは自分なのに。
彼女を見つけられなかった。
「ミコトにもまた来るねって約束したんだ」
湖の枯渇は、一度や二度“水玉”を運んだだけでは、補えなかったから。
泉の湧水が勢いを取り戻すまで、何度でも来ると約束した。
「僕はどうしても彼女を見つけたかった。何をしても、絶対に」
静かに強い光を浮かべている青い瞳を、まっすぐに見つめ返す。
「だから、イリキに“真名”を教えたんだよ。イリキなら、ミコトを見つけられると思ったから」
もっとうまいやり方は、きっとたくさんあっただろうけど、あの時コマが思いつく限りの最善の選択は、イリキにミコトを呼んでもらうことだけだったから。
その結果、ミコトは見つかったし、いろいろ危ない目にはあったけど、無事に“水玉”を渡すことができた。湖も元に戻ったし、ミコトも元気になった。
終わり良ければ、すべて良し、だ。
「あのね、イリキ。確かに、彼らにとって、“真名”はとても大切なものだよ。だけどね」
だから、コマはまっすぐにイリキを見つめたまま、にっこりと笑った。
「彼らには、もっともっと、大切なものがあるんだよ」
「・・・大切なもの?」
どこか警戒したように、何度も瞬きを繰り返しながら慎重に聞き返してくるイリキに、コマはふと、思いつく。
そうだ。
イリキに、とっておきの秘密を教えてあげよう。
「あのね、“水玉”って圧縮して小さくはできるけど、結局元になる量が増えたわけじゃないんだよ。もともとあった、そのままの量しか出せないんだ」
少し大げさなしぐさで泉と湖の方角に腕を振る。
「これだけの量の水を一度に移動させれば、自分の領域の力の源となるものが減っちゃうのに、それでも“彼”は“彼女”に水玉を贈った。彼らの掟に触れない唯人に託してまで、ね。“彼”はどうしてそんなに必死で“彼女”を助けたかったんだと思う?」
イリキは眉を寄せて、少し考えたあとに慎重に口を開いた。
「“彼女”が“彼”の“直系眷属”だからだろう?」
ああ、やっぱりわかってないんだ。
ハズレ、の意味を込めて首を振って、音を外に漏らさないための“場”を作り出すと、イリキがすばやく“場”を包み込むように新たな“場”を構築し直した。
使った“言”は同じものなのに、コマが作った“場”を紙箱だとするなら、イリキの作り出した“場”は鋼鉄。密度も密封度も桁が違う。そもそも、“場”を覆うよりもコマの“場”を壊してその上に作り直したほうがずっと簡単なはずなのに。
ここまでくると、羨望よりも呆れが先に来てしまう。
本当に、常識外れの“口”だ。
でも、これで安心して話せる。
コマはにっこり笑ってイリキのほうに少し体を寄せた。
「『水守の御子人』はね、今の修行が終わったら、」
わざと一呼吸分の間を入れて、正しく伝わるように言葉に意思を込める。
「『水守の命』になるんだよ」