背に腹は代えられない 22
イリキは、真っ赤と真っ青の両方になっているであろう、自分の顔色以上の色にしてやるつもりで胸倉をつかんでぎりぎりとコマの首を絞めていた。
首を絞めている自分の方が、よっぽど気が遠くなっているこの状況。
これまでの人生でも三本の指に入る生命の危機に、直面している。
――尊き御方。生きるもの、育つもの、すべての守護者にして主。天地と水を統べる、慈悲深き至高の存在。――
詩学で学んだ詩の一節が、頭をよぎる。
人よりもはるか高みに存在する“守護精霊”と一言で言っても、その力と地位は千差万別。
そのなかでも、水と土に関わるすべてを司り、すべての“守護精霊”が、頭を垂れる存在がある。
それが、“ミナツチノキミ”という二つ名で呼ばれている、この世を統べる一柱。
精霊たちが感謝の歌を捧げる、伝説の、存在。
そんな稀有な存在の“真名”を。
この子供は。
「部外者に教えていい“真名”じゃないだろうがっ!?」
「う、ぐぇっ」
“真名”は、その存在そのものを示すものであり、己が、己としてこの世に存在するための礎となるもの。
いくら他に聞こえないように“場”を作り出したところで、その名を持つ存在には、自らの“真名”が第三者に知られたことに気付かれないわけがない。
これが嘘や冗談ならどれほどよかったか。
だが、コマが告げた“真名”はそれを否定する。
目をそらすことさえ許さず、イリキに現実を突き付けてくる。
コマが告げたのは、正真正銘、本物の“ミナツチノキミ”の“真名”。
……このまま気絶して、ついでに頭を打って記憶喪失になってしまいたい。
たとえば知己を得た“彼女”の“真名”で呼びかけることならば、おそらくイリキにも可能だろう。それも、相当の覚悟と“彼女”を慕う眷属たちの予想外の行動に対する準備と警戒をしたうえでのこと。
“彼”の“真名”に至っては、ただつぶやくことさえ、命がけになる。
もし、“彼”の許しもなく、その“真名”を口にすれば、眷属たちのみならず、“彼女”のような“守護精霊”たちによって、存在そのものを抹消されることは、間違いない。
そして“彼”自身が、ただの人間に軽々しく自分の“真名”を呼ばれることを快く思わないだろうことも想像できる。
もしも何かの拍子にその名を口にしてしまったら?
無意識下にある夢の中でその名を口にしたとしても、それは報復の対象になりうる。
だからこそ、どうしてこの非常に危険な、人の手におえない存在の“真名”を軽々しく他人に教えるんだ、という怒りとともに、背筋が震えるほどに冷たくなる。
コマは。
いったい、どうして、どうやって。
この名を呼ぶ権利を得たのか。
コマが“真名”を口にしたとき、わずかにだが、確かに“場”が揺らいだ。
しかし、イリキが想像したような報復は、一切行われていない。
それは、コマが“彼”の“真名”を呼ぶことを“彼”自身から許されている証。
伝説として謳われている守護精霊の、世界の一柱たる存在の“真名”を呼ぶことを許される意味を、コマは理解していないのだろうか?
イリキは首を絞められて苦しがっているコマを見て、ひどい頭痛に襲われた。
誇るでもなく、罠にかけるのでもなく。
ただ、友人の名前を教えるように気軽に口にしたコマ。
信じがたいことだが、ほんっとうに、信じられないが。
この子供は、まったく、何も、わかっていない。
「い、イリキちょ、まっ、うぐぅっ」
知らず知らずのうちに、襟首をつかんだ腕に力がこもったのか、コマが顔を真っ赤にさせて必死に腕をたたいてくるのを見て、イリキは大きく息をつく。
苛立ちと怒りを腹の底から吐き出すと、腕の力を緩めた。
緩めるだけで、離しはしない。
こちらはすでに純然たる生命の危機に晒されているのだから、手加減も遠慮も必要ないし、今後のためにもイリキには知る権利がある。
「いったい、どこで、どうやって、“彼”と知り合った?」
「や、山の中で、道に迷っていたときに会ったんだよ!」
一言一言を強調して詰問すると、けほけほせき込みながら、くるり、と大きく目を回したコマは青ざめた顔で体を引こうとする。
それを許さずに揺さぶると、さすがに命の危機を感じたのか、早口で話し始める。
「“彼”も僕もお互いに困っていて、たまたま通りがかったのも何かの縁だから、助け合おうってことになって」
「たまたま通りがっただけで、伝説の“守護精霊”が頼みごとをするわけあるか!」
「そんなこと言われたって、頼まれちゃったんだからしょうがいないでしょう!? 彼らだって万能じゃないんだよ、しがらみもあれば、彼らだけの掟もあるし。切羽詰った状況で、関係ない第三者の手が必要だった時に、たまたま迷子になってお腹をすかせた僕が通りがかったんだよ! そりゃ頼みごともしちゃうよ、困ったときにはお互い様というか、藁にもすがる思いで強制一蓮托生? みたいな状況だったんだよ、察してよ!」
息継ぎもなく、一気に言い切って呼吸を乱しているコマを見下ろして、妙に冷静になった。
「つまり?」
「ご飯のお礼に、“水玉”を運ぶことになりマシタ」
・・・コマは、どこまで行っても、コマだった。