背に腹は代えられない⑳
日がすっかり傾き、夕闇から夜を迎えた頃、ようやくコマが目を覚ました。
イリキは“彼女”に許可をもらい、いつコマが目を覚ましても良いように、泉のある中島で野営の支度を整えていた。
コマと一緒に旅するようになってからは、可能な限り安全で快適な宿を取るようにしているが、もともと一人で旅をしていたときは、野営もよく行っていたから、必要な道具類はそろっている。
火を起こし、簡単なスープが出来上がった途端に覚醒するあたり、コマらしいといえばコマらしい。
「ミコトは・・・?」
泉からゆっくりと身体を起こしながら、視線が辺りをさまよう。
「先ほど、住処に戻られた。身体は、どうだ?」
どこかまだ気だるそうにしているが、苦痛の表情がないことを確かめながら尋ねれば、慎重に泉から上がって来て、確かめるように少しずつ身体を動かして確認している。
「まだ少しだるいけど、痛みはないみたい。・・・流石だなぁ」
小さく笑いながら、最後の一言は独り言のように小さくつぶやきながら、コマは小さく鼻を鳴らす。
その途端、どこかぼんやりしていた目が輝いた。
「ご飯!」
イリキが作っているスープと暖めているパンに気付いて、よたよたと火の傍に寄ってくる。
「まずは、その濡れた服を着替えてこい。その間にミルヒを焼いておくから」
朝の一食しか食べずに体力の限界を超えた状況にさらされ続けたコマは、腹の虫を盛大に鳴かせながら、悲壮な顔をした。
「僕の荷物、湖の向こう側においてきちゃったんだけど」
赤茶けた地面をさらしていた湖は、今は満々と水を湛えていて、コマの身長だと足がつかず、泳いで渡ることになる。
ただ立っているだけでふらふらしている今の状態では、取りに行けというのも無理な話だ。
「仕方ないな」
広げて乾かしていた自分の荷物の中から、ほとんど乾いた服を選んで投げ渡す。
「着替えておいで。食事にしよう」
イリキも今日はまだ一食しか食べていない。正直、かなり空腹だ。
最初に湖と泉にたたきつけられたせいで、イリキの荷物は全て水浸しになってしまっていたが、食料はコマが厳重に皮袋に入れていたおかげで被害に遭わずに済んだ。
本当に、食に関してはしっかりしている。
服を持って再びよたよたと火から離れていくコマを見ながら、イリキは皮袋の中からミルヒと呼ばれる手のひらほどの大きさの緑色の植物を取り出して、直接火にくべた。
しばらくすると、緑色だった表面が白く変色していく。
さらに白から少し焦げ目が出てきたところで、火から取り出すと、コマが戻ってきた。
「やっぱり大きいか」
「ん、でも暖かいよ。ありがとう」
明らかに大きすぎる服の裾を手で押さえながらコマが火の前に座る。
目を輝かせながらスープを見つめるコマに苦笑しつつ、器にスープをよそってパンを添えて手渡した。
ついでに、火から取り出したばかりのミルヒを布で包み、ナイフで上の部分を丸く切る。
とろり、とした薄黄色の液体から湯気が上がっているのを確認して、スープとパンで両手がふさがっているコマの小さな膝に布ごと挟ませてやった。
自分でも同じようにすると、冷え切った身体が、膝からじんわりと温もってくる。
「おいしい!」
ミルヒに浸したパンを一口飲んだコマは嬉しそうな声を上げた。
手に持っていたパンをスープにつけたり、ミルヒにつけたりしながらどんどん食べていく。
相変わらず、本当に旨そうに、見ていて気持ちいい食べ方をする。
「ミルヒの焼き具合が絶妙だね。僕はいっつも焼きすぎちゃうんだけど」
「しっかり焦がすよりも、少し焦げ目が出てきたくらいが調度いいんだ」
ミルヒは森のチーズとも呼ばれていて、動物の乳から作るチーズよりもとろみは少ないが、その分甘みが強く、消化にもいい。疲労回復の効果もあり、軽く、日持ちもするため、旅人の必携品のひとつだ。
焼きが足りないと青臭く、焼きすぎれば燻製にしたような煙臭さがついてしまうが、上手く焼けば割ったときにほんのり湯気がたち、甘く、食欲をそそる香りがする。
イリキもパンに浸して一口食べると、心地よい甘みが疲れきった身体に染み込んで行くの感じた。
思っていた以上に、身体は疲労を蓄積していたらしい。
コマのように疲労を誤魔化す“言”を使ってはいなかったものの、予想外の出来事と緊張の連続で、自分の身体の感覚が麻痺していたことに気付いたのは、“彼女”に泉での沐浴を勧められたときだった。
さすがに“彼女”の守護地であり、住処でもある泉で沐浴をすることは出来ないと固辞すると、では、その代わりに、と渡されたのが一杯の水。
一口水を飲むと、不思議と甘酸っぱいような、胸がすっとする味がしたあと、水に込められた何かがが身体に染み込んで行く。
それと同時に麻痺していた感覚が正常に戻り、全身のあちこちが痛んだが、水をすべて飲み干したときには、痛みは消えていた。
たった一杯の水で、この効果。
泉に浸りながら、それでも懇々と眠り続けていたコマは、その小さな身体にどれほど無理を強いていたのか。
「お代わり!」
満面の笑顔で満足げにスープの器を出してくるコマは、目が覚めたばかりの青白くぼんやりとした顔つきから、頬に朱を走らせて活き活きと目を輝かせている。
真っ先に食事を用意しておいて正解だったな。
苦笑を浮かべながら、残りのスープを全部コマの器によそってやると、目線だけで、「いいの?」と聞いてくる。
頷けば、また嬉しそうに食べるコマ。
二人で空腹を満たし、食後に泉の水で沸かしたお茶を飲んで一息つく。
コマが満足そうに吐息を吐いたのを見計らって、イリキはコマの真正面に座り直した。
まとう雰囲気が変わったことに気付いたのか、コマは急に背筋を伸ばしてから、まっすぐに見返してきた。
「さて。一から全部、説明してもらおうか?」
逃げや誤魔化しは、許さない。
知らず凄みを込めてしまった声に、焚き火の光を受けたコマの黒い瞳が大きくクルリ、と動いた。