背に腹は代えられない⑲
突然苦しみだしたコマは、“彼女”によって強制的に眠りに落とされた。
身体を泉の中に移され、水に浸かりながら苦悶の表情を浮かべたまま横たわっている。一応頭は水面から出ているが、後は完全に水に浸かっていて足のほうは少し浮いた状態だ。
突然悲鳴を上げて転げまわる姿には驚いたが、この状態にはイリキにも覚えがあった。
痛みや疲労を一時的に取り除く“言”。
今日一日であれだけ死にそうな目にあっていながら、どこにも不調がなさそうだったのは、単に“言”で身体を誤魔化していたからか。
イリキはそっとため息をついた。
おそらく、コマが一人で先に湖に向かったときに“言”を使ったのだろう。
つまり、イリキと分かれてそれほど時をおかずに“言”で痛みなり疲労なりを誤魔化さなければならなかったということだ。
どういう状況だったのかは知らないが、本当に、無茶ばかりしている。
あの“言”は、術者によっても反動の度合いが異なるが、イリキも子供の頃に“言”の反動で悶絶したことが何度かあった。
怪我をしても痛みをあまり感じないせいで、ひどい怪我をしても気付かずに悪化させていることもある。
あの痛がり様だと、どこかに大きな怪我をしているのかもしれないが、今は心配する必要はないだろう。
泉の水が、コマを癒している。
コマから“彼女”に視線を移せば、小さく頷かれた。
「お任せください。コマさまは生身の方、今は眠りが必要なのです。私のために、随分無理をしてくださいましたから」
まるで親しい友人のように笑う。
それが、あまりにも自然で、逆に違和感を感じた。
精霊の中でも“生霊”であれば、人とあることを好み、人と交わって生きていくものもあるというが、“守護精霊”は人よりも遥か高みにある存在。人に祭られることで“格”は上がるとされているが、“守護精霊”は本来、人を必要としない。
それゆえに、人と同じような姿をとりながら、人が持つような感情を持たない、はずだ。
そのはずなのだが、泣くコマを慰める様子や、その微笑は、“守護精霊”がもつ物にしては、やけに人間くさい気がした。
「あなたは“人”、ですか?」
神聖な雰囲気の中にも、親しみやすさがあり、つい疑問のままに口を突いて質問してしまってから、あまりに踏み込みすぎた質問だったことに気付く。
焦るイリキを気にする様子もなく、小さく首をかしげて見せたあと、小さく頷いた。
「“人”でした。今は、修行中の身ですが」
ある程度予想していたとはいえ、なんでもないことのように答えた、その内容に愕然とする。
「修行中とは、この泉の守護が?」
これ以上は踏み込んではいけない、と思いながら、気付けば質問を重ねていた。
「はい」
気負いなく、短く与えられた返答に、イリキはめまいがした。
泉の守護を修行と語るこの少女のような“守護精霊”は、更なる高みを目指している。
そのうえ、元は人であったということは、彼女を精霊に変え“修行”を与えた者が存在するということ。
それはつまり。
イリキは震える手でこぶしを握り締め、声を、絞り出す。
「・・・“ミナツチノキミ”に連なる方、なのですか?」
「まぁ、懐かしい」
意を決して“守護精霊”の中でも、水と土に関わるすべてを司るとされている伝説の存在の、その通称を口にすると、“彼女”は嬉しそうに微笑んで。
「我が主様の二つ名です」
とろけるように甘やかな声は、新たな衝撃をイリキにたたきつけた。
我が主様。
それが意味するのは。
“直系眷属”。
青ざめながら、イリキは泉の水で癒しを受けている小さな言術士に目を向けた。
コマ。
こんな短時間にもかかわらず、眉間に刻まれていた苦痛の皺がなくなり、安らいだ顔で眠っているコマを見て、叩き起こして襟首掴んで揺さぶってやりたくなった。
今すぐこの状況を説明しろっ!
「あなたも、ですね」
もう後でといっている余裕もなくなったイリキが、親の敵を見るような視線でコマを睨んでいると、“彼女”がぽつり、とつぶやいた。
はっとして、反射的に背筋を伸ばし、彼女に視線を向けると、穏やかな瞳とぶつかった。
「あなたもまた、魅入られているのですね」
イリキは肯定も否定もしないまま、ただ“彼女”を見つめた。
イリキの“真名”を知り、全てに気付いているであろう“彼女”に対して、イリキから言えることも言うべきことも何もない。ただ“ミナツチノキミ”の直系眷属であり、元は人だったという“彼女”の次の言葉を聞いてみたかった。
おそらくそれは、ひとつの指標となるだろう。
ただ見つめあうだけの時間が過ぎていく。
やがて“彼女”は、ふっ、と微笑んだ。
「どうぞ、今この時を。ご自愛ください」
今、この時を。
緊張に息を詰めていたイリキは、ひとつ息を吐いて澄んだ青い瞳に、小さく礼をとった。