背に腹は代えられない⑱
片手で握り込めてしまえるほどの小さな球体に変わった水を、目を見開いて見ているイリキの手のひらに転がした。
イリキは受け取った水の玉を慎重に手のひらの上で転がすと、そっと指でつまみ真剣な表情で観察する。
「・・・本当に、玉になっているんだな」
「きれいでしょ? 僕の“言”じゃ、これが限界だけど、アレンジ加えてもっと制約をかければ、量も強度も増すよ」
ちょうどイリキが指先に力を込めたところで玉が割れ、元の水量に戻った水が溢れ出し、イリキとコマの服の裾をぬらした。
もともとイリキもコマも全身ずぶぬれ状態だから、問題なし。
イリキは少し何かを考えるように、濡れた手をじっと見たあと、ああ、とつぶやいた。
「時々、コマが出して眺めていた玉が、水玉か?」
「うん、そうだよ」
移動中とか、寝る前とか、本当に時々しか出していなかったけど、特に隠していたわけじゃないから、イリキが気付いていても当たり前だ。
「ミコトの水玉はね、僕が作ったものじゃないんだよ。届けて欲しい、って頼まれたから、時々届けにきてたんだ。水玉はミコトが触れば割れるけど、そうじゃなかったら絶対に割れないようにしてもらっていたから、安心して運べたし」
何かに引っ掛けたり、寝ているときに潰して壊れてしまうようなら、とてもじゃないけど、これだけの水量は怖くて運べない。
だから、わざとミコトにしか割れないように特別に作ってもらっていたから、泉でミコトが見つけられなかったときは、本当に焦ってしまった。
「泉の水は、ミコト自身の力の源。それを増やすために水玉を預かってきたのに、僕には弱っているかもしれないミコトを見つけられなくて。だから、イリキを“呼んだ”し、ミコトを見つけてもらうために“真名”を教えたんだよ」
そうして探してみたら、“穢れもどき”に襲われるし、ミコトは“穢れもどき”に侵食されそうになっているし。
でも水さえあれば、少なくともミコトについた“穢れもどき”は払えることは確信していた。
「力の源である水は、水玉の中にある。なら、水玉をミコトに渡せれば、どうにかなると思ったんだ」
本当はあの時、コマは水玉を投げつけて、ミコトの身体のどこかにぶつけるつもりだった。
だけど、それ以上にミコトの動きが早くて、気付いたときには、目の前に牙が迫ってきていた。
「噛まれるよりは、丸呑みにされたほうが痛くなさそうだったし、確実に水玉をミコトに触れさせられるでしょ? だから、そのまま飛び込んだんだよ」
一か八かの大勝負。
どうなることかと思ったけど、意外と僕は運が良かったみたいだ。
「上手くいって本当に良かった」
うんうん、と頷きながら幸運を噛み締めていると、突き刺さるような視線を感じて、つい、反射的に顔を上げてしまった。
・・・顔、上げなきゃ良かった。
すぐ目の前に、鬼のような形相になっているイリキが仁王立ちしていた。
なっ、なんで怒ってるの!? 何を怒ってるの!?
気のせいか、イリキの背後に雷雲が立ち込めているような・・・?
一瞬で冷や汗をかいたコマが、思わず一歩足を引きかけたとき、ついに雷が落ちた。
「無茶をするにもほどがある!」
怒鳴り声まで美声なのは予想通りとはいえ、その声に込められた迫力にコマは一瞬ぎゅっと目を閉じて、小さく息を呑んだ。
「一歩間違えば、そのまま丸呑みにされていたぞ!?」
気迫のこもった美声に本気で怒鳴られて、胃がきゅうっと引き絞られるような、肺が圧迫されるような感覚が起き、コマはそれに眉を寄せて耐えた。
それでも、負けん気が強いコマは怒声にとまどいつつも、ムッとして怒鳴り返す。
「じゃ、どうすればよかったのさ? 僕は僕に出来ることをがんばったでしょうっ!?」
子供じみた反論だとは分かっているけど、頭ごなしに怒鳴られると反発したくなるのは当たり前だと思う。
・・・思うんだけど、イリキの米神に浮かんだ青筋をみて、コマは一歩後ずさった。
完全に説教する気満々にしか見えないイリキの形相に、セイランの“口”に反論したことを、ちょっと後悔した。
「無謀と努力は別物だ。そもそも・・・コマ?」
あきれるほどの美声を遺憾なく発揮して、本気で説教体勢に入ろうしたイリキの語尾が不自然に止まった。
ぐらり、と地面が揺れる。
あれ? イリキが斜めに見える? と思ったのは一瞬で、斜めになっているのは、自分の身体のほうだと、すぐに気がついた。
次第に身体が重くなり、忘れていたはずの疲労感や、痛みがゆっくりと戻ってくる。
塞き止めていた物が流れ出すような感覚。
「あ。しまった、時間切れ・・・いっ、うあぁっ!」
自覚した瞬間、それまで誤魔化して痛みと疲労が一気に押し寄せてきた。
普通なら、丸一日は痛みを誤魔化せるはずの“言”を使ったはずだけど、許容範囲を大きく超えた痛みや疲労が蓄積すると、誤魔化せる時間は圧倒的に短くなってしまう。
それだけの痛みと疲労が、一気に襲ってくる。
疲労困憊の状態で自分の意思では指一本動かせない。そのくせ、一度に体中のあちこちが攣って激痛に見舞われ、その痛みを耐えるために無意識に身体に力が入れば、ほかの部分がまた攣ってしまって、どうしようもなくなる。
「うぐっ、うぁああっ」
「コマっ、どうした!?」
いきなり苦しみだしたのを見て、イリキが焦ったように声をかけてくるのが聞こえたけど、それに返事をしている余裕がなかった。
痛い、痛い、痛いっ!
立っていられなくなって、地面を転がるけど、それがまだ気付いていなかった怪我を圧迫して、さらなる激痛が襲ってくる。
全身が痙攣し、脂汗が止まらない。。
いっそ、気絶したいっ!
あまりの痛みに気が遠くなるのに、その痛みのせいで意識が引き戻されて気絶することも出来ず、コマは呼吸もままならなくなっていた。
浅く苦しげな呼吸を繰り返しながら、生理的な涙を流し、声にならないうめき声を上げながら転げまわるコマに、“彼女”がゆっくりと頭を近づける。
「『眠りなさい』」
その優しい声に、一瞬激痛が遠ざかる。
・・・ありがとう、ミコト。
コマは心の中で御礼を言って、ようやく意識を手放した。